プロローグ
愛稀にとって、家族は幸せそのものだった。
生まれてからずっと、彼女は孤独の中にいた。
彼女は生後間もなく両親に捨てられ、3年間施設で過ごし、その後子供のいない夫婦に養子にとられた。義理の両親は、自分のことをとても愛してくれ、大切に育ててくれたとも思う。愛稀も彼らのことが大好きだった。けれど、どこか本当の子供じゃないという負い目を、心のどこかで感じずにはいられなかったのだ。その後、実の父親と再会し、妹がいることが分かっても、ぽっかりと空いた心の穴は満たされることはなかった。
であるからして、愛する男性と結婚し、子供をもうけられた今の状況は、その虚しさを埋められるだけの大きな歓びだった。本当の家族は、彼女にとって十二分すぎるくらいの幸せを与えている。
しかし、そんな幸せの中にも、どうしてもほころびはできてしまうものである。
とりわけ、子育ての悩みというものは、想像以上に大きなものだった。
愛稀と旦那の凜との間には、ふたりの子供がいる。小学校6年になる真綾と、幼稚園の年長になる政だ。もちろん、どちらもかけがえのない自分たちの分身だ。けれど、可愛いと思うが故に、いろんな問題点も見えてくる。
手がかかるという意味では真綾より政の方が厄介だった。
政は生まれた時から、どういうわけか難しい子だった。上の真綾が手がかからなさすぎたのも、そう感じる一因なのかも知れないが、とにかく両親への反発が多いのである。特に、父親に関しては、敵意むき出しの突っかかり方をすることが多かった。父に対する対抗心がそうさせるのだろう。しかし、寡黙で落ち着いた性格の凜は、政の反抗に対しても、軽く受け流すかその場でいさめる程度で、それ以上事を荒立てることはなかった。うまく大人な対処をしているといっていい。けれど、それでも愛稀は、そんな父子の姿を見るたび、悲しい気持ちになってしまうのだ。どうして血のつながった家族同士、仲良くできないんだろう――と。
「はぁ――どうしよっかなぁ」
ソファでため息をつきながら、愛稀は彼女特有の子供っぽい口調で言った。
「何のこと?」
隣に座ってテレビを見ていた凜が訊いてくる。今は夕食後の団欒のひとときだった。子供たちは、それぞれ自分の部屋に入っている。
「政のこと」
愛稀は言った。
「政がどうかしたのか?」
「これから、どう育てていったらいいのかな、って。だって、来年から政も小学生だよ。あんなので、学校でうまくやっていけるのかなぁ」
凜はソファで前かがみになり、顎に自分の両手をあてた。
「うん――そのことなんだけど、僕なりに考えていることがあるんだ」
「何?」
「留学させようかと思っている」
「留学!?」
愛稀は少し声を大きくした。
「アメリカに僕の叔父がいることは知っているだろう」
「そうだったね」
「叔父さんに頼んでみたんだ。政をそちらの家にホームステイさせてもらえないか、って。そしたら、返事はOKだった。『政くんが望むのなら、ぜひ来てもらって構わない』ってさ。もしそうなったら、向こうの学校にも通わせるつもりだ」
「でも、どうして急に留学なんか……。第一、政はまだ6才だよ?」
「政は早く自立したいんじゃないかと思うんだ。その理由が、僕への反発心であっても、それは構わない。それならば、外の世界を知った方が彼のためになると思う」
「……でも、やっぱり心配だよ」
と言って、愛稀は凜の方に自分の頭を預けた。不安を委ねるように、彼の肩に自分の頬をすりすりと動かす。彼女は、いつでも旦那とのスキンシップを好んだ。楽しい時は楽しい気分を、つらい時はつらい気持ちを彼に委ねる。そんな時、彼は黙って、それを受け入れてくれるのだ。彼に触れている時間は、彼女にとって安らぎのひとときだった。
「僕も大学院時代、アメリカに1年ほど留学したことがあるだろう。あの時の経験はとても大きなものだった。政には、早いうちにそれを経験させてあげたいんだ。とはいっても、行く行かないを決めるのは、政だけれどね」
「うん……」
愛稀は応えたが、それでも留学について納得しきれたわけではなかった。かわいい子には旅をさせよというが、それを推奨するのは父親の性に違いない。そして、そんな時に不安になってしまうのは母親の性だろう。だが、夫の話に賛同できないかといえば、それも違った。彼の意見を尊重したいし、仮に政がそれを望むのだとしたら、それも応援してあげたい。愛稀は胸の中に交錯する複雑な想いを、凜に託すべく、目を閉じた。
その時――、
「パパー!」
と元気のよい声がして、どしんとソファが揺れるのを感じた。愛稀はびっくりして、凜の身体から離れ、反対側のソファの手すりによりかかった。
見れば、そこにいたのは、目に入れても痛くないほど可愛らしくもあり、もうひとつの悩みの種でもある、自分の娘だった。真綾は凜の腰のあたりに手を回して、べったりと彼に抱きついていた。
「びっくりした――真綾いきなりどうしたの?」
真綾は母を見上げ、えへへ、といたずらっぽく笑った。その表情はお転婆娘という言葉を彷彿とさせる。実際、真綾は幼いころから快活な子供だった。
「べっつにー?」
真綾はおどけた口調で言う。
「真綾、宿題は終わったのか?」
父親の凜が尋ねる。真綾は上目づかいで父の顔を見上げた。
「あんなの、パッパと片づけちゃったよ」
優等生っぽい頼もしい言葉を真綾は口にした。実際、真綾は成績のいい子供だった。
「だから、ね、私もパパとママの間に混ぜてよ。ねえパパー」
真綾は自分の顔を、ジーンズごしに父の膝に押し当ててすりすりとさせる。それから、目を丸くして自分を見つめる母に再度視線を送って、にっこりと笑った。
「パパ、遊んでよぉ」
真綾は言うと、今度はまた父親のジーンズのある部分に指をあててツンツンとした。その場所は、具合の悪いことに、ちょうど股間のあたりだった。
「こら、真綾!」
たまらず愛稀は真綾に怒りの声を浴びせた。さすがの凜も、何も言えずに黙って真綾を見ている。真綾はキョトン、とした顔で母を見た。
「ママ、どうかしたの?」
「パパのそんなとこ、触っちゃダメ。そこは男の人の大事な部分なの!」
「えっ――でも……こないだ、ママはパパのここ、触ってなかった?」
「ひえっ」
愛稀は思わずひきつった声をあげた。めまぐるしく視線が動く。どこで見られたのだろう――などという思いが、頭の中を駆け巡った。再び真綾に視点を戻し、少し声を荒げた。
「そ、それとこれとは話が別!」
「どうして?」
「どうしても! 真綾にはまだ早いの!!」
真綾は合点がいかなさそうな顔で首を傾げてみせた。そんな真綾に、父親の凜はぽんと頭に手をやった。
「真綾、ママの言うことをちゃんと聞きなさい」
「うん」
真綾は唇を尖らせて父から離れた。
「部屋に戻ってなさい。いいね?」
真綾は残念そうにひとつ頷くと、部屋に戻っていった。愛稀がパンパンと自分の顔を両手で叩く。
「……私顔、真っ赤になってない?」
「問題ない」
凜は短く言った。愛稀はぱちくりと大きく見開いた目を二度ほど動かして、凜を見た後、両手を頬から離した。
「ああ、びっくりした……政もあれだけど、真綾もちょっと問題よね」
「どこが?」
と、凜は聞いてくる。
「凜くん、娘にあんなことされて、何とも思わないの?」
「単にふざけてるのかな、と思ったけど」
がくっ、と愛稀は力が抜けるのを感じた。どうにも彼は、特定の関心ごとにしか目を向けないきらいがある。まあ、余計なことに頓着しないという意味ではいい部分ではあるのだが、あまりに無頓着なのも考えものだ。
「まあ、確かに真綾、昔からあんな感じだったもんね。でも、そろそろ反抗期ってものがあっても、おかしくないんじゃないかな」
愛稀は言った。そろそろ――というより、遅すぎるくらいだとも思う。育児の本などで調べてみれば、反抗期というものは、小学校に入る以前から、徐々に段階を踏んでやってくるものらしい。それが、真綾ときたら、幼少の頃から両親との関係性が変わらないのだ。政が反抗心の塊だとしたら、真綾はその真逆といってもよかった。
「私ね、最近になって、真綾って無理をしてるんじゃないかな、って思うの」
「無理? なぜそう思う」
「いつも無理にでも私たちの中に入ろうとしていたような気がする」
愛稀は旦那と自分を交互に指さして言った。
「そうなのかな」
凜は宙を見上げた。彼なりに娘の動向を思い返しているらしい。
「それって、何かしらの理由があったんだと思うんだ」
「どんな?」
「予想でも立てられない?」
「すまない」
愛稀は鼻でひとつ息をついてから言った。
「多分、私たち夫婦の関係がとても気なるんだと思う。ぶっちゃけて言っちゃうと、嫉妬してるのかも」
「嫉妬? 僕たちにか」
「もっと言うと、その相手はおそらく私」
「……まさか。君ともとても仲がいいじゃないか」
「表面上はね。でも、たまに、私に対抗意識燃やしてるのかな、って思うこともある」
先ほどの一件もそうだ。彼女は、寄り添っている両親に割り込むように介入し、夫婦だからこその行為を、その母親の目の前でやってみせたのだ。本人は何食わぬ顔をしていたが、あれは意図的なものだったのではないか、とも思えなくもない。
「考えすぎだろ」
「ううん、きっとそう。……真綾、凜くんに父親以上の感情を持っている気がする」
愛稀は少し言いにくそうに言った。
「――エディプス・コンプレックスってやつか」
凜は腕を組んで言った。エディプス・コンプレックス。幼少期の子供が、異性の親に対して肉親以上の感情をもってしまうことを指す。
「うん、政にもたぶん、そんなところあるけど。真綾はもっと強い。今でも、その辺の気持ちが、幼少期と変わってないんだもの。そして多分、反抗してないように見せかけて、実は私に反抗しているんだと思う。本人に自覚があるかどうかは分からないけれどね」
「…………」
凜は腕を組んだまま、再び視線を宙に浮かして、しばし考え込んだ。それから、ゆっくりと口を開いた。
「まぁ――とりあえず様子見ってことでいいんじゃないか。そのあたりの精神的な成長が、一般より遅いっていうのもあるかも知れないが、人それぞれってこともあるだろうし、大人になるにつれてそのへんも解消されていくんじゃないのかな」
「なんか煮え切らないなぁ――」
嘆かわしい気持ちを愛稀は口にした。凜は穏やかに微笑みながら言う。
「仕方ないさ。いまに時が解決してくれるよ」
「だといいけど」
愛稀も微笑み返した。子育ての問題は山積みである。先が見えなくて悩むことがあっても、未来を信じて、子供たちの成長を見守ること。それが親の務めだ。