2 スツーカ
「急降下爆撃隊、ですか……」
ザシャ・デーゼナーは目の前の上官を見つめて首をひねった。
「ですが、”本官”は偵察機しか経験がありませんが」
ぽつり、と言い訳のように告げる彼女の言葉は実のところ大嘘だ。
軍の飛行学校に在籍していたころ、なぜだがベテランのパイロットたちに大変かわいがられて、新旧を含めた数多くの軍用機に搭乗させられた。
爆撃機だの、戦闘機だの。
正直なところ人殺しのための飛行機などには「乗りたくない」というのが彼女の本音だった。
「急降下爆撃隊は電撃戦の要だ。優秀なパイロットを必要としている。それに、デーゼナ―少尉。おまえの教官からも少尉の腕はお墨付きだ」
教官たち――。
思い出すのは、パイロット候補生の中の唯一の少女だった彼女をさんざん猫かわいがりをした無骨な男たちだ。
おかげで、同期の候補生たちからは嫉妬を向けられる羽目になったものだ。
「しかし……」
言いよどむ。
急降下爆撃隊と言えば、ユンカース社の急降下爆撃機が主力戦力として配備されているが、それに搭乗せよ、ということなのだろうか。
スペインに配属されていた頃は、何度も目にしたことがあった。
「なんだ、もしかして怖いとか言うんじゃないだろうな」
馬鹿にされたように言われてザシャは肩を落とした。
”飛ぶ事”は怖くはない。
「シュトルヒとはだいぶ違いますね……」
ぽつりとつぶやいた。
「そういえば、おまえの搭乗機はコウノトリだったな」
フィーゼラー社によって製造されたドイツ空軍の伝統的な偵察機である。一般的にシュトルヒと呼ばれる。
コウノトリと比べると随分無骨な機体だったように思う。
シュトルヒがサギを思わせるなら、スツーカは鷲だ。
首を傾げた彼女は、ややしてから眉をひそめて息を吐き出した。
「拒否権は、あるのですか?」
そもそも軍隊に女性がいること自体がまれな事なのだ。
彼女が天才的な飛行技術を持つが故に、ルフトヴァッフェに配属されているというのに、これ以上どうやって軍規を曲げようというのか。
「ない」
「……そうですか」
「乗りたくない、という顔をしてるな」
表情に言いたい事が出ていたのか、彼女の上官は探るような鋭い視線を向けてくる。
「コウノトリは、人を殺すための飛行機ではありませんから……」
「だから急降下爆撃隊はいやだ、と?」
「……」
男の言葉にザシャは応えられない。
彼女が在籍しているのは軍隊で、軍人である以上は上官命令は絶対だ。
気に入らなくても従うしかない。
「命令だ、明日より第四航空艦隊の第七六急降下爆撃航空団第Ⅱ飛行隊第五飛行中隊に転属だ。余り渋い顔をするな。”栄転”だ」
「……はい」
上司の言葉に返ってきた返事はおおよそ軍人らしさなど、かけらも感じられない。
その日の午後、ひとりで格納庫のシュトルヒに寄りかかったまま、ぼんやりと開け放たれたシャッターの向こうの空を見つめていた。
「……おまえとも、これでお別れだね」
ぽつりとつぶやいた彼女は名残惜しげに長い脚が印象的なコウノトリの機体片手で触れた。そうしてザシャはこつりと頭を機体に預ける。
それほど長い時間を共にしたわけではない。
それでも、彼女にとっては殺人の道具ではない「シュトルヒ」は大切な相棒だった。
もしも、コウノトリが言葉を話せたらなにを言うだろう。
とりとめもないことを考えながら、彼女は大きなカメラを抱えた男が目の前に立っている事に気がついて目をしばたたかせた。
「写真撮りますか? 記念に」
ザシャのコウノトリの整備に当たっていた整備兵だ。そういえば、カメラが趣味だと言っていたような気もする。
「少尉、コウノトリをすごく大事にしてくれてましたからね。そんじょそこらのパイロットが扱っている機体より、整備しやすかったですよ」
明るい笑顔で告げる彼は写真を何枚か撮るとにこりと笑う。
「写真ができたら送りますから、連絡先を手紙で報せてください」
ユンカースの急降下爆撃機。
彼女も何度か間近で見た事がある。
ひどく無骨な機体だ。逆ガル主翼と固定脚が印象的で、ザシャが今まで扱ってきたコウノトリとは似ても似つかない。
ザシャは当時、そんな印象を受けた。
「わたし、ちゃんとできるかな……」
「少尉ならどんな機体でもお手の物でしょう? 大丈夫ですよ」
何度か、当の急降下爆撃機を操縦した事があるが、人を殺す事を目的に作られた爆撃機は自分には合わないと思ったものだ。
「それに、少尉の活躍はこのコウノトリが見ていてくれますから」
そう言って整備士はシュトルヒの機体を見上げてから、ザシャにほほえんだ。
胸のポケットに写真をしまいこんでから、彼女は顔を上げた。
「……少尉、怪我の治療はすみました。手間をとらせてすみません」
後部機銃手の青年の声にザシャはどこかバツが悪そうにほほえんでから、彼の顔色が戻っていることにほっとした。
肩をわずかに抉られた程度の傷だが、それでも失血はそれなりに体力を消耗させる。彼は大丈夫だとザシャに言いつのったが、補給も兼ねて野戦基地に戻って軍医の元へと向かわせた。
「いえ、わたしのせいです。弾を避けきれなかったから……」
肩をかする程度の傷ですんだのが奇跡的だ。
いくら時代遅れのポーランド空軍の戦闘機とは言え、鈍足の急降下爆撃機にとってはそれなりの脅威となった。戦闘機の機関銃で撃たれればその程度ですむわけがない。
ユンカースの急降下爆撃機は複座式で、操縦席のむこうがわに後部機銃手のシートがある。そしてその後部座席は操縦席などよりもずっと危険な場所だった。
「いえ、少尉もよくやってくれました。この程度ですんだことのほうがびっくりだって軍医も絶賛でしたよ」
歯を見せてにこりと笑った青年に、ザシャはぺこりと頭を下げた。
「……ヘクターは、怖くないんですか?」
「そりゃ怖いに決まってるじゃないですか」
青白い顔のまま相棒の後部機銃手に問いかける彼女の胸元を見やってから、ヘクター・デューリングは顎をしゃくって問いかける。
「”その写真”の機体、コウノトリですね」
お守りのように彼女が身につけている一枚の写真のこと。
「……――」
「少尉は、ポーランド戦の前はスペインの偵察部隊にいたと聞きましたが、相当やり手だったんでしょう?」
急降下爆撃機に傾倒しているデューリングに「爆撃隊は嫌いだ」などと言ってしまえば大変な事になるのはわかっていたから彼女は余分な事は言わない。
「わたしが、最初に空軍で操縦したのが、シュトルヒなんです」
「きれいな機体ですよね。でも、俺はスツーカのほうがきれいだと思うんです。”ごつくて”頼りになる。それがスツーカの魅力です」
「……そうね」
わずかの沈黙の後、ザシャは相づちをうった。
「行きましょう、”みんな”が待っているわ」
爆撃機は地上部隊支援機でもある。
彼らの道を切り開くのが爆撃機の仕事だ。
地上を突撃する陸軍の兵士たちが、スツーカ――空飛ぶ砲兵の火力支援を待っている。
「倒れないでくださいよ」
「大丈夫」
力なくほほえんでから、ザシャはスツーカの操縦席へと乗り込んだ。
急降下爆撃機ユンカースJu87は重厚な機体だ。本来、地上部隊支援を目的として作られているため、最新鋭のドイツ空軍の戦闘機と比較すれば、スピードもそれほど速くはない。
けれども、もともと、シュトルヒに搭乗していたザシャからしてみれば十二分に速い。なにせ、単純計算でも最高速度はシュトルヒの倍近くは出る計算になる。もちろん、航空戦においてJu87急降下爆撃機のスピードはそれでも決して速いわけではない。
要するに、ザシャが今まで乗っていた偵察機「シュトルヒ」がどれだけのんびりなのか、ということになるのだが、それでも、そののんびりとしたスピードに慣れていた彼女にしてみればスツーカを「速い」と思ってもおかしな話ではない。
そんなシュトルヒの乗員であったザシャ・デーゼナーは、今、ポーランドの真上を飛んでいる。
共通点があるとすれば、どちらの機体も離着陸時の脚をしまわない、というところだろうか。
もっとも、彼女が搭乗していたのはFi 156C-2で、後部に自衛用の機関銃を装備していたが、後部座席に乗る事などほとんどなかったザシャは撃った事もない。
そもそも、撃たなくても帰還して来れたのがザシャである。敵に遭遇しなかったわけではなく、そこはやはり天才的な飛行技術によるものだ。
「俺、最初はいやだったんですよ。女のパイロットなんてどうせろくなもんじゃないって思ってたんですよ。けど、まぁ、少尉と組んだら、なかなかどうして。すごいじゃないですか……」
男顔負けの飛行をこなしてみせる彼女に誰もが感嘆した。
「いえ、スツーカが速いから、わたしが思った以上に動いてくれるだけです」
操縦桿を握り風防の向こうを見つめながらザシャはヘクター・デューリングに応じた。そうして彼女は飛び交う無線を黙って聞きながら足元の小窓に視線を落とした。
ポーランド戦が始まって間もなく、偵察部隊から爆撃隊に転属になった彼女は、実は爆撃機乗員としての専門の訓練をほとんど受けていない。
簡単に言えばいきなり実戦に放り出されたようなものだ。
生き残るのに必死だった彼女はただ、シュトルヒと比べるとずっと重い機体を操縦し続けた。
見た者が言うところによると、まるでその姿は空を飛ぶ鳥のように美しかったと言うが、当人にとってはそんなことに気を回している余裕などなかった。
ただ、命を狙われるという恐怖と、人を殺さなければならないという恐怖と戦っていた。
「少尉は、天才だと聞きました」
「……はぁ」
味方の編隊を見渡して僚友たちの顔を確認した。誰もが厳しい眼差しで、それが、彼女に違和感を感じさせるのだ。
どうして自分はここにいるのだろう、と。
そもそもいったい誰が自分の事を「天才」だ、などと言い出したのだろう。そんなことを考えながら首を傾げていると、降下命令が無線から聞こえてきた。一瞬だけ、ザシャは瞼をおろす。
飛んでいるときはまだいい。
ただ飛ぶだけなら、シュトルヒもスツーカも同じだ。
空を飛ぶための道具というだけ。
けれども、シュトルヒとスツーカには決定的な違いがある。
基本的に、偵察任務を主としているシュトルヒには武装がされていない。一応、古ぼけた機関銃が後席に装備されているものもあるがそれはあくまで自衛用の機関銃だ。しかし、スツーカは自ら率先して、地上の敵を屠るための「爆撃機」だ。
目を閉じてから一拍おいて、中隊の僚機に倣うように急降下の体勢にはいった彼女は、機隊を強くバンクさせた。全身にのしかかる重力をこらえるように奥歯をかみしめる。
降下角をそれほどきつくとることができないのは、迷いを断ち切れていない彼女の悪い癖だ。
急降下が恐ろしいからではない。そんなことは、地面にぶつかる前に機首を引き起こせばどうとでもなることで、そもそもスツーカは自動で機首が上がるように設計されている。だから、そんなことに恐怖心を感じた事はない。
問題は急降下したその後だ。
急降下爆撃機が「急降下」するということは目標に向かって爆撃しなければならないということで、その現実が彼女を躊躇させるのだ。
「もっと機首を下げろ、”新米”」
無線から声が聞こえて、ザシャははっとして目を見開いた。
わずかに自分の機体が編隊から外れている。これでは、対空砲火の餌食になってしまうだろう。
深く降下角をとった彼女は、体にのしかかる重い重力に息と唾液を飲み込んだ。
サイレンが鳴る。
聞いたところによると、それはダイブブレーキの風切り音であるとのことだった。一般的には「ジェリコのラッパ」と呼ばれる。
爆撃目標の戦車が見える。
目を見開いたまま標的に照準をあわせた彼女は、僚機の爆撃にあわせるようにして爆弾を投下していく。しかし、彼女が狙うのは僚機が狙いを外すだろうと思われる対象に対してだ。
そのため見ようによっては射手名不詳リストに加えられる事になるわけだが、一応、ザシャもその辺りは計算してやっているのだった。
目の前に広がる地面。
戦車の姿に、彼女はわずかに眉をひそめるとこみ上げる吐き気を喉の奥でこらえてから、操縦桿を強く握りしめた。
一歩間違えば自分が死ぬ。
いや、自分が死ぬだけならまだいい。
彼女の後ろには、彼女を信頼して搭乗している後部機銃手のヘクター・デューリングがいるのだ。
彼まで殺してはならない。
爆弾を投下して機首が上がった。
下方から爆発音が聞こえてきた。
ちらとガラスの向こう側をみると、戦車が燃えているのが見える。
小さくうなった彼女に対して背後から冷静な男の声が聞こえてきた。
「機内で吐くのは勘弁してくださいよ」
想像力が豊かすぎるのも問題だ、とヘクター・デューリングは思う。おそらく、彼女は想像してしまっているのだろう。
人が死んでいく様を。
機体を水平に安定させながら、彼女は自分の心窩部を軽く押さえてからデューリングの言葉に頷く。
機内で嘔吐などしてしまったら、整備兵に怒られるのは目に見えている。
爆撃機は電撃戦の要であり、花形だ、などと言うが、本当にこの虐殺の道具がそうなのだろうか。
対空砲火を器用に旋回しながら躱していく彼女は、すぐ後ろを飛んでいた僚機に対空砲火がまっすぐ飛んでいくのを見て、自機の翼を軽く振るとわずかにスピードを落として背後の僚機に並ぶ。そうしてまるで対空砲火を攪乱するようにその周りをぐるりと飛んだザシャは、唐突にバンクして爆撃をするときと同様に機首をさげた。
編隊から外れるのも気にならなかった。
機内の無線から制止の声が聞こえたような気がしたが、彼女はそのまま青白い顔のままで高射砲すれすれに地面につっこむ。爆弾はないからその投下こそしないが、それだけで充分相手の士気を奪う事ができるのがスツーカだ。
「あちゃ……」
しばらくしてから、呆れたようなデューリングの声が聞こえた。
「……え?」
「どうも、地表ぎりぎりを飛びすぎて人間ひとりぶったぎったようですよ」
そういえば、地面を爆撃機の車輪がかすったような気もする。
必死すぎてどうもそのあたりの詳しいことを覚えていない。
人間をひいた、と聞いた彼女は思わず、スツーカの翼に視線を走らせるが本当に機体で人に体当たりしてしまったのかがはっきりしない。
そのあたりは後部機銃手のほうが詳しいのだろう。
さーっと頭から血の気がひいていった。
「しっかりしてください、少尉」
落ちますよ。
冷静な声を受けて、左右に首を振ると彼女は高度を上げながら爆撃隊の編隊の中へと戻っていった。
「仲間が危険だからといって無茶はするな」
咎めるような中隊長の声が無線から聞こえて、ザシャは相手に伝わらないことを承知の上で無言で頷いた。
基地に戻ったらまた怒られるだろうか。
そんなことを思いながら、彼女は睫毛を揺らす。
いつも帰還すると怒られてばかりだ。
ザシャは深く溜め息をつくと気持ちをいれかえるように前方に視線を戻した。