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3 殺す決意

「ご、ごめんなさいエントシュルディグング……」

 基地に戻ったザシャはいかつい整備兵の前で小さくなって肩を縮めている。

「こりゃまた……」

 派手にやりましたなぁ。

 タバコをくわえている三十代後半の整備兵は、うなりながら彼女の乗機である爆撃機を見つめていた。

「でも、まぁ。ほかの連中のやられっぷりよりはましなんで、問題ありませんよ。”すぐ”直ります」

 栄誉あるパイロットたちを「連中」呼ばわりしたベテランの整備兵はにやりと笑うと居心地が悪そうに小さくなっている女性パイロットにひらひらと片手を振った。

「ま、少尉は気にせんで飯食ってゆっくり寝ててください。その間に直しときますよ」

「直ります?」

「問題ありません」

 どうやら、高射砲に突っ込んだときに右脚を吹き飛ばしてしまったようだ。結果的に着陸で無理をする羽目になって胴体着陸しなければならなかった。もちろん、乗員のザシャとデューリングは問題なく無事だった。

「直りますよ」

 心配いりません。

 そう告げた彼に、ザシャはもう一度頭を深くさげると宿舎へ向かって歩いて行く。時折振り返るのは乗機が心配なためかもしれない。

 もっとも、心配したところで仕方がないのだが、そんな彼女を見ている仲間たちのほうが焦れったい思いをする。

「おまえさんがあんな無茶するなんて珍しいな」

 ザシャが整備兵と話して終わるのを、地面に座り込みながら待っていたルッツ・ハーラーは、軽く自分の肩を叩いてから彼女に言った。

「しかし、顔が青いな」

「……すみません」

 眉をひそめてから苦笑した彼女は、不意にうめき声をあげると口元を手のひらでおおって、その場にしゃがみこむ。

 すえた臭いが辺りに広がった。

 ずっと我慢していたのだろう。

 大きく背中を震わせながら嘔吐している彼女の隣に座って、ルッツ・ハーラーはやれやれとつぶやきながら手袋を外すと大きな手のひらでザシャの背中をさすってやった。

 吐き出すものがなくなって、黄色い胃液を吐きだしている彼女はきつく眉をよせて荒い呼吸を繰り返した。これさえなければ「腕の良い爆撃機乗り」ですむのだが、任務から帰るとまず十中八九これだ。

 確か、彼女が軍人として正式に任務に就いたのはほんの一年ほど前のことだという。ポーランド戦が始まるまでは軍人として「殺人」の任務に関わった事はなかったらしい。

 要するに、ザシャ・デーゼナーにとってこれが初めての実戦経験になる。

「夕飯、食えそうか?」

「大丈夫です」

 自分が軍人で、体が資本であることも理解している彼女は、何度嘔吐を繰り返しても決して食事は怠らない。しっかりしすぎていて、逆に心配になる事もままあるが、それでも彼女は申し訳なさそうにハーラーにほほえむのだ。

 そんなに人殺しがいやなら、軍人なんてやめてしまえばいいじゃないか。

 ハーラーは数日前に、彼女にそう言った。

 しかし、返ってきたのは意外な言葉だった。

「わたしはなにがあっても、わたしの意志でわたしのやりたいことをやることなんてできはしないんえす」

「ヒヨコの人生だろう」

「……それが、”わたしの人生”なんです。きっと」

 どこか悲痛な決意を秘めて彼女はぽつりぽつりと呟くように言葉を吐きだしてから、かすかに笑う。

 言いながらザシャは、無意識に自分の金色の巻き毛を指先に絡めると強く引いた。

 なにやらやたらと悲愴な決意を固めている年下で異性の同僚に、結局それ以上の言葉をかけられずにハーラーは「あぁ、そうか」と曖昧な相づちを打つだけだった。

 胃の中が空っぽになってからようやく落ち着いた彼女は、ハーラーに肩を支えられるようにして立ち上がるとやはり青い顔のままで笑った。

「大丈夫です、少ししたら食事に行きますから」

「そうか」

 一部の同僚からは、ハーラーとザシャが恋仲なのではないかとも囁かれたが、実のところただの友人同士だ。

 たまたま転属してきたザシャと一番初めに仲がよくなったのが、同じ中隊の爆撃機パイロットであるルッツ・ハーラーというだけだ。

 偵察部隊から転属してきたシュトルヒ乗り。

 女だという噂は前々からあったのだが、爆撃隊の面々は彼女を知らなかった。なにせ、彼女の同期の軍学校卒業生たちはまだ訓練生なのだから。

 「きっとゴリラみたいな女に違いない」とか「ムキムキで女性らしさなんて欠片もないだろう」とか、好き勝手なことを噂していたものだが、着任してみれば、どうだろう。

 まだ十代なのではないかと思えるようなハニーブロンドの女性士官は、筋肉はついているもののつきすぎているというわけでもなく、女性らしさを感じさせる可愛らしい緩やかな巻き毛の持ち主だった。

 身長もそれほど大きくはなく、そんな彼女の印象からついたのが「ヒヨコ(キューケン)」という愛称だ。

 男性陣に混じって食事をしている彼女は、ラフなシャツにズボンをはいて、肩からこぼれ落ちる長い金色の巻き毛はブラシを通しただけだろう。

 任務から還ってきたばかりの彼女が青白い顔をしているのもいつものことだったから、それについては誰もなにも言わない。

「今日はすまんな」

「あ、いえ……」

 食事中の彼女に話かけたのは同じ中隊のパイロットのひとりだ。彼女がこの日、高射砲の弾道を邪魔したために狙いが定められなかったため、撃墜されずにすんだフロレンツ・ギーゼブレヒトだ。

「……無事で良かったです」

 にこりと優しい笑顔を、彼女は向けて左手でフォークを置いた。

 ザシャは左利きなのだ。

「しかし、おかげでおまえの機がやられたらしいじゃないか」

「飛行機は直りますから」

 ほほえむ彼女の胸元には、ペンダントのように小さな鉄の板が穴を開けて鎖を通されている。

「……それは?」

 ギーゼブレヒトが顎をしゃくって彼女のペンダントを指し示すと、ザシャは彼の視線を追いかけて自分の胸元に視線をおろす。

「これですか?」

 どこからどう見てもただの鉄の板きれだ。

「……お守りです」

 口元でほほえんだ。

「わたしの初めて乗ったのがコウノトリだったんですけど、ちょっとした事故を起こしたときに、整備士の方が作ってくれて。これをつけていると、コウノトリがわたしのことを守ってくれているような気がして……」

 ふぅん、と言いながらギーゼブレヒトは彼女の胸元に手を伸ばした。

 鉄の板を指先ですくう。

 やはりただの鉄の板きれだ。

「ま、願掛けは誰でもやるしな」

 コウノトリ。

 たびたび、彼女の口から出る偵察機の名前に、中隊の男たちはどこか不思議な気分に陥る事がままある。

 偵察機――シュトルヒにこんなにも思いを寄せる士官がいるとは思わなかった。

 やはり空軍の花形と言えば、戦闘機や爆撃機などの最前線を駆るパイロットだ。誰も偵察機のパイロットみたいな地味な仕事はやりたがらないものだ。

「ヒヨコは不思議ちゃんだな」

「そうですか?」

 隣いいか? 尋ねながら彼女の隣に腰を下ろしたギーゼブレヒトは、鼻筋が通った彫りの深い目元のスッキリとした二枚目で、結構女性からは人気があるとかないとか。

「どうぞ」

 彼の横顔を見やりながら食事を再開した彼女は、ゆっくりと食べながらすっかり暗くなってしまったテントの外を見やる。

「戦争は嫌いか?」

 そういえば、ルッツ・ハーラー以外とこんな風にゆっくり話した事はなかった。

「……好き、ではありません」

「そうだよな、ヒヨコの顔見てりゃわかる」

 そう言って彼は黙り込んだ。

 しばらくの沈黙の後にぽつりとギーゼブレヒトはつぶやいた。

「怖いよな」

「……?」

 どういう意味なのかとザシャがコーヒーを口にしながら首を傾げると、ギーゼブレヒトはテーブルの上に肘をついたままでかすかに目を伏せた。

「降下するとき、人が見えるもんな」

 鳴り響く「サイレン」にちりぢりになって逃げていく人間が見える。

 それを彼は言っているのだ。

「はい……」

「けどな、こう考えるといい」

 ――自分たちは人を守るために爆撃という任務に出るんだ。

 そうフロレンツ・ギーゼブレヒトは告げる。

「俺たちは、俺たちを守るために爆撃をしているんだ。俺は、仲間をなくしたくない。だから、爆撃って任務をしてる」

 仲間をなくしたくない。

 ともすれば仲間が狙われるという状況で、彼らは戦っているのだ。

 そして、もしも機体が損傷して墜落でもすれば運が悪ければ死ぬ。

「だから、ヒヨコが敵のために泣いているのを見るとなんかもやもやする」

「はぁ……」

 そう言われても、気持ちをいきなり切り替える事などできはしない。

「ま、おまえさんも親しい戦友を亡くせばわかるだろうよ」

 親しい戦友を失えばわかる。

 そう告げた彼の瞳に、ザシャは色を失った。

 緑の瞳に恐怖が宿る。

「……中尉?」

 なにを言っているのだと、彼女が言葉を詰まらせると、隣に座っている男はちらりと青い瞳を動かしてから立ち上がる。

 がたりと椅子が音をたてた。

「なぁ、ひよこ(キューケン)。なんでおまえが転属になったと思う?」

「なに、を……?」

「俺のダチが死んだからだよ」

 欠員ができたからその補充のために、新たなパイロットが選抜された。

 それがなによりも単純でわかりやすい現実だった。

「まぁ、別にヒヨコのせいじゃない。あいつも”運が悪かった”んだ」

 運が良い人間は生き残り、運が悪い人間が命を落とすのだ。戦場ではたったそれだけのことでしかない。彼女は幸いにもそうした戦場の残酷な一面を経験せずにすんでこれた。しかし、本格的に第四航空艦隊の急降下爆撃隊の任務に就くようになった今では、そんな甘い展望など抱いていられるわけもない。

 だからこそ、敵のために泣く必要などない。そうギーゼブレヒトはザシャに告げた。

 爆撃機から降りるたびに泣いている彼女を見るに見かねた。人殺しにまだ慣れていないザシャの心をせめても軽くしてやるために。

 人を殺してしまったことに、深い心の傷を刻みつけて彼女は泣くのだ。

 ――本当は殺したくなどないのに、と。

「だから、泣く必要なんてない」

 ぽんぽんと彼女の金色の頭をたたいてやると、そうしてから、ザシャのコーヒーカップを手にすると一口、口に含んでからテントを立ち去った。

 呆然として彼を見送ったザシャは、咄嗟に頭に思い浮かべてしまった事に対してかぶりを振るようにして考えを振り払う。ギーゼブレヒトに親しい友人が死ねばわかる、と言われた時に思い描いてしまったのだ。

 ルッツ・ハーラーやヘクター・デューリング、中隊長やギーゼブレヒトらが死んでしまうことを。

 軍人として最前線で高射砲や、敵戦闘機の銃撃に晒されているのだから、当たり前と言えば当たり前すぎる事だ。

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