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申す申す、と問ひしこと  作者: 佐々森渓


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3/3

角結び

 その日は清清しい気分だった。

 久方ぶりに髪を洗って、香油を塗ってもらって。繋いでもらった角を、髪と同じくらい輝くように手ぬぐいで磨いて。

 少し(べに)を差したりなんかして、ちょっとだけ背伸びをして。また、同じように結んで貰うために、お雪は勇之助の元へと向かった。

 いつもいつも、角を折った後はやんちゃした風に見せるために体を汚してあったから、こんな風に綺麗な格好で会いにいくのは初めてなのだ。

 意識したり、してくれるだろうか? いいや、そんな色気が無いことは、わかっているのだけれど。

 ただ少し期待してしまって、店の前でも、手鏡で前髪を整えたりしてしまって。いつものように、上手くできないまま、彼女は店の戸を開いた。

 ――休業中、と、そんな文字が掲げられているのにも気づかないで。

 ――何か、店そのものが違和感を放っているのにも気づかないで。

「ユーの字! また結んでもらいにきたよ!」

 しかし、開いたその先にはがらんとした空間が広がっているだけだった。

「あれ?」

 いつもなら、キセルを吸っているはずの勇之助の姿がない。

 家を間違えたかと一歩戻ってみれば、たしかに幟が出ている。そこでようやくお雪は休業の文字に気づいた。休の字だけ見て、休憩だと思い込んでいたのだ。

「休みって……あいつどうしたんだ」

 風邪か何か引いたのだろうか? いや、ここは自宅も兼ねているはずだし、少し不躾になるが上がらせてもらおう。

「うん、拗らせてると困るもん」

 言い訳のように口にしながら、家の中に入る。

 改めて家の中に入ってみると、つん、と鼻をつく異臭があることに気づいた。それは、彼に染み付いた糊の臭いとは違う、何日も風呂に入れないでいた人が漂わせているような、そんな臭いだ。

 匂いには気をつけている彼が、こんな悪臭を放置するはずがない。風邪で倒れて長々と床についているのだろうか……?

 心配を膨らませながら、診察室を兼ねている土間から勝手に次の間へ入ると、二階部分に繋がる階段が下りていた。どうやら、勇之助は二階にいるようだ。

 ここまで来て帰るという選択肢は彼女にはない。人の命が懸かっているのだ、と言い訳をするように小さく口にして、階段を登り始める。

 一段一段と登るにつれて臭いがきつくなる……確実に誰かいる。あるいは、死体が。

(ユーの字!)

 不安で、足を滑らせそうになりながらも、遂にお雪は階段を登り切る。


 そして、外からの風が吹き込むその部屋に。

 明るさに反して、薄暗い雰囲気のするそこに彼はいた。


 黙々と文机に向かい筆を走らせるその背は、狂気に満ちている。丸めて投げ捨てられた多量の紙が床の上に転がっていた。

「ユーの字?」

 恐る恐る、声をかけた。だが、彼の耳には届かないのかその筆が止まることはない。

 何を書いているのだろう……不躾だとは思ったが、放られたうちの一枚を手にとって広げてみる。

 そこにあったのは、波紋だ。水面を走る波濤を抽象化したもの。その山谷の大小と、線の太さが異なるだけのものが、いくつも紙の上で踊っている。

 その違いはよくわからない。彼にしか理解できない差異があるのだろう。その何かが気に入らなくて、彼は紙を放り続けている。

「ユーの字!」

 怖くてたまらなくて、叫んだ。

 すると、ようやく気がついたのか勇之助が振り向いてくれる。

 無精髭がボーボーに伸びた、酷い顔だった。いつから寝ていないのか、目の下には濃い隈が浮かび、その眼窩は深く落ち窪んでいる。

「ん? おお……なんだ幻覚か。今欲しいもんが目の前にいるわけないもんな」

 体はそんな有様なのに、声だけがいつもの調子だった。

 いったいどうしてこうなってしまったのだろう。あの女に会って、彼は狂ってしまったのだろうか?

 やはり白綺の狂気は伝染するのだろうか?

「それにしちゃ、なんか今日はやけに綺麗だな。まあ、それが欲しいんだからそれもそうか……」

 勇之助の言葉はわけがわからない。欲しい、と言ってくれていることは嬉しいが、それは、自分ではなくその向こうにある何かに言っているだけでしかない。

 彼をこうした何かに、自分が……自分の何かが必要なのだ。

「まあいいちょうどいい。角を見せてくれよ……彩角なんてもう何年もしてないから、やっぱ頭の中だけじゃ限界が……」

 立ち上がろうとした勇之助がくらりと揺らいで倒れた。

「あれ」

 そんな自分に驚いたという声をあげた彼に飛びついて、お雪は泣き始める。このままでは彼は死んでしまう。どうにか、自分が引き戻さなくてはならない。

「勇之助!」

「あれ、お前、幻覚じゃ? なんか、あったかくて柔らかいな」

「いいから少し寝て、どうせ食べても寝てもいないんでしょ」

 なんなら気絶させるから、と拳を振り上げると、顔を強張らせた勇之助が頷きを返してきた。

 はぁとため息を吐いて彼の体を持ち上げると、酷く軽くなっている。悪臭を感じながら彼を布団に横たえらせ、寝入ったのを確認するや、お雪は諸々の準備を始めた。

 何が彼を狂気に引き込んだのかはわからない。それは、後で訊けばいい。ともかく、今は彼を生かさなくては。


 彼女は走る。愛しい男の命を繋げるために。


 ***


 勇之助が意識を取り戻したのは、夕方になってからのこと。一眠りするだけでかなり顔色が回復するのだから、彼もまだまだ若いのだろう。

「あ、起きた? よかった、息があるのはずっと確かめてたんだけど……目を覚まさないかと思った」

 ぐすり、と枕元で涙を浮かべるお雪に、彼は何が何だか理解が追いつかない。

 倒れる間際にお雪の幻覚を見たような気がしていたが、どうやら本物だったらしい。

「待ってて、滋養のある汁物を用意したから持ってくるね」

「お、おう」

 階段を飛んで降りていったお雪を見送ると、少ししてとてもいい匂いのするお鍋が運ばれてきた。白濁とした汁が波波と満たされたそれは、彼女のいう汁物なのだろう。

 数日ぶりの食事のはずだが、これなら体も驚きはすまい。

 ふーふーしようか?と甲斐甲斐しく世話を焼こうとする彼女を制して、勇之助の汁を啜った。体に染み込むような味が、たまらなく美味だった。

「口にあったようでよかった……作り慣れてないから、失敗したらどうしようかと」

「花嫁修行で、か」

「まあ、風邪を引いた時の秘伝ってやつ? なんでもやっておくもんだね」

 ケタケタ笑うお雪につられるように、勇之助の笑った。

 それからたっぷり時間を掛けて汁を飲みきると、臭くてたまらないからと体を拭うよう迫られた。恥ずかしくてたまらなかったが、強引に押し切られるまま、体を拭かれてしまった。

「ねぇ、なんでこんなことしたの」

 さり、さり、と湯に浸した手拭いで背中を拭いながらお雪が問いかける。少し考えるような唸り声をあげて、勇之助は答えた。

「俺な、昔は彩角師目指してたんだよ」

「最初から接ぎ師志望じゃなかったんだ」

「大半のやつはみんなそうだよ。で、どっかで壁に当たって、諦めて繋角に逃げようとして、こっちでもダメでってのが最悪のだな」

 幸い彼は繋ぐことには才能があった。そして、運もあった。上手いこと客足が途切れることなく、今に至るまで食えている。

「ユーの字は、なんで諦めたの」

「流水って知ってるか? ……まあ、知らないはずはないと思うが」

「うん。すごい上手い人、だよね。アタシの友達にも、通ってる人がいる」

「俺、あいつの兄弟子なんだよ。おんなじ師匠に……翁に師事して、名前は貰えたけど、俺は諦めた」

 弟子を取らないことで有名な師匠が、珍しく二人も弟子をとったかと思えば、下はあっという間に兄を抜かして、水の字を授かるほどの天才だった。

 流水という名を授けたと聞いた瞬間、勇之助は何もかもを否定された気がした。

 水派の職人にとって、それだけ水の字は重く、希うものだ。

 それでも、すぐ投げ出さずに名を貰うところまで励んだのは、彼なりのけりの付け方だったのだろう。

「ユーの字のは、なんて名前なの?」

晩靄(ばんあい)。そういう彫りをするって。でも俺はどうせなら雲の字が欲しかった」

 与えられる名は、水の字以外に優劣はない。

 水の字を授かれるほどの才はないことはわかっていた。ならばせめて、師匠の字を貰いたかったのだ。

「俺の彫りは、俺だけのものだ。たしかにそうだ。でも、俺は……あいつの彫りを見て、とっくに諦めてたんだよ」

 これがすぐ下にいるなら自分は無理だろう。そう考えて、名前をもらってすぐに彩角はしないと申し出た。

「あんな、水が流れるみたいになんでも簡単に、元々そこにあったみたいに彫れるやつなんて……怖くてたまんねぇ。しかもあいつは手が早いんだ。恐ろしく丁寧なのに、ともかく早い。だから、勝てないと思った」

 翁は何かを言おうとしていたけれど、届かないことがわかっていたのか、彼の知りうるすべての繋角の技法を教えた後、別の師匠を紹介された。

 そして今がある。

「まあ結果としては良かったとは思うよ。実際、数を彫ることを考えると、俺は遅くてな。とてもじゃないが食っていくのは辛かったろうしな」

 そう思って、何もかもを捨てたはずだった。

「……だけど、あいつが描いた下書きを見せられて、今すごく誰かに彩角をしたくてたまらない。俺の、俺だけの彫りを、あんなにも愛されるくらいの彫りを生み出したくてたまらない」

 一度落ちたものを、もう一度繋いで使いたいと言わせるくらいのものを。

「それ、アタシじゃ」

「言うなよ」

 お雪の言葉を遮って、勇之助は首を振る。

「それは、だめだ。言っちゃだめだ」

「なんで! 大好きなユーの字のためなら、アタシは……」

 続く言葉を遮るように、勇之助は大声で告げる。

「俺から言うために決まってるだろ。なんで女に先に覚悟を決められなきゃならんのだ」

「えっ」

 お雪は、突然違う方向から殴られたような気がした。

 背を撫でられていたせいで、裸体を晒したままの勇之助が振り向く。

 強烈な熱意を閉じ込めた眼がそこにはある。自分だけを見つめている、力強い瞳がそこにある。

「俺の彫りを、掲げちゃくれないか。恥ずかしい彫りかもしれん、稚拙な彫りかもしれん。だが、俺の、俺の色をさすに足るものにする。それをお前の角に刻ませちゃくれないか」

 それは告白だった。血肉を交わそうという愛の告白よりも深く純粋な、魂の告白だった。

「は、はい! ふ、ふつつか者ですが、よ、よろ、しくお願いします……」

 真っ赤になってお雪は頷いた。天にも昇る心地だった。

 最高の、一日、だった。


 ***


 お雪は彩角をされるのに慣れていない。それは、紅楼家が折れやすい角を持っているというのもあるし、彼女がやたらと角を折るというのもあった。

 そのせいで、彼女が受けたことのある回数は片手で足りるくらい。それも記念ごとの時ばかりで、お抱えの、熟練の彩角師が担当してくれたくらい。自分から職人を選ぶのは、初めてのことだった。

 もちろん勇之助のことは信頼している。何度も角を繋がせた相手なのだから、失敗するなどとは到底思っていないし、よしんば誤ったとても容易に修復が可能だろう。

 だから、彼女が緊張しているのは、好きな相手にされるという状況のせいなのだ。

「始めるぞ」

「う、うん」

 ――あれから数日して、お雪は勇之助の彩角を受けることになった。その間に体力を回復させ、方々の知り合いから道具を借りてきた勇之助に出迎えられて、いつものように診察台に横になった。

 そう、そこまではいつもやっていることだ。違うのは、ここから先。

 勇之助がどこからか借りてきた仮面を被せられて、視界が真っ暗になる。顔を傷つけたり、目に削り粉が入らないようにするためのものだが、その闇が少し怖かった。

「大丈夫だ。俺がやるんだから、そんな風に震える必要はない」

「でも……」

「惚れた男を信じろ」

「……うん」

 はぁー、と深呼吸して、彼の手に全てを委ねる。

 独特の匂いが鼻に届いて、角が柔らかな布で包まれたのを感じる。折れることがないように、曲がることのないように、絶妙に脱力した力加減で、ゆっくりと角が拭われていく。

 角はここに来るまでに磨いてきてあったが、それは日々の手入れの範囲を超えないもので、彩角をする時のようなキチンとしたものとは違う。

 指先でしか感じない、小さな小さな窪みについてしまった汚れまでもが拭われていくような感じがする。角そのものに感覚はなくても、伝わってくる振動が、その繊細さを物語っている。

 そんなところにまだ汚れが残っていたんだ、と思うのと同時、そんな汚れを彼に気づかれてしまうという恥ずかしさもあった。

 けれど、それ以上に……。

(き、気持ちいい……)

 思わず声が漏れて赤面する。浅い笑いが降ってきて、「大丈夫だ。そういうものだから」と肯定をされる。

 こんな声、お抱えさんには出したことがなかった。それは、まだ自分が幼かったからなのだろうか。それとも、してくれているのが彼だからなのだろうか。

 わからないまま掃除が終わると、綺麗になった角の上を指先がはう。布越しではわからなかった窪みやたわみをたしかめている。

 ちゃんと好き嫌いせず食べているから、ボコボコでみっともないなんてことはないはずだ。けれど、じぃっと裸体を凝視されるのにも似た恥ずかしさを覚えてしまう。辛い、苦しい、早く次に行って欲しい。

(こんな、こんなに、角に触られるって恥ずかしいことだったんだ)

 勇之助の前で全裸になるのは、きっとそんなに恥ずかしくはないだろう。上流階級の子として、他人に裸を見られるのには慣れている方だから。

 けれど、角は違う。ここに触れたことのある人はほとんどいなくて、化粧なんかでは隠しようもないお雪の全てが語られている。

 それを見抜かれてしまうのが、とてつもなく、恥ずかしい。

 少し呼吸の荒くなった彼女を置いて、勇之助が紙を広げる音がする。あれでもない、これでもないと唸る彼に少し考えていたことを口にする。

「ねぇ、それってあの紐と組み合わせるんだよね?」

「ん? ああ……ああ? ああ、そうか、そうだな。……そうだな!」

 紐による角化粧と組み合わせるなら、彫りはそれと調和するものでなくてはならない。どうやらお雪の言葉で勇之助の中で欠けていたものが嵌ったようだ。

 彼の力になれたことを仮面の下で喜びながら待っていると、今度は指とは違うものが触れるのを感じる。

 筆だ。ぴちゃりと音をさせたそれが、角の上を滑っていく。彼の考えた波紋が、自分の上に広がっていく。

 他人からよく見える前は力強く、見えにくい裏側は優しく。それを、左右で繰り返した。

 手書きだけど、たぶんその波紋は鏡写しのようにズレなく左右の角に描かれたことだろう。これから、それを削っていって、自分の角に彼の、彼だけの彫りが刻まれることになる。

(嬉しいなぁ)

 彼も嬉しいのだろうか。息遣いが、なんだか満足げだということくらいしかわからなくて、仮面がなければよかったのにと少しだけ思った。

 それから、それから。

 耳元で、しゃりしゃりと角の削られる音がしばらく響いていて、その調子と振動に、いつの間にかお雪は眠ってしまっていた。

 

 懐かしい。懐かしい夢を見た。

 調子に乗って塀の上を走っていたら落ちてしまった時の夢だ。

 それは、初めて経験する折損で、結構深いところを折ってしまったから、二度と生えてこないんじゃないかと不安でたまらなくて、ずっと泣いていた。

 角なしは、恥ずかしいことだ。それも、三大家の宗家の娘がそうであるとなれば、母親にだって迷惑がかかってしまう。

 どうしよう、どうしよう……動けないでいる彼女に、さっと影が覆いかぶさる。

 見上げれば、少しのっぺりとした岩のような顔の男がいる。器量良しと不器量の間にいるような顔だった。

「あー、嬢ちゃん酷くやったなぁ。痛かったろう、平気か?」

「う、うん……それは、平気。でも、これ」

 もう生えてこないんじゃないのか。そう続けようとした口を、塞がれて笑われる。

「そういうことは言っちゃダメだぞ。呼び込むからな。それに、それくらいの折れ方なら大丈夫だ。んー……直してやりたいが生憎と糊を持ち歩いちゃいないし……そうだ」

 何か思いついたような彼は、手に持っていた荷物を結んでいた紐を取り出すと、少女が折ってしまった角同士を結って固定してくれる。折れ方のせいで完璧に元通りとはいかなかったが、大半の人の目は結び目の方に飛んで折跡には目も向けないだろう。

「これでよし。応急処置だから、家に帰ったらちゃんとした繋角師んとこ行って、繋いでもらうんだぞ」

「あなたは、ダメ、なの?」

「俺はまだ免状が出てないんだ。手習いさんってやつ」

「じゃあ、名前は?」

「名前? お礼してくれようって? 別にいいよそんなの。あーでも……そうか将来のお客さんかもだな……」

 なんだか打算的なことを呟きながら、彼は自分の名前を告げて去っていった。

 その名前は今でも大切に胸の中にある。

 大好きな人の、名前だから。

 

「雪……お雪!」

 揺すられて目を覚ました。

「ったく、本気で寝やがって」

「えっ、う、ごめん……」

「いや別に良いんだがな。寝返りとかもなくて削りやすかったし」

「そ、そか……そ、そうだ。どうなったの、見せて!」

「切り替えの早いやつだな……」

 少し呆れた風に呟きながら、勇之助が姿見を持ってきた。

「わぁ……」

 そこに映る自分の角には、綺麗な波紋が刻まれている。荒々しくも優しさのある流れは、単純な彫りだけれど、決して適当なものではない。

 鏡を見ながら指を這わせてみれば、どこにも引っかかることない滑らかな窪みを感じることができる。

「実はまだ未完成なんだよそれ」

「そうなの?」

「色入れるって言ったろ」

「そ、そっか……寝てる間にしてくれてよかったのに」

「いや、ここからはお前にも見ていてもらおうってな。そういう、大事なもんなんだよ」

 言うと、彼は道具箱の中から小さな円形の器を持ち出してきた。印池に似た形のそれを開けば、白と黒が混ざり合ったような、しかし灰色とも違う、独特の色の粉がそこにある。

「これが晩靄の色。俺だけの色だ」

「そういうの、もらうの?」

「名前と一緒にな。他は全部捨てても、結局、こいつだけは捨てられなかった。まあ結果としてはよかったな。最悪師匠に頭を下げにいかなきゃならんところだった」

 茶化した風に笑いながらも、心底ホッとしている様子が伝わってくる。それだけのことなのだろう。

 見つめていると、彼はその粉を少しだけ小皿に移し、何かと溶かし合わせて筆を浸した。

「これを、お前の角に塗る。場所はあんま見えないところに塗るのが伝統みたいだが……」

 それはおそらく彫刻の調和を乱さないためなのだろう。一つだけ色のついたところがあれば、どうしても人目を惹く。

「まあでも、引退したやつが勝手にやることだからな。どこでも大丈夫だろ。どこがいい?」

「アタシが選んでいいの?」

「お前の頭のことだからなぁ。あ、ちなみに紐を結んで隠れるのはこの辺りだ」

 小皿を置いた勇之助が、両手で彫刻の一部を隠す。波紋を横切るように紐が結ばれるのがわかる。

「……じゃあ、その隠れてるところ。両方の角の前の方ね」

「了解」

 ここなら、鏡を見ながら紐を解いた時に、何度でも彼の色を見ることができる。その度に、その愛を感じることができるのだ。

「じゃ、動くなよ……」

 すっ、と筆が動いて色が入った。まるで角の上に新しい目が出来たような、そんな色が彫刻の途中にある。

「これでよし……あとは紐を結んで、と」

 ろくにその色を見る時間もなく、組紐が角を彩る。晩靄の色は影に隠れてしまって、あること知らなければ誰も気づけないようになった。

「どう?」

「うん……うん! いいよこれ!」

 組紐の編み込まれた糸が描く線と、角に彫られた波紋が巧妙に調和して美しさを放っている。

「どっちかというと、水派より綺羅派っぽい作になっちまったけど、まあ辞めた彫り師だし許してもらえるだろ」

「えー、これからずっと彫ってもらうつもりなのに?」

「何言ってんだ。嫁いだら向こうさんのお抱えがやるようになるだろ?」

 何かが二人の間で致命的にずれていた。お雪の方は首を傾げている。

「……アタシ嫁がないよ? 婿もらうもん」

「は?」

 勇之助の顔が固まった。婿をもらうような家ということは、彼の見積もりよりもお雪の家の格式はかなり高く……。

「あ、えっと……そっか、ちゃんと名乗ってなかったんだっけ?」

 悪戯っぽい笑みを浮かべたお雪が、頭を下げながら名乗った。

紅楼雪麗(こうろうせつれい)と申します。勇之助には、両方でうちのお抱えさんになってもらうからよろしくね」

「……はぁー!?」

 してやったり、という顔のお雪に、勇之助は理解が追いつかなくて逃げ出したい気分でいっぱいだった。

 だが、色をさすなんて真似はもう取り消せないし、相手がどんな家でも構わないとあの告白をしたのだからと、ぐっと息を飲み込んだ。

「や、やってやらぁ!」

「それでこそユーの字だよ!」

 もうなんでも来いという気分だった。

 

 そして彼はそんな気分のまま、白綺定子の角を繋ぎにいく。

 流水が悩んだ挙句、隠してしまったものを与えるために。


 ***


「晩靄さん」

「なんだよ、そんな名前でなんか呼んで」

 それはいつか未来の話。彼女の背に、隠れるように立つ小さな少女を連れたお雪と、彼女に囲われることを良しとした勇之助の話。

「今日はこの子の初彫りをしてもらおうかなって」

 ほら、と背を押して娘を前に出す彼女は、あの頃からは想像もできないくらい美しく変わった。

 あの頃と変わらないのは、その角に彫られた波紋と、吉祥結びの角化粧。

「俺でいいのかよ」

 困った風にため息をつく勇之助に、ふふりとお雪は笑った。

「あら、紅楼家のお抱え彩角師さんが何を言うやら」

「知らなかったんだよ。お前がまさか宗家の娘だなんて」

「知ってからも態度を変えなかったくせに」

「まあ、そうだがな」

 色々と面倒なことはあった。大変なこともあった。

 けれど、今もこうして養われるような形ではあるけれど、二人の関係は続いている。


「そういや、なんで俺んところ来るようになったんだ? お抱えいただろ?」

 ぽつり、零した勇之助の疑問に、からからと笑い声をあげてお雪は微笑む。

「ナイショ。どうしても気になるなら頑張って思い出して」

 角の吉祥結びに触れるようにしながら髪を掻く。まるで、これが証拠だよというように。

 そういえば、いつかどこかで泣き腫らした娘に紐で仮止めをしてやったことがあるような気がしたが……。

「ったく」

 言わぬが花、なのだろう。

 それに出会いなんて、もう些細な話なのだから。

「さて、んじゃやりますか……さあ、お嬢ちゃん、角を見せてごらん。いっとう可愛く仕上げてやるから安心してな」

 そうして彼は、敗れたはずの夢を続けていく。

 女の庇護のもとではあるけれど、それでも、その夢が絶えることはないだろう。

 それが、職人と位高いお嬢様との、幸せの形。


ここまでお読みくださって、ありがとうございました

この物語を気に入っていただけたなら幸いです


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