1 Küken
――ひどい時代に生まれてきてしまったのは、自分の責任ではないと割り切ってしまえたらどんなにか楽だろう、とわたしは思いました。無知なわたしは、それでも無知なりに必死だったんです……。
生きることに必死だったと彼女は告げた。
*
ドイツ空軍の航空機隊は陸軍の後に続く地上部隊の野戦基地と共に前線を駆け抜ける。彼らは尖兵として地上を進撃する陸軍の部隊の行く道を切り開くことが任務だった。
その急降下爆撃隊の野戦基地の片隅に少女にも見える娘が立っていた。
幼げな面差しはどこか儚く感じられて、風に吹かれれば飛んでいってしまうようなか弱さを感じさせる。
ドイツ空軍の男性士官と同様にカーキ色のつなぎ型の飛行服を身につけていた。その出で立ちは彼女が婦人補助員ではないということを物語っている。
どこかぼんやりとした眼差しで爆撃機を見つめている彼女は、緑色の瞳を何度か瞬いてから青白い顔のまま口元を手で押さえた。
白い肌と緑の瞳。そしてハニーブロンドの巻き毛を持つ彼女は、闊歩するように自分に近づいてくる足音に我に返ったように視線を向けてから、首をすくめる。
まるで怒られるのがわかっている子供のような反応だ。
「おい、なんだ、この報告書は!」
乱暴に声をかけられて、彼女は困惑したような眼差しでかすかに片目をすがめると型どおりの敬礼を上官、カスパル・ファル大尉に返してから首を傾げた。臆病なのか剛胆なのかわからない、というのが、彼女に対する周囲の人間のもっぱらの評価だった。
儚げな印象のある彼女の笑みに、上官を務める男はうんざりとした溜め息をつきながら、丸めた紙の先で乱暴に彼女の頭を軽くたたく。
「貴様、今日の任務では高射砲を吹き飛ばしてただろう、だのになんだ。この報告書は。戦果なしとはなんだ、戦果なしとは」
問い詰められて彼女は小さく左右にかぶりを振ってみせる。
「……報告書通りです。わたしの戦果はこれといって特にありません」
面差しにも士官らしい迫力もなければ、その声は吹けば飛ぶように掠れている。
こんな戦時下の軍隊にあって、放っておけばいつの間にか命を落としてしまうのではないか、といった気分にさせられる若い娘は長い睫毛を揺らしてうつむいてしまった。
けれども、弁解もするつもりはないらしい。
「ないわけはないだろう、俺はこの目で見たんだからな」
「見間違いかなにかではありませんか?」
淡々と答える彼女の声は時折不自然に揺れた。
儚く脆く見えて、実は結構な頑固者でもある彼女に男はもう一度盛大な溜め息をつくと、やれやれと肩をすくめる。
「そんなことじゃ、そのうち貴様は自分の戦果を全部他人に取られるぞ」
それでもいいのか、と彼が言えば、娘は下唇をかみしめて黙り込んだ。
常々「看護婦になることが夢だった」と語っていた彼女の心の葛藤を、上官であるカスパル・ファルはわかっているつもりだった。
人の命を救う仕事に従事したかった彼女が、空軍の戦闘機のパイロットとして人の命を奪っている。
彼女の夢は夢のままで終わってしまったのかもしれない。
それはなんという皮肉だろう。
「……申し訳ありません」
やっとそれだけ言った彼女に男はなだめるように肩に手を置いた。
「少しは慣れろ」
「はい……」
蚊の泣くような声でつぶやいた彼女に、男は「仕方ないから受理しておくが、次はちゃんと報告はするように」と言ってから彼女の前を立ち去っていった。
上官が自分に背中を向けて歩きだしたのを見送った娘は再び手のひらで口を覆うと、地面にしゃがみこむ。
こみあげる吐き気に、きつく目をつむった。
急降下爆撃隊は嫌いだった。
人の死を直接感じるのだ。それがいやでたまらない。
彼女は軍人であり、急降下爆撃機のパイロットであったから、殺したくなくても殺さなければならない。
それが二一歳の彼女の仕事だった。
*
幼い頃から寄宿学校で猛勉強を続けてきた彼女は大学を飛び級し、十代で卒業してあっという間に軍学校に入学した。女である彼女が軍学校に入学できたのは実のところ特殊な事情があったというのは、当時の彼女が知るよしもない。
本来、男性の世界であるはずの軍隊に女性という存在は不要だ。年若い少女でありながら、名門のミュンヘン大学に進学した彼女は、看護婦になるために勉強を続けていた。そんな年齢の割に異常な知性を秘めた彼女の名前は国家の中枢にも知られることとなり、再軍備計画に向けて走り始めた当時の国軍によって軍隊という世界に引き込まれる形になった。
それまでは看護婦の資格を取るために勉強していたというのに、突然、政府の都合と親の名誉欲のために軍学校に放り込まれる結果になったのだが、親に逆らうことはご時世としてはあり得ないことだったことから、やむなく彼女はそのまま軍事訓練を受けることになったが、当のザシャはその裏側に存在するだろうものに対して警戒心を解くことはなかった。
操縦桿を握り、空を飛ぶことになる直前までは紆余曲折の苦々しいものもあったものの、実際に空を飛んでみれば、それがなによりも自分にとって天性のものであるということを理解することになった。とはいえ、そんなことは、当時の彼女にとってはどうでもいいことで、ただ、逃げることもできない「存在」から押しつけられるものに対する反発も手伝って、彼女の心を頑なにしていく結果になった。
そんな彼女は進学した軍学校は、やはり軍学校と言うだけあって当時の彼女は少女でしかなく、周囲の少年を脱し青年へと変わり行く男達のように訓練についていくだけでも一苦労だった。軍学校で体力で劣る彼女に合わせてくれるわけでもない。
時には訓練についていけずに高熱を出して寝込む事もしばしばで、それでもなんとか地上訓練を終えて、パイロットとしての訓練を受けるようになれたものの、それはそれで大変な苦労ではあったのだ。
ただし、体力以外は全て彼女は首席という素晴らしい成績をおさめていた。
風の噂では、父親は大変鼻高々だったらしいと耳にしたが、看護婦を志していたザシャにとっては「良い迷惑」でしかない。
そうして無事に空軍に入隊して、女性士官であったため前線に送られることはなく偵察機のパイロットとして任務を拝命したのだが、彼女の飛行技術が余りにも突出していたためポーランド戦開戦の直後に紆余曲折を経て急降下爆撃隊へと転属になった。
ザシャとしては戦闘機にも乗りたくなかったが、爆撃機などもっと乗りたくなかったもので、転属には一応の抵抗を見せたものだが、結局「腕のいいパイロットのひとり」としてポーランド戦役に放り込まれることとなった。
ザシャは天才的な頭脳と、非凡な運動神経を持ち合わせていたのだが、本人はそれを自分の才能とは思えずにいて、性格的には内向的で控えめな気質の女性だった。もっとも看護婦を志していた割りには人の血を見るだけで卒倒しかけるというやや困った性質の持ち主で、そんな彼女が爆撃機のパイロットになったのは非常に不運な事件と言えたかも知れない。
とはいえ、配属先が陸軍でなかっただけましかもしれないが。
控えめで極度に自己主張の少ない彼女は、パイロット仲間からは「いるかいないかわからない」とまで揶揄される。
人を殺すことに対して極度の抵抗を感じている彼女は、自分の戦果を射手名不詳リストに加えたり、他の隊員に押しつけたりしているのはザシャなりの抵抗だった。
いや、抵抗と言うよりももしかしたら、彼女は自分が人を殺した、ということを未だに認められずにいたのかも知れない。
ひとしきり胃液を吐きだした彼女は、吐き気がおさまってからふらふらと立ち上がると、頬に伝った涙を拭うと歩きだした。
泣いていても始まらない事はわかっている。
けれども、吐き気も涙も止まらない。
自分がなにをしたのか。それはザシャ自身がよくわかっていることだった。
「ヒヨコ」
低い声に呼ばれて彼女は振り返った。
ハニーブロンドに幼い顔立ちの彼女は部隊内からは「ヒヨコ」と呼ばれる。
「いちいち戻ってくるたびに泣くな、吐くな。馬鹿者」
先輩であるパイロット――ルッツ・ハーラーにそう言われて返す言葉もなくうつむいたザシャは息をつめたままで目元を拭った。
「はい……」
ザシャが生きる世界は軍隊だ。
一切の甘えなど許されないわけがない。
彼女はそれをわかっているからこそ、弱音を吐く事もできずに言葉を飲み込むしかない。
普通の女の子だったら、戦場になど出ずにすんだのに。
ザシャ・デーゼナーは自分の置かれた境遇をただ受け入れることしかできなくて、喉から飛び出しかけた言葉を飲み込んだ。
人とは置かれた場所で生きていくしかできないのだ。
*
――ヒヨコはまったくもって軍人らしくない。
聞き飽きるほど言われた言葉をザシャは聞き流す。
「……得意なことってなんなんだ?」
幕舎のベンチに座った男が隣の少女のような新米パイロットに問いかけた。そもそも軍隊で「得意なこと」とやらを聞かれれば、大概それにまつわる回答を要求されているのだが、ザシャは空気も読まずに応じた。
「特にありませんけど……」
寄宿学校で育った彼女は、一般的な家庭や友人関係を知らずに育った。
寄宿舎での掃除や勉強はあったが、それだけだ。
「それにしちゃ記憶力がやたらいいじゃないか」
特に得意なことはないと応じた彼女にハーラーが呆れた様子でつぶやけば、ザシャは困った様子で肩をすくめただけだ。
「そんなこと言われても……」
ルッツ・ハーラーは彼女よりも年上のパイロットで、ザシャが転属してから一番最初に親しくなった隊員で階級は中尉だった。
ぽかんとしてハーラーを見つめた彼女は「ところで」と彼に視線を向ける。
「ハーラー中尉」
「ルッツでいい」
「そういうわけにいきません、中尉はわたしより階級も年齢も上なんですから」
びっくりしたように緑の瞳を瞬かせた彼女は手渡されたコーヒーのカップに唇を寄せる。
言葉使いは敬意を払っているが、態度は相手を同等の友人と見なしているようだ。そんなアンバランスさが、階級を全てと考える士官たちの気に障る事もあるらしい。ちなみに、当のルッツ・ハーラーはザシャ・デーゼナーを友人だと思っているので、彼女の態度はあまり気にならない。
「そりゃ、ヒヨコより生まれたのが早いから年上なのは当たり前だろう」
ちなみに空軍の爆撃機のパイロットとして配属されたのはザシャより一年早い程度だ。要するに、ザシャが女だてらに異常なのだが、相変わらずぼんやりとした性格のため、自分が特別な人間だという事に気がついていない。
「それで、なんだって?」
「あ、はい。あのですね、中尉」
ザシャは基地内では「影が薄い」だのなんだのと言われているが、友人相手にはごく普通の表情を覗かせる二十代の女の子だ。
「そのうち、わたしを中尉の後部機銃手に推薦してもらえませんか?」
「なんだって?」
突拍子もないことを言い出したザシャに、ルッツ・ハーラーは大まじめな顔で自分を見つめてくる若い娘を見直した。
「だから、中尉の後部機銃手にわたしを……」
「いや、無理だろう」
そもそも一介の中尉でしかないハーラーにはそんな権限はないし、なにより親しい彼女の魂胆はわかりきっている。
ザシャが後部機銃手になりたい、と言うのは、単にザシャが爆撃機を操縦したくないがためだ。それをハーラーは知っているし、後部機銃手になったからと言って「人殺し」という任務から逃れられるわけでもないのだ。彼女はそれをわかっているのだろうか?
任務から帰投するたびに嘔吐を繰り返しているのを見ればいやでもわかろうというものだった。
そういった理由で後部機銃手になりたい、などと言い出したのだが、そもそもザシャにもルッツ・ハーラーにも特定の後部機銃手が存在しているわけで、軍学校も含めて数多の飛び級を繰り返したザシャ・デーゼナーがパイロットという仕事を放り出して後部機銃手におさまることなど、中隊長のカスパル・ファルが良しとしないだろう。
「確かに、ヒヨコの射撃の腕は捨てたもんじゃないが、それよりも隊長はおまえの飛行技術のほうを手放さんだろうしな」
ザシャは爆撃機の操縦桿を握るのも一流なら、後部機銃手としての射撃の腕も一流だった。時には上官らがザシャを後部機銃手、もしくは補佐役として連れだすくらいなのだ。
けれど、今はいわゆる戦時下で、腕の良いパイロットを無駄に後部機銃手として回す余裕などありはしない。
「一言くらい言ってくれてもいいと思います……」
「おまえは、俺とおまえの相棒の仕事を奪うつもりか」
ハーラーの言葉に、ザシャは思わず言葉に詰まってから肩を落とした。
頭の回転の速い彼女の事だ。
わかっているのだ。
コーヒーカップを両手で包み込んだまま、彼女はうつむくと立ち上がった。幕舎の隅に移動する。
泣き顔を見られたくなかったのかもしれない。
「ヒヨコ……」
「ごめんなさい……」
彼女は何に対して謝っているのだろう。嗚咽がまじった声に、ハーラーはかける言葉を見失って差し伸べかけた手をそっと下ろした。
ルッツ・ハーラーも、ザシャ・デーゼナーも職業軍人だった。
「ヘクターの傷の手当てが終わったら、わたしも出ます……」
目元を手の甲で拭ったザシャはことさらに強い口調で言いながら顔を上げるとわざとらしい笑顔を浮かべた。
補給は済んでいる。
ポーランド空軍との戦闘で、彼女の後部機銃手のヘクター・デューリングは負傷した。その治療と補給のために彼女は野戦基地に戻ってきており、後部機銃手の当てさえあれば、ザシャはいつでも飛べるのだ。
自分がどこに所属していて、なにをしなければならないのか。それをザシャはよくわかっていて、友人であるハーラーに我が儘を言うのだ。爆撃機の操縦桿を握りたくないから、後部機銃手にしてほしいと。けれどもそんな望みが叶うはずがない。
ザシャは戦果を報告しない事で、無能を装っている。
装っていても、彼女が確実な飛行技術を持っている事は明確で、さらに、任務で飛べば必ず結果をたたき出す事も周知の事実だったから、上層部は無能を装う彼女を切り捨てる事もしない。
おそらく、ザシャの本音としては「無能だから」と軍をたたき出してくれたほうが都合が良かったに違いないが、なかなかもって本人の意図とは裏腹に事態は進んでいく。
「まったく、難儀な性格だ」
独白した彼は爆撃機に額を押しつけるようにして身じろぎもしない彼女の後ろ姿を見つめてから溜め息をついた。
殺さなければ殺されると割り切ってしまえばいいのだ。軍人たちはそうやって強くなっていくものなのだから。
遠目に見慣れた男が歩いてくるのが見えた。
ザシャの相棒であるヘクター・デューリングだ。
女性らしさも感じさせないカーキ色のつなぎを着込んだ彼女は、デューリングに気がつくと救命胴衣を締め直す。
白皙の肌には、血の気のひいた青白さが戻っていて、それがザシャの悲痛な覚悟を感じさせた。
新兵でしかない彼女はまだ人殺しという行為に慣れていないのだ。
再出撃の準備を始めた妹のような若い娘のパイロットにルッツ・ハーラーは無言のままで片手を振った。
「行くぞ、ひよこ」