表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

Shall we split the bill?

作者: 坂本 晴人

 あれは冬の寒い日だった。十二月のいつだったか、日付までは覚えてない。でも彼女と初めて出会ったことだけは忘れない。あの暗闇の中で彼女は静かに輝いていた。

 その日も俺は五時前から映画館のロビーに居た。仕事はどうしたんだって? あの頃の俺は無責任で無保証なパートタイマーだった。イタリアン・カフェでピザを作って時給十ドル。賃金法の『オリジナル』用の規則にばっちり合格だ。悪くはない。けどそれだけ。そもそも俺はやりたい仕事なんて特になくて、なんとなくそこに決めただけでさ。そんなやつが真面目にあくせく働く姿をきみたちは想像できるかい? 俺にはできないね。

 俺の頭は、十ドルよりも価値のある一時間をくれる女の子にこのロビーで出会えるかどうかってことだけで一杯だった。相手が『オリジナル』か『リファイン』かなんてことは問題じゃなかった――俺はそんなことにはこだわらない方だったから。とはいえ夕方から映画館に居るようなのは、俺の財布の中身以外には何も興味を示さないやつばかりでね。週末は安いモーテルでユーモアのひとつも解さない相手と一夜を過ごし、そしてそいつが目を覚ます前にさっさと家に帰る。俺はそんな繰り返しにすっかり飽きていたんだ。

 彼女に出会ったのはそんな時だった。型落ちしたプリンセス・コートのポケットに両手を突っ込みながら、一人で静かに立っているその姿を見た俺はこの()はきっと違うと思った。まあ、ただの勘さ。でも俺は迷うことなく彼女の下に歩いて行った。そのウェーブがかったセミ・ロングの髪に、期待と不安で胸を高鳴らせながらね。

「きみ、何見るの?」

 俺はそう訊いた。だけど、俺から一メートルも離れてないところに居るその娘は何も返事をしなかった。聞こえてないみたいだった。

「ねえ、ちょっと」

 そこで俺はその娘の目の前でぱたぱたと手を振ってみた。そしたらようやく気付いたみたいで、彼女は少し驚いた様子で俺の方を見た。その揺れる髪は満月に負けないプラチナ・ブロンドで、俺を見上げる瞳は夏空を抜き出したコバルト・ブルーだった。

「きみひとり? 何見るんだい?」

 そう尋ねると、彼女は物憂げに俺のことを見上げてきた。

「分かんない。決めてないんだ」

「そうだね、俺のオススメは『春への階段』かな。あれは二回見るだけの価値はあるよ」

「どうもありがとう。でも、別に映画が見たいわけじゃないから」

 ここで「じゃあ何をしに来たんだよ?」なんてことを言うやつがもし居たら、そいつはどうしようもない田舎者だ。つまり、映画館はただ映画を見る場所だって決めつけている馬鹿野郎ってわけ。でも俺はそうじゃなかった。

「それに、『春への階段』ならもう見たよ」

「そう、なら話が早い。面白かったでしょ?」

「ううん、私は好きじゃない」

「へえ、そりゃあまたどうして? もしかして、猫が嫌いとか?」

「どうしてって……それは……」

 俺は困らせるつもりなんてなかったんだ。だけど、彼女はきゅっと眉根にしわを寄せて考え込んでしまった。ちゃんとした理由を見つけようとしたんだろうね。今時珍しいと思ったよ。やはりこんな時間に映画館にひとり迷い込んでしまうような娘じゃない。

「まあいいさ。それより、それじゃあまだチケットは買ってないんだよね?」

「うん」

「なら丁度いい。ねえどうだい、君が嫌じゃなければだけど、ちょっと食べにでも行かないかい? ひとりじゃどうも寂しくてね」

「ごめんなさい。名前も知らない人と一緒に食事をする習慣はないんだ。私にはさ」

 いや、やられたと思ったね。俺は思わず苦笑したよ。こんな切り返しができるレディとは久しく会っていなかったから、頭が貯金箱になってる連中とばかり話してた身には衝撃だった。俺は右足をすっと下げ、右手を軽く掲げると、帽子の鍔をつまんだつもりの指先で半円を描きながら深々と頭を下げた。膝をちょっとだけ曲げるのも忘れずに、ね。

「これは失礼。どうかお許しを、王女殿下(ユア・ハイネス)

 そう言い終えて背筋を伸ばした時、この娘の真一文字に引き絞られていたはずの口元がほころんでいるのを俺は見た。俺はそのまま仰々しい調子で続けた。

「わたくしはマイケル。マイケル・マニー・ベーカーと申します。どうか、マイクとお呼びくださいませ」

 映画に出て来る十九世紀の貴族みたいに俺は自己紹介した。なあ、そしたらどうなったと思う? 彼女は声をあげて笑ってくれたんだ! 俺は自分の直感が正しかったのを確信した。そしてひとしきり笑った彼女はポケットに入れたままの手で少しだけコートの裾を持ち上げると、俺と同じくらいの熱心さで腰を落としてこう応じてきた。

「たいした高貴さ(ハイネス)じゃないね。こんなふうに見下ろされるぐらいじゃさ」

「お気に召しませんでしたか?」

「だって私は王女じゃないもん。ディアナ・ギアーズ。アニーって呼んでね」

 ここで俺は、このお行儀の悪いお姫様の名前がアニーであることと、アニーが『リファイン』であることを知った。なぜ分かったかって? そりゃあ、ギアーズって姓は典型的な『リファイン』風の名前だからね。もちろんそんなことが俺の考えを変えるわけはなかった。俺は八歳の頃からずっと、『オリジナル』と『リファイン』の間には違いなんかないと心の底から信じていたんだ。『オリジナル』は常に『リファイン』よりも勝っているだなんて賢しら顔でほざくやつにはいつも言ってやったもんだよ。あんたの目の前に居る男は期末試験の最下位常連なんだけどね、って。それでもまだ食い下がる石頭にはこう言ってとどめをくれてやるのさ。――なにせ、そもそも受けてすらいないんだからな!

「よろしく、アニー」

 俺はアニーに笑い返しながら右手を伸ばして握手を求めた。ところが、彼女はその手をポケットにしまったままだった。さっきまでの笑顔はどこかへ行ってしまって、アニーはどこかむず痒いような、困ったような表情をしていた。

 いくら俺だって『リファイン』の右手に何があるのかぐらいは知っていた。そしてそれを見せたがらない人がどうして居るのかも分かっているつもりだった。そのことを思い出した俺はすぐに右手を引っ込めて、その替わりに左手を差し出した。そうするとアニーは途端に顔を明るくして俺の手を取ってくれた。長い時間ポケットの中にあったせいで、彼女の汗ばんだ手はもう熱いくらいだった。

「よろしくね、マイク」

「ああ」

 いや、まったく、『リファイン』は冷たい血が流れているから人間じゃない、なんてことを騒ぐ奴はあの頃には多くいたけれど、あんなの嘘っぱちもいいところだよ。モテない『オリジナル』のひがみに違いないね。抱いて抱かれれば誰でも分かることなんだからさ。

「それじゃ、どこに行くの?」

「ランチ・ピザは嫌いかい?」

「ううん、嫌いじゃないよ。そんなに好きでもないけど。あ、でも、コーラは好きかな」

「なら問題なしだ。行こっか。外に自転車があるんだ」

 この提案にアニーは頷き、俺は彼女の左手を引いて映画館を出た。あの日はさすがに雪は降っていなかったけど、星ひとつ見えない空から吹き降ろす寒風はまさしく十二月のそれだった。『生命の輪を繋ごう! 選ばれた者の義務を!』そんな調子の『オリジナル』至上主義者のビラを蹴飛ばしながら、俺とアニーははぐれないようにしっかりと手を繋いで歩いて行った。

 俺はアニーに自転車の錠を外してもらうことにした。誰の指紋でも反応する安物だったんだ。だけど、盗んだところで街中に設置された監視カメラと顔識別システムの前にすぐ見つけられるだけ。五十ドルの自転車を盗んでその十倍の罰金を払いたがるやつはどこにも居ない。少なくとも、二〇六四年のニュー・フリスコではこれが常識だったのさ。

 俺はアニーを後ろに乗せるとオファレル・ストリートの緩やかな坂を下って行った。アニーは俺の腰に回した手にぎゅっと力を込め、体をぴったり密着させてきた。アニーの左手はその右手の甲をしっかりと覆い隠していた。俺は気付いてないふりをした。

「アニーはいくつなの?」

「十九だよ。マイクは、二十ってところ?」

「残念はずれ。もう二十三だ」

「二十三? マイクは、『オリジナル』だよね?」

 俺はアニーのその質問に、交差点の信号確認にいつもより時間を掛けてから答えた。

「ああ、俺は『オリジナル』さ、一応ね」

 足に強く力を入れて漕ぎ出した俺は、返事が来る前にアニーに訊き返した。

「それがどうかしたかい?」

「えっと、その……マイクぐらいの歳で、『オリジナル』だったら、たいてい車を持ってるものだと思ってたから」

「ああ、なるほど」

 アニーの考えは十代の少女の夢見がちな理想なんかではなかった。なぜって、俺自身も車を持ってないことだけを理由に誘いを断られることは珍しくなかったんだから。

「そのうち買うさ。今はお金がなくてね」

「不便じゃないの?」

「不便? いや、そうでもないよ。さてはきみはこの街を知らないね、アニー? ここはニュー・フリスコだ。バスにメトロにケーブルカー。どこへ行くにも足はある」

 俺が生まれる前に起きた大地震で、サン・フランシスコと呼ばれていた街は壊滅的な打撃を受けた。それをなんとかして蘇らせようとした人々の努力の結晶こそ、このニュー・フリスコの街だったんだ。街の作りをわざわざ地震の前と同じようにしようとしたんだからまったく大した話だよ。『悪魔のインフルエンザ』のせいで一時中止された復興作業も、あの頃にはもうほとんど全て終わっていた。

「ほら、見えるかい? ちょうど今すれ違うところだ」

 俺はそう言って前方の交差点を指差した。傾斜のきついパウエル・ストリートを、二台のケーブルカーがりんりんりんと景気よく鐘を鳴らしながらすれ違って行く。

「リニアモーターでも使ってもっと観光向きにしようって案もあったらしいけど、結局この坂だ、ケーブルを地面に埋めて昔ながらのやり方にするしかなかったんだって。まあ、物珍しいよりかは由緒正しい方が受けも良いし、何より安全だ。そう思わないかい?」

 そんなことを言いながら少しずつ速度を落とした俺に、アニーはこう訊いてきた。

「ねえ、マイク。一つ訊いてもいい?」

「もちろん」

「あのケーブルカーも、『リファイン』は無料なの?」

 俺の耳元で響いた彼女の声は、あの日の暗い寒空から吹き降ろす風よりもずっと冷たかった。坂が終わったところでケーブルカーに乗ろうとする一人の男が、車掌にその右手の甲を見せている姿が見えた。俺は、少しだけ声の調子を落として答えた。

「ああ。あれも立派な公共交通機関だ。『リファイン』は誰でも無料で乗れる」

 その時のアニーの溜め息を、俺の凍えた耳ははっきりと感じていた。

「そうなんだ。……うん、そうだよね」

 それから一分後、俺たちは目的地に着いた。俺たちは自転車から降りると大きな看板が突き出したビルに向かっていった。その看板には大きな電飾でこう書いてあった。


 ドリンク注文の方はランチ無料 二十四時間


 面白いことが書いてあるもんだ! でも、あの頃はそれが普通だったんだ。二〇六四年のニュー・フリスコに存在した食べ物の区分方法を教えてあげよう。無料ならランチで、有料ならドリンクだ。簡単だろう? 誰もおかしいとは感じてなかった。俺もだよ。

 その店は公営の食堂だった。ベイ・エリア全体にはたしか百か二百はあった気がする。そんなにあったら民業圧迫じゃないかって? なかなかいい指摘だ、そうとも言える。でも現実はそんなに単純じゃなかったんだ。仮にある日突然ニュー・フリスコ市域にある全ての公営食堂が閉鎖になったとしよう。次に何が起こると思う? 答えは『リファイン』たちの暴動だ。公営食堂の食事(ドリンク)は『リファイン』には無料で提供されていたんだ。これはニュー・フリスコでだけじゃなく、世界の全てで共通のルールだった。

 政府が言うところのその目的は、『オリジナル』と『リファイン』間の経済格差の是正だった。世界の富の八割が、全人口の二割以下しか居ない『オリジナル』の手の中にあることは間違いのない事実だった。だがこの無料の昼飯が格差是正に何の役にも立っていなかったこともまた、紛れもなく現実だったわけではあるけども。

 ともかく、俺たちは食堂に入った。すぐ前に並んでいた男が注文をしていた。

「ご注文は?」

「バド・クラシックをひとつ。ランチ・トーストをセットで」

「『お支払い』は?」

 ひどく早口の店員にそう訊かれた男は、手を上げて右手の甲を店員に見せた。店員は男を空いている席へと促すと、即座に手元の端末に注文を打ちこんでいった。

 公営食堂で『お支払い』は? と訊かれたら、それはきみたちが現金で払うかカードで払うか、それとも時代がかった小切手か何かで払うのかを訊いているわけじゃない。いいかい、この専門用語を平易に言い直すとこうなる。――あなたは『リファイン』ですか?

「ご注文は?」

 その店員は、さっきの客の注文を打ち終えるよりも早く俺にそう尋ねてきた。

「コーラをふたつ。セットはランチ・ピザで」

「『お支払い』は?」

「結構だ」

「では十ドルになります」

 せわしい奴だと舌打ちしつつ、財布を出そうとした俺の手を誰かが掴んだ。アニーだった。彼女は右手をコートのポケットの中に入れたまま、首を小さく横に振っていた。

「マイク、ちょっと待って?」

「そちらのお客様もご一緒で――?」

「ああ、そうだ。一人五ドルで十ドルだろ?」

 俺は店員の言葉を遮って、二つ折りにした十ドル札に五ドル札を挟んで差し出した。

「それと、あそこの席が良さそうなんだけど、ちょっと片付けてもらえないかな?」

 その店員は一瞬だけ俺と視線を交わした後、素早くそれを受け取った。そして五ドルをポケットに入れると、壁際の奥まった席に置かれたままの食器を片付けに行った。

「さ、行こう、アニー」

 俺は何か言いたそうにしているアニーの肩に右手を回し、酔っ払いや煙草の煙から彼女を守りながら席へと向かった。自然と俺は左側に、アニーは右側に座ることになり、そしてすぐにチーズとサラミが乗ったランチ・ピザと、冷えたコーラが運ばれてきた。

「ねえ、どうして?」

 しかしアニーは眼前のそれらにはまったく視線も向けず、俺のことを見上げてきた。

「心配しないでよ。車を買う金はなくても、一人分奢るだけの金はある」

「そうじゃなくて、その、どうして……」

「格好ぐらいつけさせてよ、きみみたいなかわいい娘の前なんだからさ。ね、食べよう」

 俺はそう言うと氷の入ったコーラのグラスを取り、アニーにそうするように促した。彼女の右手はポケットからは出ていたが、机の下に隠れて俺からは見えなかった。

「本当に、いいの?」

「ああ、もちろんさ。ほら、冷めちゃう前に」

 そう言いながら俺は手首のスナップを効かせて氷とグラスをぶつけ、カランと小気味いい音を響かせた。それでもアニーは黙ったままだった。机の上に置かれた料理を彼女はじっと見つめていた。これは失敗だったかな。そう俺が思い始めた、その時だった。

「ありがとね、マイク」

 ふっと笑ったアニーは左手でグラスを取り、目線の高さまで上げた。俺はそれに応えた。

「乾杯」

「乾杯」

 俺はアニーの笑顔に手ごたえを感じつつ、一息にグラスを半分も飲みほしていた。

 それからしばらく、取り留めのないことを話した。俺のバイト先のこととか、アニーのハイ・スクール時代とか、お互いの趣味についてとか。

「映画は好きなんだ。でも、映画館に行ったことは今までなくって」

「てことは、今日が初めてだったの?」

「うん。あんなに人が居るなんて知らなかった」

「まあ最近じゃ、あそこは映画を見に行く為の場所じゃないからね。特にこういうとこのは、どれもこれも」

「そうなの? じゃあ何をしに行くの?」

「仮面舞踏会だよ」

 アニーは一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに俺の言いたいことを理解した。

「そう、だったんだ」

 アニーは口の端についたチーズを指先で拭いながら、信じられないと言わんばかりに目を丸くしていた。いったいなんて娘だろう! 日没後の映画館でひとり誘われるのを待つように立っていたのに、その場所の意味も知らなかっただなんて。まったく、俺が最初に声を掛けてなかったらどうなっていたことか。俺はもうこの時、アニーを適当なモーテルに連れ込んでお終いなんて気はなくなっていた。映画館で出会った時にはもうそうだったのかもしれない。俺が公営食堂でアルコールを注文しなかったのはこれが初めてだった。つまり俺はこう思ってたんだ。彼女との関係を今晩だけで終わらせるのは嫌だ、って。

「ねえ、アニー。この後は何か予定はあるのかい?」

「予定? ないけれど?」

「それならどうだろう、うちに来ないかい? せっかくだから何か映画でも見ようよ。もしきみが今日帰らなくてもいいのならだけど……」

 そう言い終えると俺はピザの最後の一切れを口の中に放り込んだ。何も言わないで居ても変な印象を与えない為にね。こういう場面で無茶に追い回すやつはかえって失敗する。もちろん、それくらいはきみたちもわきまえているだろう?

 すると果たしてアニーは頷いてくれた。俺は笑顔を浮かべて彼女の目を見た。

「来てくれるのかい? ああ、良かった」

「でも、本当にいいの?」

「何が?」

 俺がそう問い返すとアニーは再びあの物憂げな顔をして、絞り出すようにこう言った。

「えっと、マイク、分かって……分かってるよね? 私は……『リファイン』だよ? ディアナ・ギアーズって名前、ちゃんと言ったよね?」

 アニーは食べ残しだけが散った皿をじっと見つめていた。俺はすっかり薄くなって気の抜けたコーラを飲みながら、彼女にかけるべき言葉を考えた。その怯えた横顔の向こうに彼女が過去に出会った男の無思慮さを見つけながら、俺は静かにグラスを置いた。

「分かってるよ。でもそれが何だって言うんだい? 『オリジナル』だろうが『リファイン』だろうが、そうは変わりはしない。どっちも結局は同じ人間じゃないか」

 俺から言わせれば、『オリジナル』と『リファイン』で違うところなんてのは、受精卵から自然に生まれ出るか、それともiPS細胞から培養されて生み出されるかってことぐらいしかないんだ。歴史の授業できみたちも習っただろう? 『リファイン』のそもそもの目的は、自らが創り出してしまったウィルスで九十億人のうち七十億人以上を失った上、その置き土産で甚大な遺伝子欠損を刻まれた人類、すなわち『オリジナル』を救うことにあったんだと。だから、『リファイン』は人間じゃないなんて言う方がおかしいんだ。

「どっちも、同じ……人間」

「きみはそう思わないかい? アニー」

 とは言っても、なかなかそうは行かないのが現実ではあった。子供の頃は一緒に遊んで、笑ったり泣いたりしていた間柄でも、いつの間にか『オリジナル』と『リファイン』って属性ではっきりと分かたれてしまう。なぜって、社会がそうなっていたんだ。公営食堂には普通『オリジナル』の客は居なかったし、ニュー・フリスコにキャンパスを置く大学に『リファイン』の学生は一人も通ってなかった。もちろんどちらも門を閉ざしているわけじゃない。だけど、数え切れない程の遅刻と早退と欠席を繰り返していた俺が放校処分を受けることのないまま学士を取れたことを考えてもらえれば、俺の言いたいことは分かるんじゃないかと思う。

 きみたちは初対面の人と挨拶する時に相手のどこを見るかい? まあ大体、目か、口元か、そんなところだろう。だけど、二〇六四年の『オリジナル』の人類は、ごく僅かな一部の例外を除いて、相手の右手の甲を見るんだ。『リファイン』にだけ存在する、十三桁の識別刻印(シリアル・ナンバー)がそこにあるかどうかを確認する為さ。

 そんな時代だ。自らが自然ではない方法で生み出された存在であることを忌む『リファイン』が居れば、彼らがその刻印を見せたがらないのがどうして正当ではないと言えるだろう? アニーが隠していたのはその綺麗な手じゃない。そこに刻まれた、一生消すことのできない身分証だったんだ。

 俺は、こんな社会はどこかおかしいと思ってた。だってそうじゃないか? 『リファイン』なしではもはや世界は立ちゆかなかった。経済学の入門書に従うところの『安価な労働力にして下級財の従順な消費者』が居なかったなら、地球規模の大量生産・大量消費なんて跡形もなく崩れ去っていただろう。十九世紀にヨーロッパに現れ、一時は世界の半分を席巻した亡霊を抹殺した人類はもう今更止まれなくなっていた。価値を創造する最良の方法とは経済格差を構造化し下から上へと搾取することであると誰もが理解していながら、それに気付いていないふりをし続けていた。

 地球二個分を消費し尽くす生活レベルを享受する間に人類は恐ろしいほどの負債を抱えていたんだよ。そして人口の大激減に直面して搾取する相手すらを失い、永遠の繁栄という幻想を打ち砕かれた時、人類はその負債をどうしたと思う? あらゆる倫理的問題をかなぐり捨てて人間の生産を開始し、そうやって生み出した『リファイン』に全部押し付けたんだ。同じ種であることさえも公然と否定しておきながらね。

『リファイン』の生活レベルを限定する為に、賃金法で『オリジナル』と『リファイン』の間に厳然たる格差が設けられていた。俺がNBAを見ながらピザを焼いて十ドルを稼ぐとき、俺の横でせわしなくコーヒーを淹れる『リファイン』の同僚は二ドルを受け取っている。きみたちには信じられないだろうね。これがまだマシな方だったと言っても、悪い冗談にも聞こえないだろう。

 ただその一方で『リファイン』には生活に最低限必要なもの――公営食堂での食事に、特定機関での医療、交通局が運営する電車やバス、その他にもいろいろ――を無料で享受する権利が保障されていた。これを逆に言えば、そこから一歩でも踏み出した生活を送ることはほぼ不可能というわけだけど、ほとんどの『リファイン』はそれで満足していた。

 しかしその権利も全て、信じがたいほどの低賃金を受け入れ、理由もなく生産されては消費されてゆく種々の財の媒介になることを受け入れることを前提としていた。それを拒んだ『リファイン』からはさっき言ったような権利が全て剥奪された。それがつまり何を意味しているかは、わざわざ言う必要もないと思う。

 ともかく言えることは、今更『リファイン』なしの社会なんてものは考えられなかったんだ。それなのに、どうしてこの社会そのものは『リファイン』を敵意すら込めて蔑み続けるのだろう? 『オリジナル』ではないことがそんなに大事なことなのか? どちらも同じ人間であるはずなのに? そんな思いは俺の心の中でくすぶり続けるだけに留まっていた。俺は時々不満を思い出しては心の中で呟くばかりだった。それを俺は、あの日初めてはっきりとした言葉にしたんだ。アニーに向かってね。

 アニーは俺の問い掛けに少しの沈黙を置いた後、小さく頷いた。

「私も……うん、そう思うよ。でも、みんなはそうじゃない」

「ああ。『オリジナル』の連中は石頭ばっかりだ」

「ううん、そういうことじゃないの」

「じゃあ、どういうことなんだい?」

「あのね」

 彼女はそこでまた一拍置いた。まっすぐ俺の目を見つめて、アニーはこう言った。

「タンスターフルって言葉、知ってる?」

「タンスター……フル? いや、知らないけど」

「昔の本に書いてあった言葉。百年くらい前に流行った古い言葉でね、その意味は」

 ところが、アニーはそこで突然黙ってしまった。

「アニー? その意味は?」

「ああ……その……うん、ごめん、忘れちゃった」

 さっきまで覚えてたんだけど、と、愛想のよすぎる笑い方をしながらアニーはそう答えた。嘘をついてるとすぐに分かったが、それを追求するのはあまりに野暮だ、と俺が気付かないわけがなかった。だから俺は彼女の真似をして笑って返した。

「そっか、じゃあ思い出したら教えてよ。さ、そろそろ行こっか」

「うん」

 そうして俺たちは店を出た。外は相も変わらず人波で埋まっており、俺たちはその中をかき分けて行ってようやく自転車のところまで辿り着くことができた。安物の錠を自分で外した俺は、サドルにまたがるとアニーを呼んだ。

「アニー?」

 彼女はすぐそこに居た。硬い足音を立てて行き交う人々に囲まれ、その激しい渦の中心で静かにひとりだけ立ち尽くしていた。ポケットに手を突っ込んだまま痛々しく唇を噛むその姿を見て、俺は思わず口を開いていた。

「ねえ、どうかした?」

「ううん、なんでもない。……なんでもないの」

 今度も、アニーが嘘をついてるってことはすぐ分かった。だけど俺だって自分の全てを彼女に伝えてはいなかったんだ。初対面だからとか、相手にいい印象を与えたかったからとか、そういう話じゃなくて……そう、誰だって一つや二つ、他の誰にも言いたくない秘密があって然るべきじゃないか。人間なら、そうだろう?


 翌朝、先に目を覚ましたのは俺の方だった。窓から差し込む日光はひどく眩しく、俺は思わず目を手で覆った。いつもはこんな目の覚まし方をしないはずなのに。そう思ったあたりで俺は、昨日ソファーでそのまま眠ったことを思い出した。

 部屋の隅に置いたベッドの上ではアニーが優しく寝息をたてていた。肩の上まで掛け布団にくるまって何の疑いもなく枕に頭を預けるアニーの寝顔を見ていると、映画館で会った時に彼女が見せていたあの思い詰めた表情はもう別人のものにしか思えなかった。

 時計は既に九時を回っていたが、わざわざ起こすこともないと思い俺は静かに立ち上がった。今のうちにこの部屋の主人役(ホスト)らしく身支度を整えようとして、俺はクローゼットの中からタオルを探し出し、服を脱いだ。

 熱いシャワーを頭から浴びながら俺は昨日の出来事を一つずつ思い出していた。映画館の薄暗いロビー、そこに似合わない一人の少女、ディアナ・ギアーズという素晴らしい名前、いつもと変わらないニュー・フリスコの夜の灯り、何度食べても安っぽいランチ・ピザ。そしてその後は――きみたちの期待を裏切って申し訳ないが、二人で一緒にソファーに座って映画を見た。本当にそれだけさ。頼むよ、信じてもらえないかな?

 着替えて髪を整えた俺は部屋に戻った。ドアを開ける時はそれなりに気を付けたつもりだけど、その音でアニーは目を覚ましたようだった。

「おはよう、アニー」

「おはよう、マイク……?」

 眠い目をこすりながらアニーは体を起こした。しばらくはその寝ぼけまなこをあちこちに向けていたが、突然彼女は素っ頓狂な声をあげてベッドから飛び降りた。

「ご、ごめんね、マイク。ベッド使っちゃって」

「いいんだよ、風邪でも引いたら大変だ」

「何言ってるの、私は『リファイン』だって――」

「それよりアニー、シャワーでも浴びたいんじゃないかい? せっかく綺麗な髪がぼさぼさだ、ほら」

 俺はそう言いながらクローゼットから新しいタオルを取り出し、それをアニーに差し出した。ひどい寝癖を俺に指摘された彼女は慌てて両手を頭に当てた。髪を撫でつけてごまかそうとしたんだ。だけどどんなに頑張ってもまるで効果がないことを理解すると、さすがに恥ずかしかったんだろうね、俺に顔を見られないように目を伏せながらタオルを受け取ったんだよ。ああ、あれは本当に面白かった!

「シャワー、そこ出てすぐ右だから」

 足早にドアを開けたアニーの背中に俺はそう告げた。そうして静かになった部屋は俺に空腹を思い出させて、俺はやむなくほとんど空っぽの冷蔵庫と向き合うことにした。これに関しては俺は主人役失格と言わざるを得なかった。なにせ味気のないシリアルと牛乳が今ここで出せる精一杯だったんだから。とはいえ何もないよりは遥かにマシだと自分に言い聞かせ、俺はテーブルの上に皿とスプーンを二組み用意した。二人分の食器を用意するのは――つまり朝食の席に自分以外の誰かが居るのは――ひどく違和感があった。それは多分、これがもうかれこれ十五年間は忘れていた温かさだったからだと思う。

 後はアニーが出てくるのを待つばかりとなり、俺はそこでコート掛けに行儀よく収まった彼女のコートの存在に気が付いた。なんとなくそれをしばらく眺めていた俺は、突然ひとつのアイディアを思い付いた。少しだけ耳を澄ませてアニーがまだシャワーを浴びてることを確認すると、急いでパソコンとプリンターを起動させた。本当にこれで彼女は喜ぶだろうか? そんな疑問は頭の片隅に追いやった。怪我をするのが怖いと言って飛び込む時にためらうやつは、結局は一番ひどい怪我をする羽目になるもんだ。

 一分もしないうちに俺は画面中に並んだ手袋の写真に目を凝らしていた。俺は思いつく限り様々な可能性を考えていたよ。アニーはいったいどんなデザインが好きなんだろう? それとも機能性を重視する方? そうだ、色の好みも忘れちゃいけない。あの濃紺色のコートと合わせるならおそらく……。

 しばらく悩んだ後、俺は黒いレザー・グローブに目を止めた。それは手首の辺りに飾りのファーがワン・ポイント縫い付けられた、地味だけどかわいらしい感じのものだった。

「これならきっと気に入ってくれる、かな?」

 そう呟いた俺は材質表示に目を走らせた。羊革、ウール、アクリル、ポリエステル。プリンターの横の棚の中に全部揃っているのを確認した俺は自分の幸運さに感謝した。サイズの方も十分だった。前に財布を買った時に牛革と間違えて羊革を準備したことがあったんだけど、それがそのまま残っていたんだ。ひとつひとつ確かめながら俺はそれらの素材をプリンターにセットしていった。

 そして俺は購入ボタンを押してデータをダウンロードし、プリンターで出力を開始した。値段なんて気にもしなかった。言うだろう、サプライズは金じゃないって。どうせ金なら後からどうとでもなる。でも思いがけないプレゼントで彼女を喜ばせるのは今しかできないんだ。そしてしばらくの間俺は部屋を歩き回っていた。

「マイク?」

 アニーが部屋に入ってきた。バスタオルを肩にかけて濡れた髪が服に触れないようにする彼女は、部屋をうろつく俺を見て不思議そうな顔をした。

「ああ、アニー。ちょうどよかった。少しいいかい?」

「どうかしたの?」

「この手袋、どう思う?」

 そう言って俺はたった今完成したばかりの黒いレザー・グローブをアニーに見せた。アニーは後ろ手を組んで近付いてくると、それにじっと視線を寄せた。

「へえ、なかなか良いんじゃないかな?」

「そうかい?」

「そんなに変に派手でもなくて、でも暖かそうだし、私は悪くないと思うよ」

「そっか。そりゃよかった」

「でもどうだろう、見た感じマイクにはちょっと小さすぎる気がするけど、大丈夫?」

 俺はそれを聞いてにやりと笑った。

「ああ、でもきみにはきっとぴったりだと思うんだ」

「え?」

「それに、これは最初からきみの為のものさ、アニー」

 アニーは口をぽかんとあけて驚いた。俺はそんな彼女に心を込めてこう尋ねた。

「たいしたものじゃないけれど、貰ってくれるかな?」

 予期せぬ出来事にアニーは戸惑いを隠せない様子だった。彼女はしばらく口の中で何かしら呟いていたが、ついに左手を前に伸ばしてあのレザー・グローブを受け取ってくれた。

「本当に貰っていいの? 私が?」

「ああ」

 俺が大きく頷いてアニーを促すと、彼女はどことなくぎこちない動作で手袋を着けようとした。俺はプリンターの電源を切るついでに後ろを向き、しばらく彼女から視線を外した。そして彼女が着け終えた頃を見計らってゆっくりと前に向き直った。

 アニーは口を閉じるのも忘れたまま自分の両手を飾る手袋をじっと見つめていた。昨日の感触を頼りに選んだサイズは彼女の小さな手にぴったりで、手首の辺りの飾りがいい感じにアクセントになっている。我ながら良い選択だった、と俺は心の中で快哉を叫んだ。

「気に入ってもらえたかな?」

「うん、最高だよ。ありがとう、マイク」

 興奮で上気したアニーの頬はその言葉よりもっと雄弁に彼女の思いを語っていた。これでもうアニーは周りの視線をむやみやたらに気にすることはなくなるはずだった。

 最初からそうやって隠していればよかったじゃないかときみたちは言いたいだろうね。でも、少しばかり想像力ってものを働かせてみてくれないか? さっき言ったことを思い出してくれ。世界の富の八割は全人口の二割にも満たない『オリジナル』の手中にあった、と。これをひるがえせばどうなる? 全人口の八割以上を占める『リファイン』は、残りの二割かそこらの富を奪いあって暮らしていたということになるわけだ。ここまで言えばもう分かるだろう? アニーはああいう手袋を買いたくても買えなかったんだ。

「私は、でも、あなたに……」

 いつの間にかまたアニーはあの物憂げな顔に戻っていた。その声はそれ以上聞こえなかった。許しを乞うように彼女はその手を胸元でぎゅっと強く組み合わせていた。

 俺は言おうとした。大丈夫? どうしたの? だけど俺はその言葉を飲みこんでしまった。今思い返しても卑怯なことをしたと思う。いったい何が彼女を苛んでいるのか、何を彼女は訴えようとしているのか。本当にアニーのことを大事に思うなら俺は知ろうとするべきだったんだ。でも俺はそうしなかった。俺はただ一言彼女の名前を呼んだ。

「アニー?」

 それで終わりだった。彼女は手をほどいて顔を上げ、慌てて作った笑顔で応じてきた。

「あっ、うん、食べようか」

 俺たちは向き合って座ると、卵もベーコンもない簡単な朝食を取った。食べ終えた俺はふと窓の外に目を向けた。燦々と輝く太陽を抱える青空が見えて、俺はそいつらと今日の予定を相談する気になった。こんなにいい天気なら出かけない理由もないだろう。

「ねえ、アニー」

「何?」

「食べたらちょっと出かけないかい? 案内するよ、どう?」

「そうだね、天気もいいみたいだし、お願いしていいかな?」

「もちろん。それじゃ、ゴールデン・ゲート・パークに行こう。きっと気に入るよ」

 幸いなことに俺のその言葉は嘘にならなかった。土曜日のゴールデン・ゲート・パークはたくさんの人が居て賑やかだった。空は晴れていて十二月にしては暖かく、風もそこまで強くはない。のんびりと昼下がりの時間を楽しむにはうってつけだった。俺とアニーは自転車を降りると適当な日向に居場所を定め、二人並んで芝生の上に腰を下ろした。

「綺麗な場所だね」

「ああ、そうだろう? 昔、親父によく連れて来てもらった」

「そうなの?」

「まあ、もう十何年も前のことさ」

 陽光を体一杯に感じながら話す俺たちの周りには似たような具合のカップルが何組も居て、その辺りから少し離れたところでは小さな子供たちが彼らなりのルールに従っての追いかけっこに興じていた。それは何も珍しいことのない、いつも通りの光景だった。

 その子供たちが全員『リファイン』であることは遠目からでも簡単に分かった。彼らの着ているものがそう教えてくれた。もちろん、十八世紀のヨーロッパでの半ズボンほど分かりやすい目印があったわけじゃない。なら何が違うかと言えば、『リファイン』の服は型が何年も古いものばかりだったんだ。アニーのコートもそうであったように、ね。

 あの中のいったい何人が死ぬまでに、ただの一度でもいいから、自分の着たい服をそう思ったその時に買うことができるのだろう? 思わずそんな暗い思索に沈みそうになった俺は、しかし、膝を抱えて座るアニーの控えめな呼び掛けに引き戻された。

「ねえ、マイク、ひとつ訊いてもいい?」

「ああ、なんだい?」

「マイクのお父さんって、どんな人だった?」

 意外な質問だった。俺は少しだけ言葉に詰まったが、ごまかさず正直に答えた。

「よく覚えてないんだ。俺が八歳の時に死んじゃってね」

「それは……ごめんね、そんなこと訊いて」

「構わないさ。だけど、そうだな……いい親父だったと思う。あの人は州議会の議員でね、忙しかったはずなのに、日曜にはいつも俺とこの辺りを自転車で走り回ってた」

 そんなことをしていたから死んでしまったんだ、と言うのはやめておいた。そこまではきっとアニーも知りたくないだろうと、俺の臆病な頭は勝手に決めつけていた。

「いいお父さん、か。うらやましいな。ちゃんと……そういう人がいるのは」

 両膝の間に渡した細い腕に顎を乗せてアニーはそう呟いた。俺は彼女の視線の先にあるものを見た。あの追いかけっこの輪の向こう側。一人の男の子が父親らしき男と楽しげにキャッチボールをしていた。そしてその様子を母親と思しき女が笑って眺めている。

「私は、寝る前にキスしてくれるお父さんとか、誕生日にケーキを焼いてくれるお母さんとか、そんなものは映画の中にしかいないとずっと思ってた」

 彼女はそこで一度言葉を切り、そして俺にやっと聞こえるほどの小さな声で続けた。

「でも、そうじゃないんだよね」

 アニーの言葉の意味をはかりかねた俺がまごついた、その一瞬だった。突然、どこからともなく大量のビラを脇に抱えた女が現れた。

「すみません、ちょっとよろしいでしょうか?」

 そいつは俺の返事すら待たずに俺たちの横に腰を下ろした。眼鏡をかけた神経質そうな顔つきをしていた。おそらく大学生か何かだっただろう。

「私は『リファイン解放同盟』の一員です。今の政府の下では『リファイン』が不当に弾圧されている状態にあるのはご存知ですよね? 私たちはその状態を変えなければならないと考えています。たとえば血縁を完全に無視した疑似的な結婚と家族制度ですが……」

 熱っぽく語るその女の右手の甲に識別刻印がないのを俺は確かめた。そしてちらりとアニーの様子を窺って、彼女が耳を塞ぐ代わりに爪をいじっている姿を見た。俺はただひたすら曖昧な相槌を繰り返したが、その活動家は洪水のように一方的に話し続けた。

「しかし『リファイン』は日々の生活で手一杯なのが、悲しいことですが、現実です。だからそのような政治的努力はまずは私たちが起こさなければならないんです。分かりますか? 私たち『オリジナル』が、率先して行う義務があるんです」

「分かった、分かった。で、俺に何をしてもらいたいっていうんだい?」

「毎週集会を開いています。ぜひ来てもらえれば」

 そう言ってそいつは俺にあれこれ細かい文字で書かれたビラを三枚渡してきた。俺はそれを読みもせず丸めて持ちやすくすると、努めて笑顔を保って返した。

「どうも。応援してるよ」

 俺はこれでもう満足するだろうと思った。だけど、そうならなかった。俺に笑い返して立ち上がったそいつはそのまま俺の前を横切り、そして、アニーにそのビラを突き出したんだ。俺が止める間もなく、あの女は彼女にこう言っていた。

「あなたも、『リファイン』のことに関してもっと興味を持ってもらえればと思います」

 凍り付いた俺の前で、アニーはゆっくりとそいつに顔を向けた。アニーは戸惑った表情を隠すこともないまま、眼前に差し出されたビラをその手袋を着けたままの手で受け取った。ここまでのことをしてようやく、あの活動家は満足してどこかへと消えて行った。

 俺はアニーに何と声を掛けるべきか分からなかった。アニーはそのビラをぐしゃりと握りつぶすと、力無く首を横に振りながら俺の名前を呼んだ。

「ねえ、マイク」

 その握り締めた手が小刻みに震えているのを、俺は見逃すことはできなかった。

「レディと花売り娘との差が、どう振る舞うかではなくどう扱われるかにあると言うのなら……『リファイン』と『オリジナル』の差は、いったいどこにあるんだろうね」

 花売り娘イライザの言葉だった。ああ、今にして思えば、アニーはこの時もう俺に全てを伝えていたんだ。だけど俺はそれに気付けなくて、ただあの活動家の背中に彼女が望んだわけでもない怒りの視線を投げつけることしかしなかった。

 あの活動家がアニーのことを『オリジナル』だと決めつけたのは理由がないわけでもなかった。手袋で識別刻印が見えなかったのはその一つでしかない。一番の決め手になったのは俺が『オリジナル』だということであり、そしてアニーが俺の横に仲良さそうに座っていたということだったろう。『オリジナル』と『リファイン』の間で付き合うって発想は、あの時代の人間には異端以外の何物でもなかったんだ。

『オリジナル』が『リファイン』と付き合ったところで何の意味もないと誰もが言っていた。なぜって、そんなことはやるだけ無駄だったんだ。『オリジナル』と『リファイン』が結婚することはできない。どこの国の憲法や法律を見渡してもそれを認めた条文なんかひとつも存在しないんだ。分かるかい? どれだけ仲睦まじくしていようが、正式な夫婦として認められることは決してないというわけだ。

 その根拠とされていたのは、『リファイン』には生殖機能がないというたったそれだけのことだった。どうして生殖機能がなかったんだって? それを説明するにはまず、あの『悪魔のインフルエンザ』の話をしなければならない。

 二十一世紀という遺伝子工学の時代、ある科学者がこう考えた。人類を毎年毎年悩ませるインフルエンザウィルスを試しに人為的に進化させてみてはどうだろう、と。そうすれば複雑怪奇極まりないウィルスの進化を予期することができる。それはワクチンの迅速な開発と普及につながり、きっと世界の為になるに違いない。善意が先かそれとも好奇心が先かは分からない。けどその科学者は本気でそう信じていたんだろう。

 もちろん反対する人も多く居た。もしそんな強力なウィルスの制御に失敗したら? 長い潜伏期間と激しい感染力をそれは既に与えられていた。そして何よりも恐ろしかったことに、度重なる遺伝子操作の結果それは自然界の進化だけでは持ちえない特徴すらも持ってしまっていた。『悪魔のインフルエンザ』は、罹患者の生殖機能を破壊するという性質を獲得していた。だけど何も起こらないうちは誰も本気で心配なんかしないし、そして有史以来常にそうであったように、一度何かが起きた後にどれだけ嘆いてももうそれは手遅れでしかない。結局、全人口の八割弱があのウィルスのせいで命を失った。

 そんな『悪魔のインフルエンザ』に立ち向かえるように遺伝子操作を施された人類が創り出された。iPS細胞から培養した卵子に同様の方法で用意した精子を受精させ、そして受精卵のうちに遺伝子情報を操作する。それこそが『リファイン』だったんだ。単なる風邪や肺炎でさえ彼らには一生縁のないものだった。その彼らに生殖機能が与えられなかった理由は諸説ある。遺伝子操作を加えられた人工の人類が自然に進化を遂げ、『オリジナル』とは別の種になるかもしれないという恐怖。あるいは『悪魔のインフルエンザ』から生還し、図らずも生殖機能を失った『オリジナル』への配慮。そしてまたあるいは、かつて世界が直面した人口爆発という脅威への予防策。どれが正しいのか俺は知らない。だけどきっとそのどれかか、あるいはそのどれもであるのは間違いないだろう。

 だからあの頃の『オリジナル』の中にはこんなことを本気で言うやつが居たのさ。生命の輪を自力で繋ぐことが生物の証なのだ、と。彼らの論理に従えば、科学の力に頼らなければ子供をつくることのできない存在は人間ではない。それどころか生物ですらないんだ。

 それは『リファイン』を劣った存在として固定すると同時に、『オリジナル』から人類の負債の支払いを永久に免除する魔法の言葉だった。そうして人類社会の歪みを全て押し付けられた『リファイン』にもっとひどい歪みが生み出されることは避けることの出来ない必然であったはずなのに、みんなそれから目を背けていた。そしてこの俺も、結局は何も分かっていなかった。『オリジナル』だって『リファイン』だってそうは変わらない。どっちも同じ人間であるはずなんだ。こんなことを言ったというのに……。


 夜になり、昼とは打って変わって寒くなった。いつの間にか空には雲が集まっていて、いつ降り出してもおかしくはなかった。月も見えないそんな空の下で、俺はアニーを後ろに乗せて自転車を走らせていた。彼女は相変わらず俺の腰に手を回して互いの体を寄せ合わせていた。肩の辺りに固い感触があって、彼女がその額をぎゅっと俺の背中に押し付けているのが分かった。

「明日の朝には、もう行かないと」

 俺の家までもう少しの所でアニーは突然そう言った。彼女は公営食堂を出てからずっと口を閉ざしたままだった。ようやく聞けたその声の内容に俺は耳を疑った。

「ねえ、マイク、もう一日だけ泊めてくれない?」

「それは構わないよ。だけどどうしてそんな急に?」

「マイクと出会えたのは本当に良かった。この二日間、本当に楽しかった」

 そこで一度アニーは言葉を切った。彼女の言葉の意味を冷静に受け止めようと俺が押し黙っていると、彼女は短く溜め息をついてこう続けた。

「だから、私はもう行かなきゃいけないの」

「どういうこと?」

 アニーはしばらく何も言わなかった。俺も今の彼女に重ねて問うことはできなかった。そして返事はこの沈黙なのだと俺が諦めた時、彼女の小さな、本当に小さな声が鋭い風音を乗り越えて俺の耳に届いた。

「タンスターフル、だよ」

 きっとアニーは俺にそれが聞こえるとは思ってなかったはずだ。初めて会った日にも彼女が言った、その意味を忘れたと嘘をついてごまかしたあの言葉。俺は必死になって考えた。いったい彼女は何を考えている? 俺は彼女の為にいったい何ができるんだ?

 俺はペダルを漕ぎながら思い出していた。今日も公営食堂で夕食を取ることにした俺たちは、壁際の席が埋まっていたので四人掛けのテーブルに座るしかなかった。先客の二人は俺たちとほとんど入れ違いに帰り、そしてまたすぐに別の客がやって来た。『リファイン』の夫婦とその子供だった。

 その夫婦は空いていた二つの席に腰を下ろし、それから料理が来るまでずっと携帯の画面と見つめ合っていた。その間、四歳か五歳くらいのその子供は自分の背丈よりも大きな椅子を隣のテーブルから持ってこようと必死になっていた。二人とも子供が苦労しているその姿を見もしなかった。彼らは子供の為に何かをする気なんてこれっぽっちもなかったんだ。何とか椅子を動かし終えてもまだその子の苦難は終わらなかった。なにせ大人用の椅子なんだ。一メートルくらいしかないその背丈では簡単に座れるわけもない。よじ登るように座ろうとしてはあえなく失敗して、何度も椅子を倒しそうになっていた。

 きみたちにはきっと理解できないだろうね。どうしてあの夫婦が、そして俺がその子供のことを平気な顔をして放っておけたのか。言い訳をするつもりじゃない。だけどそれがあの時代だった、と言うことしか俺にはできないよ。

 きみたちはあの頃の『リファイン』にとって子供とはどういう存在だったと思う? 少なくとも天からの授かりものでもなければ愛の結晶でもなかったことは分かるだろう。生殖機能のない『リファイン』に自力で子供をつくることはできなかった。彼らが子供として育てられるのは同じ『リファイン』だけだった。

 だが『リファイン』は自分の細胞を使って新たな『リファイン』の為のiPS細胞を作製することを禁じられていた。それを認めてしまっては生殖機能を与えなかった意味がなくなってしまうという理屈だった。馬鹿げた話にも程がある。受精卵の遺伝子情報にもし何か異常があればすぐに分かるだけの技術はもうとっくに完成していた。それなのに『リファイン』から細胞提供の自由を奪ったままにしていたのは、ただ彼らを自分たちと同じ存在と認めるのが怖い『オリジナル』の卑劣さのせいでしかなかった。

 血のつながりもなければお腹を痛めて産んだわけでもない、どこかのラボで生まれてどこかの病院から送られてきた赤ん坊。『リファイン』の夫婦にとっての子供はそういう存在だったんだ。それでも彼らは子供を欲しがった。だけどその理由はひどいものだった。決して夫婦として、或いは両親としての幸せを得る為なんかじゃなかった。

 子供が家に居れば政府から手当てがもらえた。それが目的だったのさ。生活に最低限必要な要素は無料で保障され、労働における性差もほとんどなくなったあの頃、『リファイン』にとっては結婚すらも政府から支給される一時金を目当てにするものになっていた。そんな理由で結婚した夫婦がそんな理由で得た子供に愛情を注ぐと思うかい? それを責めても仕方ない。誰もがそう諦めていると俺は思っていた。

 だから俺は、アニーが何の前触れもなく立ち上がり、その子供の脇を抱えて椅子に座らせた時本当に驚いたんだ。彼女はそれでもなお子供に関心を示そうとしないその夫婦を鋭く睨み付けた。痛々しく唇を噛んで、今にも泣き出しそうな顔をするアニーの瞳には怒りや憎しみの色すら浮かんでいた。

 その理由を俺は考えていた。見ず知らずの相手を前にアニーがあそこまで激昂したのはなぜだろう? 俺は公園で彼女から差し向けられた問いを思い出して、心の中で呟いた。――マイクのお父さんって、どんな人だった?

 自転車を停めた俺は、俺の部屋があるアパートの入口の前で待つアニーを見た。彼女はぽつりぽつりと降り始めた空を心配そうに見上げていた。俺は心を決めて口を開いた。

「アニー」

「ん?」

「きみは、きみの家に帰りたくはないんだろう? そうじゃないのかい?」

 俺の言葉を聞いたアニーはびくりと肩を震わせた。俺は怯えたように黙りこくる彼女に一歩近寄った。彼女は少しだけためらった後、その口を開いた。

「うん、帰りたくはないよ」

「それなら好きなだけうちに居るといい。あの部屋なら二人でも十分暮らせる」

「でも駄目だよ、そんなこと」

「どうして?」

「どうしてって……だって……」

 アニーは何度も首を横に振った。俺は彼女を苛むものの正体を掴もうとして、その曇った顔をじっと見た。だから俺は気付かなかったんだ。ほとんど人通りのないこの通りに、俺たち以外の足音が少しずつ近づいていたことに。

 肩を掴まれた感触がした直後、視界が真っ暗になった。頭の中身が跳ね回り、頬が燃えるように熱かった。殴られたんだ。そう理解するのに時間は要らなかった。

「まったく、こんなところに居やがったとはな」

 コンクリートの路面に叩き付けられた俺は歳を食った男のしゃがれた声を、そしてそれに続いたアニーの悲鳴を聞いた。

「どうして、あんたがここに」

「世間知らずが。こんな大都市にゃ監視カメラがいくつあると思ってる? 映画や本じゃ教えてくれなかったか? 大事な大事な娘が居なくなった、とか言えば警察がすぐに調べてくれるんだよ。事件性が何とかで警官は送れねぇとかほざいてたがな」

 かろうじて体を起こした俺はその声のした方を見た。そこには半分空になったウィスキーの瓶を左手に持った一人の男が立っていた。アニーはそいつに向かって叫んだ。

「来るな! 私はもうあんたとは関係ない!」

「馬鹿なこと言ってんじゃねえ。てめえを育ててやったのは誰だと思ってんだ、ああ?」

「ふざけるな、何が育ててやっただ。あんたたちのせいで私がどれだけ苦労したと……」

「で、今度はお前のお父様を苦労させようってか? てめえが居ねえと国から金がもらえねえんだよ。ちょっと酒買ったらすぐなくなっちまう」

 その男はぐいっと瓶を傾けて琥珀色の液体を喉に流し込んだ。満足げに酒臭い息を吐く男の前で、アニーの体はいよいよ恐怖に震えていた。彼女はこれまでの人生をずっとこんなやつに虐げられていたのか? 俺の問いに答えたのは、そんな彼女を見て――今でも忘れられない――にやりと口を歪めたその男の表情だった。

 俺は考える前に動いていた。それが正しいことかなんて分からなかった。それでも俺は立ち上がってその男の肩に手を掛けた。そして引っ張って彼女から引き離し、俺の方へと振り返った男の横っ面を力任せに殴りつけた。焦ったせいで当たりは弱く、男の反応は頬を押さえて数歩後退る程度でしかなかった。これでも、一、二秒でも稼げればそれで十分なはずだった。その間にアニーは逃げられると俺は思っていた。

「逃げろ、アニー! 走るんだ!」

 だが彼女はそこから一歩も動かなかった。いや、動けなかったんだろう。これまでの十九年間、彼女にとっての家族とはいったい何だったのかを思えば無理もなかった。しかしあの時の俺はそのことをまだ理解できていなかった。

 アニーがそこに立ち尽くす理由を俺が見つけられないでいるうちに、口の端から血を流す男は、足元にできたウィスキーとガラスの水溜りを踏み越えて俺の襟を掴んだ。

「弁償、してもらおうか?『オリジナル』様よ?」

 俺は返事をしなかった。そうする前に殴られたからだ。アニーの悲鳴が再び聞こえた。だが俺は倒れそうになるのをこらえ、揺れる視界の中でその男を必死に睨み付けた。そして今度は狙いをしっかりとつけ、満身の力を込めてその頬を殴った。俺の拳が過度の痛みに限界を訴えると同時に、男は体の平衡を失って倒れ込んだ。

「そんなに金が欲しいんなら、好きなだけくれてやる」

 俺はそう言うと財布を取り出して男の傍に投げ捨てた。男は俺の顔と財布へと交互に視線を向けていたが、俺が一歩後ろに下がったのを見ると素早く財布を拾い上げた。中身を見た瞬間、その顔が驚きと喜びのないまぜになった色に塗り込められた。そしてそいつが慣れた手つきで現金だけを抜き出す様を見て、俺は何もためらうことなくこう言った。

「消え失せろ! そして二度とアニーに関わるな!」

 男はポケットに紙幣をねじ込みながら俺から離れて行った。俺はそいつの姿が見えなくなるまで目を離すつもりはなかった。だがそれは間違いだった。俺は待つべきではなかった。すぐにアニーを連れてあいつから離れるべきだったんだ。

「喜べよ、アニー!」

 あの男は俺ではなくアニーを指差すとこう吐き捨てた。

「てめえの男はてめえに五百ドルも払ってくれたぜ、ただの番号がたいした値段だ!」

 そう言い残して男はどこかへ消えて行った。俺はその瞬間にはあの穢れた言葉の重要さを理解できなかった。だから俺はしばらくの間夜闇の中を見つめ続け、そして安堵の溜め息を漏らして振り返ったその時ようやく、自分の愚かさを思い知らされた。

 アニーは泣いていた。口元を覆う手袋の上を涙が伝って落ちてゆく。

「ごめんなさい、マイク、私、私……」

 その瞳は俺に気付かせた。俺がいったい何をしてしまったのかを。どうして俺は思い出せなかったのだろう。公営食堂で俺が財布を出そうとした時彼女は何をした? 俺が手袋を贈った時彼女は最後まで笑顔で喜んでいたか? 俺は何も分かっていなかった。

「私は、私なんかはもう、あなたとは一緒に……」

「待って、アニー!」

 俺は手を差し伸ばしてその手を取った。だが彼女はしゃくり上げながら俺の手を振りほどくと、俺にその背を向けてどこかへ走り出した。俺は追いかけようとした。だが、

「来ないで!」

 その絶叫は容赦なく俺の足を止めた。今、アニーは何て言った? 伸ばしかけた俺の腕に、いつの間にか本降りとなっていた雨粒が次々と打ち付けられた。

 雨風の音が俺の耳を覆い尽くした。その奇妙な静寂の中で、何度もアニーの悲鳴が繰り返された。時間が止まってしまったようだった。だけど、手を差し出した先にある彼女の背はどんどん小さくなっていってしまって、そして、闇に覆われて見えなくなった。

「アニー?」

 何をしてるんだ、早く追いかけるんだ! 頭がいくらそう叫んでも俺の足は泥にはまってしまったように動きそうになかった。こんなにたくさん降るなんてニュー・フリスコにしては珍しい。そんな、どうでもいい考えばかりが頭をよぎった。絶望と悔悟の念に襲われ、俺は足下を見た。そこに広がっていた水溜りの中に、俺は黒い何かを見つけた。

「あれ?」

 俺はそれが何であるかすぐに分かった。俺は一瞬もためらうことなく膝をつき、水たまりの中からそれを拾い上げた。見間違えるはずもなかった。手首の辺りに飾りのファーがワン・ポイント縫い付けられた、地味だけどかわいらしい、彼女によく似合う黒いレザー・グローブ。どうしてここに片方だけ? その答えは簡単だった。アニーが俺の手を振りほどいたあの時に外れてしまったのだ――。

「アニー!」

 俺は駆け出していた。俺は降りしきる雨の中をただひたすら突っ走った。走りながら、何度も何度も彼女の名前を叫びながら。

 ああ、それにしても、どうしてだろうね。何も考えていなかった……わけではないと思う。早くこれをアニーに返してあげないと、これがないとアニーはまた周りの目を気にしちゃうんだから、早く返さないと、この雨の中アニーは傘もさせやしないんだから……なんて、そんなことを考えていたと思う。けど、ほとんど無我夢中だった。アニーの姿を求めて俺は走っていた。

 そして俺は遂に彼女を見つけた。彼女と初めて出会ったあの映画館。とっくに閉まったその入口で彼女は両手で顔を覆って何度も何度もしゃくり上げながら立ち尽くしていた。俺はそんなアニーのもとへ歩み寄り、優しく彼女の名を呼んだ。

「アニー」

 俺の声が聞こえると彼女はすぐに振り向いた。

「マイク」

 水たまりと雨水に挟まれてアニーも全身びしょ濡れだった。自慢のはずのウェーブ・ヘアーも跡形もなくなってしまっていた。でも真っ赤に充血した目が、その頬を伝うものが雨だけではないことを俺に教えてくれた。

 何を言おうかを色々と考えていた。さあ帰ろうと何もなかったように言う? きみのせいじゃないんだともう一度繰り返す? 或いはもう気にしなくていいんだと気休めでも口にするか? だけど、結局俺の口から零れた言葉は全然違うものだった。

「これ、落としたよ」

 ほほえみながら俺はあの手袋を差し出した。俺が握り締めながら全力疾走したせいでそれはもうぐちゃぐちゃになってしまい、手袋というよりかはもうただの濡れ鼠だった。

「あ……」

 でも、アニーはそれを受け取った。露わになった右手を伸ばして彼女は俺の目をじっと見つめていた。

「マイク、どうして、どうして来ちゃったの? 来ないでって言ったのに」

「何でそんなこと言うんだい、アニー?」

「だって、もう分かったでしょう? 私なんかと居てもいいことは一つもない。私はあなたから何かをもらうばかりで、あなたは私と居たって損をするだけで」

 俺は言い返そうとして、寸での所で口を閉じた。俺はただ彼女の言葉を待った。聞かなければならないことだと、彼女の瞳の深い青に俺は気付いていた。

「ねえ、マイク。覚えてる? 初めて会った日のこと。マイク、私に言ってくれたよね。『オリジナル』も『リファイン』もそう変わりはしない。どっちも結局は同じ人間なんだ、って……言ってくれたよね?」

「ああ、言った」

「今でもそう思ってる?」

「何を言うんだ? アニー、当たり前だろ」

 俺は茶化さない程度に頬を緩ませて彼女にそう答えた。アニーは顔を上げて、その目尻からはより一層の涙が零れ出した。

「ありがとう……マイクだけだよ、本気でそう言ってくれるのは。でも、違うんだよ。『リファイン』と『オリジナル』じゃあ、私とあなたじゃ、全然違うんだよ」

 そう言うとアニーは右手をすっと上げた。そして腕を回して俺の方に手の甲を向けた。

「見せてあげる。私が何なのかをね」

 そこにはアニーが『リファイン』であることの証――十三桁の識別刻印があった。だが俺の目を引き寄せたのはそっちではなかった。その刻印を押し潰すように幾筋もの傷跡が錯綜していた。思わず目を覆いたくなるほどの痛々しさがそこにはあった。

「分からないんだ。私は本当にここに居るんだろうかって。ディアナ・ギアーズなんて人間は本当は居なくって、この十三桁の数字が人の形をしているだけなんじゃないのかって」

「その傷は、まさか、自分で……?」

 アニーは頷くと、自らを嘲るように力無く笑いながらこう続けた。

「こんなものを消してしまえれば自由になれると思った。でも駄目だった。それどころかね、避けられたり変に同情されたりして、余計に嫌な思いをするばかりだった」

 俺はその傷を刻んだ時の彼女の絶望の深さに思いを寄せて、そして遂に、俺がずっと間違っていたことに気が付いた。アニーが右手を隠していたのはその識別番号を見せたくなかったからではない。ましてや自らの生まれを忌んでいたからでもない。ただ彼女は自分の弱さを他人に晒すのを拒んでいただけだったんだ。彼女は誰に対して助けを求めることもしなかった。思い出してくれ、あの日映画館のロビーに居た彼女は、誰に声をかけることもなくただうつむいてそこに居たんだ。

 どうしてアニーが助けを求めなかったと思う? それは決して彼女が強いからなんかじゃない。彼女は助けてもらうのを怖がっていたんだ。ただの番号以上の価値もない――彼女は本気でそう信じてしまっていた――自分に、そんなことは許されるはずもないと。

 だから、助けて欲しいと心の中でずっと叫んでいたのに彼女はそれを誰かに伝えることができなかった。それだけの話なんだよ。ポケットの中で握った拳にいつか誰かが気付くのを待つなんていう不器用なやり方が、彼女にできる精一杯のことだったんだ。 

 少しずつ雨は弱まってきていた。風も段々と静かになってきて、アニーのしゃっくり混じりの声も俺の耳に届いていた。でもその涙だけは未だに乾きそうにはなかった。

「ねえマイク。私はどうして生きているんだろう? これが私の運命だったの? このくだらない番号に自分の存在さえあやふやにされて生きるのが?」

 アニーは俺にそう問い掛けた。彼女の左手はその右手をぎゅっと掴んで覆い隠していた。

「私だって人間なんだからもっと私らしく生きたい。こんな冷たい番号じゃなくてディアナ・ギアーズとしてみんなに認めてもらいたい。そう思うのは、そんなに変なことかな?」

「そんなわけあるもんか。何にも変じゃないさ」

「本当にそう思う? ほとんどの『リファイン』は今の状態に満足してるんだよ。公営食堂で、病院で、駅で、自分のことを名前じゃなくて識別番号で認識されることを平気で受け入れてる。誰も分かってないの、無料の昼飯なんかはないってことを」

 アニーの切実な声を聞いたその時、俺の頭の中でずっと残っていた疑問がその姿を消した。忘れかけていた、でも忘れてはいけないあの言葉。俺は静かにアニーに尋ねかけた。

「それが、タンスターフル?」

 無料の昼飯なんかない――There Ain’t No Such Thing As A Free Lunch――の頭文字を並べてできあがったその言葉、TANSTAAFLをそのまま読んだだけだ。俺にそう訊かれたアニーは静かに頷いた。

「やっぱりマイクも馬鹿じゃないね。うん、そうだよ。幾ら誤魔化したところでそれは自分の気付かないところで既にその料金を支払わされているか、他の何かでその埋め合わせをさせられている。だからそんなものは存在しないし、それに甘える者は結局何も得ることはできない。それどころかもっと大きなものを支払わされていることすらある」

 俺はようやく理解した。俺がこの二日間よかれと思ってやってきたほとんどのことは、アニーのプライドをずたずたに傷付けるだけのものでしかなかった。

「だから私はあなたと一緒には居られない。私はあなたに何も返せない。私はもう、自分がもらったものの重さに耐えられない。これは私のわがままかもしれない。でも私はあなたには、マイクにだけは、他の誰かと同じようには……」

「アニー」

 俺は彼女を抱き寄せた。ずぶ濡れになった服を越えて彼女の体の熱が伝わってくる。

「やめて……やめてよ、マイク。離してよ」

 俺は絶対に離す気なんてなかった。ここでアニーを離したら、まるで雨の中の涙のように、きっと彼女は消えてしまうって思ったんだ。

「何度でも言う。『オリジナル』も『リファイン』も変わりはしない。たとえ誰もがそうだと言っても、俺は絶対にそうではないって言ってやる。愛してる、アニー」

 俺はぎゅっと両手で強く抱きしめたままアニーの耳元で力強く言った。彼女も俺の背中に手を回してきて、その鼓動が早くなったのを俺は感じた。

「私も、私も……言っていいの、マイク?」

「ああ」

「私は『リファイン』だよ?」

「知ってる」

「子供は産めないんだよ?」

「俺もそうだ」

「え?」

 俺は、アニーに対して今まで隠していたことを告げる決意をしていた。

「十五年前、俺は『悪魔のインフルエンザ』に感染した。きっとあの公園でだ。親父は駄目だと言ったのに、無理を言って連れて行ってもらったんだ。そうして俺たちがウィルスを持ち帰ったせいで家族のみんなも発症した。そして……俺だけが生き残ってしまった」

 俺が『悪魔のインフルエンザ』に罹患したことは俺がそれに対する抗体を獲得し、そのかわりに生殖機能を失ったことを意味していた。『オリジナル』と『リファイン』を隔てるものがあの病気への耐性と生殖機能の有無ならば、いったい俺は『オリジナル』なのか? それとも『リファイン』なのか? 俺の問いに答えてくれる人は誰も居なかった。

「きみは言ったね。自分がどうして生きているのか分からない、自分が自分なのか自信が持てないって。そんなの俺も一緒だった。だけどきみが変えてくれたんだ、アニー。きみが俺に何も返せないなんて本気で思っていたのならそれは間違いだよ。俺はもうきみにあげた以上のものをきみから貰っている。きみに出会う為に俺は今まで生きてきたんだ」

 俺は密着させていた体を離して、アニーの顔を真正面から見据えた。もう雨は上がっていた。闇を照らし出す月の光に、その頬に伝う一筋がきらりと輝いた。

「私は……」

 アニーはそこで一度黙って言葉を探した。自分の心と向き合う為の言葉を。

「ディアナ・ギアーズで」

「ああ」

「何の取り柄もない世間知らずで」

「俺だってそうさ」

「あなたに迷惑ばかりかけるかもしれない」

「それが何だって言うんだい?」

「あなたの人生を犠牲にしたとしても?」

「それを決めるのは俺さ、アニー」

「結婚もできない相手の為なのに?」

「それなら、俺がルールを変えてやる」

「そんなの……何年、いや何十年かかることか」

「分からない。でも、きっとやってみせる」

「本気?」

「本気だ」

 頷いた俺を見て、アニーはほほえんだ。

「信じて……いいの?」

「ああ。その代わり、ひとつだけ約束して」

「何を?」

「これから先、ずっと俺のそばに居てくれる?」

 そしてアニーは一度だけ、深く頷いた。

「うん……約束する」

「ありがとう、アニー」

「ありがとう、マイク。……愛してる」


「こうして、俺は政治家になることにしたんだ」

 羅紗張りのソファーに座る俺は、そう言って長い長い昔話をしめくくった。深く息を吐き、背もたれに体を沈めて目を閉じる。やはり疲れた。議会で三時間連続で演説したこともあったが、今ではもう絶対にできないな。自分の老いをあらためて実感させられた。

「おじいちゃん?」

「なんだい、アダム?」

「それからは?」

「それから?」

 俺は目を開けた。俺の前で、俺の子供と孫がじっと俺のことを見つめていた。息子一人に娘が一人。孫は三人。パートナーも合わせると全部で七人だ。俺は両肘を膝の上に置いて手を組むと、俺のほとんど足元で一番熱心に話を聞いていた孫に答える。

「俺はアニーと一緒に住むようになり、すぐにフル・タイムの仕事を見つけた」

「それで?」

「お金を貯めて、選挙に出て、政治家になった」

 だがどうもこの答えでは、まだ十歳になったばかりの好奇心旺盛な子供を満足させられなかったようだった。アダムはむっとして口を尖らせる。

「そうじゃなくってさあ、それは分かるよ」

「パパ、ここは議会じゃないんだから」

 半ば呆れてか笑いつつ、しかし有無を言わせぬ口調でミミが言った。三児の母となった自慢の娘だ。そうやって指摘されては俺も苦笑せざるをえなかった。

「議会じゃない、か。確かにそうだった」

「あんまり子供たちをがっかりさせないでよ」

「悪かったって。ああ、ちょっと待ってくれるかな」

 俺は傍らの机の上にあったコップに手を伸ばした。皺だらけの自分の手が否でも応でも目に入る。ぬるくなった水を口に含みつつ、俺は壁にかけられた時計を見た。時刻は既に午後の十一時五十七分だった。

「だけど、いいかい、俺がどうやって選挙に勝って、議員になって、最終的に上院の議長になれたかなんてことは話す気はない」

「どうしてだい? そこを聞けると思ってたから、ここまで素面で聞いてたのに」

 スコッチの入ったグラスを傾け、にやりと笑いながらそう返してきたのはシモンだった。俺ほどじゃないけどなかなかに賢い、よくできた息子だ。わざわざ憎まれ口を叩いてきたシモンに、俺は人生の先輩として一言言わせてもらうことにした。

「シモン、こういう時はボトルと上等なチョコレートを用意するもんだ……それくらいの手間を惜しむようじゃ学部長にはなれないぞ」

「覚えておくよ。そんな手を使わなくてもなるつもりだけどね。で、実際のところは?」

「そもそも、こんな昔話をしたのは、きみたちにだけはちゃんと知っておいてもらいたいと思ったからさ。どうして俺がこんな人生を選んだのか、ってことを」

 まだ中身の残っているコップを置いて、続ける。

「『解放者』に『人類の裏切り者』……それから『同権主義者』や『差別推進者』やら……政治家としてのこの俺、マイケル・マニー・ベーカーを表す言葉は幾らでもあるわけだが、俺からすればどれもこれもおかしなものばかりでね。俺はどっちの連中が言うほどにも、ご立派な理論なんてものは持ってなかったというのに」

 俺は再び背もたれに体を委ねた。そして傍にあった机の引き出しを開けた。そこにはすっかりボロボロになった一双の黒いレザー・グローブが入っていた。ワン・ポイントで縫い付けられた飾りのファーも、汚れてしまってかつての面影はほとんどなかった。

「俺は……ただ、自分の為にやってきただけだ。賃金法を改正したのも、『リファイン』に細胞提供の自由を与えるよう運動したのも、こまごまとした交通法の料金規定をわざわざ議会に持ち込んだのも、全部そうだ」

 俺は引き出しを元に戻し、再び時計の表示に目を這わせた。十一時五十八分。あと二分だ。俺はポケットの中に手を突っ込み、そこにしっかりとそれが在ることを確認する。

「でも、それももうお終い。議員は辞めてきた。これからは楽に過ごさせてもらうよ」

 俺はそう言って笑った。俺の子供も孫も全員『リファイン』だった。生物学的な文脈では俺たちに血縁と呼べるものは存在しない。なぜって、俺の遺伝子の方だけを受け継がせるわけにはいかなかったからね。でもそれが何だって言うんだい? 『リファイン』で右手の甲を隠そうとするのはもう誰もいないんだ。世界のどこにも、もちろんここにも。

 シモンは今日も大学で教鞭を取って来た。ミミは今じゃハウス・メーカーだけど、結婚前は月給二千五百ドルの敏腕プログラマーだった。アダムたち三人の孫には、俺はいつも交通費とランチ代と称してお小遣いをたくさんあげるのを忘れない。――ああそうさ、時代は変わったんだ!

 ただひとつ、『リファイン』に生殖機能を付与するかどうかについてだけは決着が付けられなかったが、この問題には次の世代がきっと答えを出してくれるだろう。それに今や『リファイン』は科学的な方法であるとはいえ、血の繋がった子供を持つ権利も得た。もうこの世界は『リファイン』の存在を正当に評価しているんだ。自力で生命の輪を繋げるかどうかで優劣を語ったりはしない。少なくとも、俺が生きている間はきっとそうだろう。

「ねえ誰か、開けてくれない?」

 その時、この部屋とキッチンを繋ぐドアの向こうから声が聞こえてきた。すっかりしゃがれた、それでもやはり、昔と変わらない明るい声。

「手が塞がってるの。誰か、お願い」

「アダム、開けてきてくれるかい?」

 俺の孫はドアの元まで走っていくと、全身を使って勢いよくドアを開けた。

「ああ、間に合ったみたいね。よかった」

 そこから姿を現したのは、そう、見間違えるはずもない。満月に負けないプラチナ・ブロンドの髪と、夏空を抜き出したコバルト・ブルーの瞳。俺の愛するアニーがそこに居た。

「さ、みんな、あったかいうちに食べちゃいましょ。ニュー・フリスコ名物マイク・ピザよ。久しぶりね」

 大きなピザが乗った皿を持ったアニーは、それをテーブルの上に置いた。みんなが歓声を上げる。俺たちは今じゃもうなくなってしまったランチ・ピザになぞらえて、俺とアニーが一緒に作ったピザのことをマイク・ピザなんて冗談めかして言っていた。

「昔話はお終い?」

「ああ、ついさっき終わったよ」

「あら残念。私も聞きたかったのに」

「なに、そこの壁一枚だ、聞こえてたんだろう?」

「さあ、どうでしょうねえ」

 懐かしそうに語尾を伸ばしながら、一人一人にピザを切り分けていくアニーの姿を見ているだけで俺は本当に幸せだった。俺の隣でそうやって背筋を伸ばす姿がいったいどれだけの『オリジナル』と『リファイン』の蒙を啓き、彼女と同じ傷を抱えた人々に勇気を与えてきたことだろう。社会が変わり、『リファイン』が正当な権利を獲得した今、彼女の全ての努力は報われたと言えた。横目で盗み見た時計は五十九分を示していた。

「マイクは?」

「いや、もう少し後でいい。あと少しだ」

「うん、わかった」

 およそ家族が得られる幸せというものを、俺とアニーはきっと十分に得られてきたと思う。すっかり老人になってもまだ生きながらえて、子供と孫に囲まれて、こうして暮らすことができて……。でもあとひとつだけ、まだ掴んでいないものがある。

 俺は再びポケットを探った。そこにある固い感触を確かめる。そして、心の中で呟きながらカウントダウンを開始した。五、四、三、二、一。

 時計の鐘が鳴り響いた。午前零時を告げたのだった。俺は、言うことを聞かなくなり始めた足をなんとかなだめすかしながら立ち上がろうとする。

「大丈夫、マイク?」

 苦労していた俺にアニーの手が差し伸ばされた。彼女はもう手袋を着けていなかった。もちろん、ポケットに手を突っ込みながら映画館に迷い込むこともないだろう。俺は笑って応えながら、その手を取って立ち上がった。

「ありがとう、アニー」

「どういたしまして」

 彼女はほほえみながら優しく答えてくれた。あの日から今日まで五十年間、いったい何度この笑顔に俺は助けられ、そして支えられてきたことだろう。

 俺たちはみんなに見守られながらバルコニーへ続く扉を開き、段差に気を付けながらそこへ降り立った。二人並んで見上げた夜空には、白い雲を薄衣のように羽織る満月が昇っていた。だけど俺は今から、あの輝きに負けない――いや、あれよりももっと美しいものを手に入れるんだ。

「さて、日付も変わった」

「ええ」

「長かった。ここまで本当に長かった」

「五十年だもの。でも、あなたは成し遂げた」

「ああ。俺の為に……そして、きみの為に」

 俺はポケットから立方体の箱を取り出した。

「俺は世の中で言われてるような、高尚な理論家なんかじゃない。『リファイン』の権利の擁護者でもなければ、人類の秩序の破壊者でもない。ただ、俺がやりたいことをやっていったら、きみの為にできることをしていったら、いつの間にかそうなっていた」

「不思議なことだね、何度考えても」

「ああ、本当に」

 アニーも、俺と同じように綺麗な箱を持っていた。彼女の青い瞳を真っすぐ見て、俺は噛み締めるように言う。

「二一一四年の本日を以て、改正婚姻法は施行。『オリジナル』と『リファイン』間の結婚は、本人間の合意によって成立することとする」

 俺たちは箱の蓋を開け、そして互いにラピスラズリがはめ込まれた指輪を差し出した。

「アニー、いや、ディアナ・ギアーズ」

「はい」

「俺と、結婚してくれるかな?」

「もちろん、喜んで」

 アニーは深く頷いた。その目尻から一筋の涙が零れ落ちる。俺も湧きあがってくるそれを押さえることはできなかった。そして、バルコニーをささやかな拍手が包み込んだ。

 もう皺だらけになったお互いの左手の薬指に、時間をかけて俺たちは指輪をはめた。五十年越しの約束を、俺はやっと全て果たすことができたんだ。

「タンスターフル、無料の昼飯はないわけだけど」

 自分自身の涙はそのままに、俺の頬に指を優しく添わせてアニーは尋ねてくる。

「私はこの幸せに、何を返せばいいの?」

 そう訊かれた俺は、もう何も迷わなかった。

「何も要らないさ」

「本当に?」

「ああ。だってそうだろう? 全て、二人で分かち合うものなんだから」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ