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4 ワルシャワ空爆

 ザシャ・デーゼナーはいわゆる職業軍人でいわゆる天才肌というやつだが、しかし問題は、圧倒的に実戦経験が不足しており、そのため、今のところたったの一度も戦友を失った事がないというのが相応の問題だった。それは、彼女の所属が偵察部隊であったことにも関係しているのだろう。

 戦友の喪失を経験したこともない兵士など、実際のそうした状況に陥ったときにどういった事態に陥るのか想像に難くない。

 戦場で役に立たない兵士など必要ではない。

 ドイツ軍の方針としては、女性を兵士として、あるいは士官として前線に送る事に対してはひどく消極的だ。なによりも婦人補助員そのものが最前線に登用されないことを考えればザシャがどれだけ異質な存在であるのかわかろうというものだ。

 こうした事情から異例の「女性士官」であるザシャが今まで最前線での戦闘行為に準じる勤務を命じられる事はなかったのだ。しかし、戦争がはじまってしまえばそうも言っていられないのが世の常で、爆撃隊の補充要員として大抜擢されてしまった。

 もっとも、普通の士官であれば喜びもするのだろうが、いかんせん彼女は元々看護婦を志していたような女性だったから、軍人として前線勤務を命じられるということにひどい嫌悪を感じていた。

 スペインの大空でシュトルヒを駆り、一度として被弾した事のない女性パイロットの存在は「ドイツ空軍(ルフトヴァッフェ)」にとっては貴重な存在であったが、当の本人にとってみれば極めて不幸な出来事だった。

 なにせ、大学と軍の飛行学校にあっては飛び級を幾度も経験している上、飛行技術はパイロット候補生の中ではずば抜けていて、彼女を指導した教官たちは口をそろえて「複葉機でも最新鋭機でもなんでもその場で飛ばすことができます」と折り紙付きだ。

 見た目以上に度胸も、勇気も人一倍だ。

 さらにそうした状況への対応力が柔軟であることに加えて、記憶力と分析力が素晴らしい。いわゆる天才肌でなんでもできて、さらに努力型と来ては体力以外では同期生の候補生たちが手も足も出ないのは言うまでもない。

 そのためわざと聞こえるような陰口こそたたきこそすれ、誰もが彼女の飛行技術を目の当たりにすると認めずにはいられないのだ。

 そしてそんな彼女の指導をした教官のひとりがこう言った。

「あの子のフライトテクニックは天性のものですね。操縦桿を握らせれば天下一で誰にも負けません。戦闘機だろうが爆撃機だろうが、”予備訓練なし”で戦場を飛ばすことができます。後にも先にもこんな逸材はそうそう現れないでしょう」

 もっとも、そうは言われてみても、受け入れる側の飛行中隊はかなりの勇気が必要だったらしい。中隊長のカスパル・ファルは軍学校を卒業したばかりの女性パイロットを実戦投入する事については当初は相当大反対をしていた。

 そんなこんなで、紆余曲折を経てザシャ・デーゼナーが第七六急降下爆撃航空団第Ⅱ飛行隊第五飛行中隊に配属されて二週間ほどになる。


 結局、ザシャの機体の修理はやはり翌朝までには間に合わず、速い時間帯に整備兵から予備機を受領していた。

「少尉、ちょっといいですか?」

「はい」

 ひらりと手招きされて彼女は爆撃隊のカーキ色の飛行服を身につけた彼女は、飛行帽に金色の巻き毛を詰め込みながら振り返ると小首を傾げた。細い体つきが男ではないことを現してはいるものの、サイズ以外では男たちと大して変わらない色気も欠片もない格好をしていた。もちろん戦場で色気など不用ではあるが。ハニーブロンドの前髪も飛行帽に詰め込みながら呼び出された整備兵についていく。

 案内されたのはザシャの機体が修理されている現場だった。

 夜通しで彼女の機体の修理に徹している整備兵らに頭が上がらない思いでぺこりと頭をおろす。

「……ここにね、ヒヨコちゃん(キューケン)を描いてもいいですかね?」

「……ヒヨコ(キューケン)?」

「ニワトリのヒヨコですよ、ニワトリ」

「はぁ?」

 思わず間の抜けた声を上げてしまったザシャに整備兵の男が笑う。

「ほら、少尉って、あんまり爆撃機の事好きじゃないみたいなんで。ヒヨコでも描いておけば愛着もわくかな、と」

 ヒヨコ。

 それは彼女のニックネームだ。

 いったい部隊の誰が最初に言い出したのかは知らないが、着任して数日していつの間にか「ヒヨコ」という愛称が定着していた。

 不細工な自分の顔でも描くのかと、ついザシャは勘ぐってしまったが、要するにただのニワトリの雛のことだったらしい。

「別に、いいですけど。……わたしの飛行機じゃないのにそんなことをしたら怒られませんか?」

「まぁ、いいじゃないですか。戦闘機隊のエースだって自分の機体持ってるんですから、ヒヨコ少尉は空軍唯一の爆撃機乗りのお嬢ちゃんですし、これくらいやったってバチのひとつやふたつあたりませんって」

 豪快にげらげらと笑う整備兵にザシャは無言のまま訝しげに首をひねった。

 本当に大丈夫だろうか……? そもそも、たったそれだけのことで爆撃機などに愛着がわくものなのだろうか。シュトルヒのことは好きだが、どうもJu87(スツーカ)には今ひとつなじめない。

 とりあえず納得いかないまま、彼女は宛がわれた予備機に向かって足を向ける。

 すでに野戦基地の滑走路に配置されていて離陸の準備が進められていた。彼女はすぐに他の隊員たち同様に中隊の整列に加わって中隊長の短い点呼の後に自分の扱う機体のチェックに入る。

 まだ明け切らない前線基地は薄暗く、急降下爆撃隊の野戦基地のさらに後方にある戦闘機隊の野戦基地から最新鋭のドイツ空軍の戦闘機――Bf109が軽やかなエンジンの音を響かせて飛んでいくのが見えた。

 戦闘機隊の仕事は、爆撃機隊の護衛でありポーランド空軍の駆逐だ。

 いかに電撃戦の花形の急降下爆撃隊と言えど、戦闘機隊の支援がなければその任務を全うすることなどできはしない。

 機隊の計器類のチェックをするのは自分の身を守ることと同じで、そしてそれは同時に後部機銃手の安全のためでもあり、爆撃機隊の仲間の身の安全でもあり、地上部隊の兵士たちの身の安全でもある。

 急降下爆撃隊――空飛ぶ砲兵。

 同じ中隊に配属された同型の機体であっても言え、一機ごとに癖が異なる。それを見極めて飛ばなければならない。

 彼女の教官たちは、ザシャを天才ともてはやすが、別に自分は天才でもなんでもない、と思っている。

 剛胆に見える彼女の飛行も、けれども慎重に神経を払って機体を扱っているに過ぎない。自分の事も、機体のことも、決して彼女は過信することはない。こうしたザシャの姿勢や基本に忠実な態度が、今の彼女自身の評価に繋がっていると言っても過言ではないのだが、周りの人間たちから言わせれば、簡単にやっているように見えてそうでもないということになった。

 誰しも自分のことというのは正確に見極めることなどできないものなのだ。

 いかに「天才」と言われる彼女であっても。

「今日の任務はワルシャワの空爆だ。ついてこれるか? ”新入り”」

 新入り。

 それは中隊長のカスパル・ファルが、ザシャを”いびる”ときに使う呼称だ。

 普段は「ザシャ」と呼ぶのに、任務に出る前は気がたっているのか彼女を新入り呼ばわりする。

 もちろん、ザシャはそんなことにいちいち反論したりはしない。

 確かに自分は中隊では新入りであるのも間違いではなかったし、なによりも爆撃隊の隊員たちの中で一番キャリアが浅い。

 馬鹿にされてもやむを得ない立場なのだ。

 市街地の空爆。

 そう言われて、ザシャは計器類のチェックをしていた手を思わず止めた。

 数秒の沈黙の後、突然、カスパル・ファルの拳骨が思い切り彼女の頭頂部を襲った。

「いっ……」

 目から火花が散るかと彼女は思った。

 咄嗟に両手で頭を覆ってからきつく目をつむる。

 悲鳴を上げる間もなかった。

「……甘やかさないからきっちりついてこい」

 鉄拳制裁ですんだだけで充分甘やかしているような気がしないでもない。

 中隊の面々は遠目にそんな新米爆撃隊員を眺めて盛大な笑い声を上げる。もっとも、それでも理不尽な鉄拳を食らう羽目になったザシャに同情しているのだ。

「中隊長はヒヨコに甘いからな」

「そりゃ、娘か妹みたいでかわいくて仕方がないんだろうよ」

「公私混同じゃないのか? それ」

 言いたい放題だ。

 彼らは思うのだ。

 もしも鉄拳を受けたのが自分だったら「これから市街地空爆だが、覚悟はできているか」などと問いかける事すらしないだろう、と。

 だから、そんなカスパル・ファルを見ていると、どうしても「甘やかして」いるようにしか見えなかったりする。

 和気藹々と彼らは笑うが、実際、そんなことを言う隊員たちもザシャのことがかわいくて仕方がないのだから、ファルと立場は同じだった。

 不思議なもので、彼女は荒くれ男たちをも惹きつける魅力があった。

 しかし、それは決して性愛的な意味ではない。

 頭頂部に鉄拳を食らったせいでコブでもできたのだろうか、痛みをこらえているらしい彼女は頭を片手で押さえながら後部機銃手のヘクター・デューリングと会話を交わしている。

 涙目になって頭をさすっている彼女は相当痛かったのだろう。

「しかし容赦なくぶん殴られたな……!」

 からかうような戦友の言葉にザシャは少しだけ恨めしげに唇を尖らせた。

「笑わなくてもいいじゃないですか」

「ヒヨコがいつまでもしょぼくれてるから悪いんだろ」

 出撃前のザシャは、帰投したときよりもずっと元気ではあるが、それでも男たちと比べれば覇気が足りない。

 たぶん、でっかいコブができてるのだろうと、男たちは勝手に想像して、そうして勝手に声を上げて笑い転げている。

「大丈夫ですか? ヒヨコ少尉」

 ヘクター・デューリングがふくれっ面になった彼女に同情したように問いかけるが、余り気休めにもなっていないらしく、気もそぞろに「大丈夫」と答えが返ってきただけだった。



  *

 エナーシャハンドルが回される。

 それと同時にエンジンがうなり声を上げる音と震動が同時に彼女の全身に伝わった。

 ザシャは長い睫毛を震わせると息を吐いて心を落ち着ける。

 操縦席に座って操縦桿を握る。

 人殺しの道具は嫌いだったが、離陸する直前のこの緊張感がザシャは好きだった。心地よい高揚感に彼女の魂が戦慄する。

 自分は、飛ぶために生まれてきたのだ、と、はじめて空を飛んだときに感じた。看護婦になる夢を捨てたわけではなかったけれども、それでも、空を飛ぶという事に、なによりも幸福感を感じたこと。

 ――君は、天使の生まれ変わりなのかもしれないな。

 陳腐なことを、教官のひとりが言った。

 その教官は、ザシャにメッサーシュミットBf109に乗せてくれた。まだ運用開始されたばかりの時だった。

 親馬鹿な彼は、自分の娘のように彼女をかわいがって、教官仲間にかけあってありとあらゆる航空機に乗せてくれた。

 中でも、ザシャが気に入ったのはフォッカーD.VIIフォッカー・デー・ズィーベンと言う先の大戦で使われた古い複葉機だった。

 どうしてそんな複葉機を気に入るのか、と教官が首を傾げたものだ。

 そういえば、シュトルヒも少しだけ複葉機と外見は似ていた。

 だからザシャはシュトルヒを気に入ったのかも知れない。

「天使は男ですよ、教官」

 そう言った彼女に彼は人の良さそうな笑みを浮かべて、煙草をくわえたままで「それもそうだな」と言った。

 ザシャが好きだった複葉機とは似ても似つかない、逆ガル主翼のJu87(スツーカ)

 それでも、飛ぶ事が好きだった。

 いつか、このスツーカも好きになれる日が来るのだろうか。

 そんなとりとめもないことを考えながら、彼女は首を傾げると目を開く。

「気後れするな、ヒヨコ」

 無線を通じて聞こえてきたくぐもった声に、ザシャが「了解(ヤヴォール)」と答えてから意識を切り替える。しかし、切り替えようとして失敗した。

 編隊の中程に組み込まれた彼女からは、首を回せば僚機のパイロットの姿が見える。残暑の中、上半身裸で出撃準備をする部隊の仲間を思い出してしまって、ザシャはボッと火を噴いたように赤面した。

 操縦席に座ったままでぷるぷるとかぶりを振った彼女に、脇を飛ぶ男が眺めてどこか意地悪く笑っていた。

「何を考えた? ヒヨコ」

 からかうような彼の声が無線から聞こえて、彼女は照れ隠しのように声を荒げると、怒ったように舌打ちする。

「別に、なにも……っ!」

「どうせエロいことでも考えたんだろう」

「エ、エロいことってなんですかっ! 勝手に変な想像しないでくださいっ!」

 声が裏返ってザシャの動揺が部隊のパイロットたちに伝わってしまって、一同がどっと笑った。

 つくづくからかい甲斐のある新入り、といったところか。

 部隊に和やかな空気が流れる。

 爆撃機というものは、決して最新鋭の戦闘機のような優美さがあるわけではない。無骨な機体は地上を狙う肉食の鳥に似ている。

 鷲か、鷹か……。

「戦闘空域に入ったら冗談を言っている暇はないからな」

 カスパル・ファルの厳しい声に、ザシャは表情改めるとガラスの向こうを見つめ直す。

 戦闘機とは異なり低空をゆっくりと飛行する爆撃機には敵が多い。高射砲のみならず、ポーランド空軍の時代遅れの戦闘機ですらも時として脅威になった。

 自機とは少し離れたところに飛行する隊長機を見つめてから、ザシャは自分の心臓の鼓動に耳を傾けた。

「……ザシャ」

 無線からファルが彼女を呼ぶ。

「落ち着いて、頭をからっぽにして何も考えるな。隊についてくればいい。わかったな?」

「……はい」

 新米の爆撃機パイロットにファルは言葉を投げかける。

 これだから中隊長のカスパル・ファルは「ヒヨコに甘い」などと言われるのだ。

 爆撃目標はワルシャワ市街。

 その中のいくつかの重要な公共施設。もちろん多数の民間人が犠牲になるだろう。市街に爆撃を加えるということがどういうこのなのか。少し考えれば誰でもわかる。

 戦争で犠牲になるのはいつも弱者だ。

 やがて彼らの中隊は煙を吐き続ける街の上空へと入っていく。対空砲火はいよいよ激しくなり、ポーランド空軍の戦闘機の機銃が火を噴いた。

 Ju87の護衛についていたメッサーシュミットBf109がそれを追う。空中格闘戦(ドッグファイト)に持ち込めば、このドイツ空軍最新鋭の戦闘機は前大戦の遺物のような戦闘機に負けはしない。

 空からBf109とJu87という猛禽類が、確実にポーランド軍を圧迫していく。

 Bf109のパイロットが軽く片手をあげた。

 眼下にはワルシャワの街が広がっている。

 路地という路地にポーランド軍が展開していたのが見えた。

 翼を振る隊長機にザシャは深く息を吸って両目を見開いた。足元の小窓を確認する。編隊が次々と強くバンクして機首から突っ込むようにして地面に向かって「落ちて」いく。

 サイレン――ジェリコのラッパが鳴り響いた。

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