真綾の想い_1
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洗面所の鏡の前に立つと、何だか少しだけ大人になった自分がいた。
鳥須真綾は、今日から通うことになる中学校の制服に身を包んでいた。ちょうど着替え終わったところである。買ってから、サイズチェックに一度着てはいたが、この門出の日に改めて着ると、気持ちもひとしおに輝かしいものである。ふと、こんなにキラキラした自分を見せたいという気持ちが芽生えた。
洗面所からリビングへと向かう。
「パパ?」
と声をかけ、ひょっこりと身体を現すと、ダイニングテーブルでコーヒーを飲んでいた父がこちらを見た。
「どう? 私の制服姿」
真綾はその場でくるりと回ってみせる。セーラー服のスカートがふわりとなびいて、ゆっくりともとの形に舞い戻った。
「似合ってるじゃないか」
父は朗らかに応える。真綾ははにかんだ笑顔を見せた。胸の奥がすうっと明るくなるのを感じた。
「ほんと、見違えたね」
父の隣で、母がにっこりと笑って言った。その時、真綾の心に少しだけどんよりと雲がかかるのを感じた。よくない心境の変化であることは自分でも分かっている。真綾は自分の気持ちがばれないように、笑顔を崩さないように努めた。
「ありがとう、ママ」
真綾はテーブルについた。プレートの上にはトーストと目玉焼き、サラダが乗っている。今日の朝ご飯だ。食べながらも、彼女は考える。大好きなはずの母に対して、どうしてこんな気持ちになってしまうのか。この歳になってうすうすその理由が分かり始めてきた。それは、母には何の責任もない、自分のわがままに他ならない。強いて言うなら、こんな素晴らしい両親の間に生まれてきた幸運こそが、まさに呪いだったのだ。
通学路は、まるで命の誕生を祝福するかのように、まばゆく明るかった。
真綾は思わず目を細めた。目に入る光の量が多すぎたわけではなく、感覚的に眩しいと感じたのだ。泥水のように濁った今の自分には、世界は素敵で明るすぎた。
「おっはよー!」
と甲高い声がして、いきなり背中にどかりと衝撃があった。瞬時に、真綾には何があったのかが分かった。振り返ると、思った通りというか、ショートヘアの少女がべったりとのしかかっていた。幼馴染の鶴洲愛実だった。
「重たい、降りて」
真綾が落ち着き払った様子で言うと、愛実は素直にそれに従った。彼女も、真綾と同じセーラー服に身を包んでいる。
「おはよ」
と真綾は素っ気なく言った。愛実は口をとがらせた。
「元気ないなぁ。せっかくの新学期、しかも今日から中学生。パーッといこうよ、マヤー」
愛実はいつものニックネームで彼女を呼んだ。
「進学なんてただの通過点だと思ってるから、別に嬉しくもなんともないよ、アミー」
真綾も呼びなれた愛称で返す。ニヘッ、と愛実は笑顔を浮かべた。
「私はすっごい楽しみだよ、新しい学校。さ、早く行こうよ」
「はいはい」
真綾は歩き出した。愛実も並んで歩きだす。
「マヤー最近、変わったよねー」
「何がよ?」
「なんか、妙に落ち着いちゃったというかさ――」
「そう?」
と、真綾は返したが、確かに愛実の言う通りかも知れないと思う。以前、自分はどちらかというと快活なタイプの子供だった。愛実と一緒に、色々はしゃぎまわったものだ。ふたり揃えば、アクティビティに動き回り、それなりにも無茶はやったものだった。しかし、今の真綾は自分でもやけに物静かになったと思う。もちろん陰気というわけではないが、昔のお転婆さはすっかり影をひそめてしまっていた。
「なんかつまんなーい」
愛実は手を頭の後ろで組んで言う。
「そんなこと言っても、私たちもう中学生だよ。いつまでも馬鹿やってられないよ」
「だから髪型も変えたってわけ?」
と、愛実は言う。真綾は、これまでの前髪を下ろしたヘアースタイルから、髪を中央で分けおでこを出すスタイルに変えていた。髪型を変えたことに関して、さほど大きな心境の変化がある出来事があったわけではないが、心機一転、イメージチェンジしたい、という気持ちがまったくなかったわけではない。そういうところに気づくあたり、能天気に見えて、愛実は見るところは見ているのだ。
「アミーが子供すぎるんだよ」
真綾は返した。
「子供だっていいよーだ。私は私の気の向くままにやるだけだもん」
「アミーさ、誰かを好きになったことある?」
唐突な質問だった。愛実は一瞬キョトンとした顔を浮かべた。
「――へ? そりゃあ、もちろん。お母さんのことも、マヤーのことも、マヤーのお母さんのことも大好きだよ」
何を当たり前のことを聞いてくるのか、というような顔で愛実は答える。
「そうじゃなくて――たとえば――男の人を好きになったことは?」
「うーん……? どうだろ」
愛実は真綾とは反対側の空を見上げた。どんな顔をしているのか、真綾からは分からない。
「――分かんないなぁ。うちにはお父さんいないし」
「そっか……」
愛実は相変わらず、肉親や知り合いの観点でしか答えないのだった。愛実には少なからずとも恋愛というものへの観点はないのだろうか。とはいえ、真綾自身も誰か好きな男子がいるわけではなかった。真綾の覚えている限り、以前同じ世代の男の子が好きだったという記憶は、幼稚園の頃までさかのぼる。サッカーが得意な子だったが、別の女の子と仲がよく、真綾とはあまり遊んだりすることはなかった。真綾もそれでも仕方ないと思っていて、その男子に想いを告げることもなく、幼稚園の卒園とともに、その子と会うことはなくなってしまった。
真綾に慕う男性がいるとするならば、それは本来、恋愛対象とはまったくかけ離れた相手といってよかった――。