13 ザシャとゲーリング
「君は”空軍総司令官”のヘルマン・ゲーリング元帥のことをどう思っているのだね」
先の欧州大戦が終わり、そうして生まれた稀代の天才児。
そう囁かれた君の瞳に、世界はどう映っていたのか。そうアメリカ陸軍の軍医であるダグラス・ケリーは問いかけた。
彼はそう彼女に問いかけながら、寸分の反応も見逃すまいと神経を尖らせて、ザシャを観察している。一方で表情の変化や、筋肉の動き、視線の全てに至るまで観察されているザシャは居心地が悪くて体を小さく縮めるばかりだ。
「……わたしには、公平な判断も、公正な意見もできません」
自分は「当事者」だ、と彼女は告げると再び長い沈黙に陥った。けれども精神分析医であるケリーは彼女を急かすようなことはしなかった。
ただじっと黙ってザシャを見つめている。
まるで、とケリーは思った。
当惑する彼女の姿は、悪事がばれた子供が親からそれを隠してでもいるかのようだ。
一生懸命言い訳を探している彼女の姿に、小さな子供の姿が重なって見える。
それは愛情に飢えた子供の姿だ。肉親からの愛情を受けていないと信じ込んだ子供は、歪んだままで大人になった。そうして、責任を背負わされて困惑している。
けれども、彼女にはそれすらも言い訳でしかないとわかっているから、世界に対して辺りつけることもできないままに言葉を失っていた。
「それでも構わない」
ややしてからケリーが告げてやると、言葉を探すように視線を目の前の机に彷徨わせながら、ザシャはテーブルの端を指先で掴むとひとつ息を吸い込んだ。
「わたしにとって、閣下は”恩人”でした」
短く告げた彼女の言葉にダグラス・ケリーが首を傾ける。
――恩人である。
彼女は確かにそう言った。
「……というと?」
ザシャ・デーゼナーという飛行士は、ドイツ空軍に在籍していながらドイツ政府首脳部の執行する政策に懐疑的な視線を向けていたのではないか。そして、その可能性を察知していたのではないのか。
ケリーの問いかけに対して、ザシャはまるで逃げ道でも探すように視線をうろうろと辺りに彷徨わせる。
「先の欧州大戦後に生まれた随一の天才と呼ばれるほどの君が、政府首脳部の発表にはなんら疑問を抱いていなかったのか?」
「……疑問を抱いていたらなにかできたと言うんですか!」
叫ぶように彼女は言った。
「わたしが、わたしが……ナチス党を選んだわけじゃない」
そう呟くと両手で顔を覆う。
「人が消えていくこともわかっていました、ドイツの知性が衰退する一方だということもわかっていました。でも、わたしには何も力がなくて、自分の身を守るだけで精一杯だったんです……」
彼女の生まれは一九一八年。
ナチス党が政権を握ったときはまだたった十三歳だ。
「識っていたら、なにかできた年齢だと先生は思っているんですか」
「それで、君は現実から逃亡した」
指摘された彼女の肩がぎくりと震える。
「……――”そうです”、わたしは知っていて”白バラ”の後輩たちを見殺しにしたんです。わかっていて、見殺しにしたんです。助けられたかもしれない彼らに、わたしは手を差し伸べようとすらしなかった。……恐ろしくて、”なにも”できなかった」
懺悔するような彼女の言葉にダグラス・ケリーは眉をひそめると椅子に座り直してテーブルに肘をついた。
彼女がドイツ側から提供された通りの知性の持ち主ならば、かなり早い頃にナチス党の喧伝するプロパガンダと、政策、そしてデータ上の数字など、そういったものから「矛盾」に気がついていたはずだ。
「わたしは、わかっていて”閣下”に荷担していました。閣下の保護下にいれば、わたしは閣下に守っていただけると、そう確信していたんです」
「それが戦争に駆り出されることになっても?」
「ドイツ国内にいるよりは、安心だったんです」
わたしにとっては。
ようやく落ち着いたのかザシャは顔を覆っていた両手を外すと力なくほほえんでから、先ほどと同じようにうつむいてテーブルに視線を落としてしまった。
「なぜ?」
「親衛隊の、実験が恐ろしくて、わたしはいつもどうすれば逃れられるかと手段を探していました」
大学にいる頃からそうだった。
多くの高名な学者とも言葉を交わしたが、いつも彼らはザシャの学問に対する積極性に欠ける態度にがっかりした様子で「話にならない」と首を左右に振って彼女の前を去っていったこと。
「わたしは、あの人たちが嫌いだった……」
溜め息のように「少女」が告げる。
「政府の言いなりで、自分の地位と名誉ばかりにしか関心がなくて、わたしのこともただの道具としか見ていなくて」
父親や、母親や、その他大勢の大人たちの身勝手が彼女を傷つけた。
「だから、わたしは政治家にも学者にもなりたくなかった……!」
慟哭するようなザシャの悲鳴に、ケリーは「あぁ」と嘆息する。
「飛行士になれば、そんな世界と縁が切れると思って、だから、わたしは学問を捨てたんです」
それでも聡明な彼女には世界の矛盾が見えていたこと。
見えすぎる彼女の視界は、彼女自身の良心をひどく傷つけていたこと。
「わたしには、どうすることもできなかったんです……」
もしくは、とケリーは思った。ザシャ・デーゼナーという女性が、そのまま才能を伸ばして学者としての道を歩んでいたのなら、ドイツとの戦争は違う形で進んだのかも知れない。
世界に覆い隠されてしまった小さな才能という芽は、そのまま潰れてしまった。
複雑に絡み合っていたようにも見える彼女の心の混乱は、そのままドイツという恐怖政治を映し出す鏡だったということだ。
「わたしには、閣下しか頼る人がいなかった……。閣下だけが、わたしの苦しみをわかって助けてくださった……。閣下が、なにに関与していたのかもわかっていて、わたしには閣下しか手を差し伸べてくださる人がいなかった」
――わたしは、君を守りたいのだ。
――わたしは、君の未来を守ってやりたいのだ。
ヘルマン・ゲーリングは、ザシャにそう告げたと、ケリーに言った。
「わたしが、ロシアで独立行動部隊の隊長を拝命したとき、閣下はそうおっしゃいました」
自分が何らかの計画に組み込まれていることも、かなり早い段階で察していた。だからすぐにわかった。
「ゲーリング元帥だけが、わたしに救いの手を差し伸べてくださったんです」
「もしかしたら、君が学者や政治家になれば救えた命があったかもしれないよ?」
問いかけると、ザシャは思い詰めた緑の眼差しを上げると瞠目して言葉を失う。
「……あ」
それだけ声が漏れた。
ぽろりと大きな涙がひとつだけ頬を伝った。
――誰も守ってくれない。
――誰も助けてくれない。
「……わたしには、空軍しかなかった」
やっとそれだけ言うと再び彼女は嗚咽を漏らして両手で顔を覆ってしまった。
自分の命と、他者の命を秤に掛けた。
自分の命と、自分の良心を天秤に掛けた。
「わたしに選ぶ道なんて、なかった……」
そう告げる彼女に、ダグラス・ケリーは、けれどもザシャ・デーゼナーの言いたいことは痛みを伴うほど、よく理解してもいた。
彼の、医師としての経験故に。
「どうして、わたしのことは誰も気に掛けてくれないのか。わたしが誰かを守ろうと気に掛けたとして、いったい誰が自分のことを気に掛けてくれるのだろう。わたしにとって、わたしのことを唯一気に掛けてくださったのが、たまたまゲーリング元帥だっただけだ」
彼女の中にせめぎ合う、凄絶な自己矛盾。
倫理的な問題も、彼女自身にはよくわかっていて、それでも尚、感情が逃げ道を探した。
それほど恐ろしい体験を、彼女は幼い心に刻みつけることになったのかも知れない。
「ゲーリング元帥は、確かに間違いを犯して、それでも、わたしは閣下に確かに救っていただいたのです……」
彼女にとって、それは紛れもない現実だった。
ゲーリングの空軍の戦略的な誤りもわかっていて、彼女はそれでもヘルマン・ゲーリングという男を決してあしざまに罵ったりすることはない。
*
ザシャは午後の飛行訓練が終わるとここのところ、中隊長のカスパル・ファルに呼び出されていた。講義室にこもって愛でも囁いているのか、という下卑た噂が流れることもあったが、ザシャにとってはそんなに生やさしいものではない。
いつものように目の前に放り出されたファイルに硬直する。
「前線はそんな写真どころじゃないぞ」
冷静なファルの言葉に、ザシャは椅子に腰掛けたままで下唇をかみしめた。
「爆撃機の乗員である以上、いつ戦地に墜落するかわからないからな。そういうときにゲロ吐いて行動がもたついたら話しにならん」
あまりにも冷静な指摘に、ザシャは眉をひそめたままでうつむくと震える指先でファイルを開いた。
「……わかってます」
今まで彼女が撃墜を免れて来れたのは”たまたま”運が良かっただけだ。それをザシャ自身が自覚している。
「だといいがな」
まだまだ甘い部分が抜けないザシャだ。
飛行技術は優れたものがあるが、カスパル・ファルにしてみればまだまだ未熟な新米だ。飛行技術が未熟なことよりも、殺人という軍人の仕事に対して精神的に脆い部分があることは大問題だ。
多くの軍人や兵士たちは、大概の場合「国を守る」とか「国のために」といった大義を掲げて立ち向かうことができるのだが、彼の目の前にいる若い娘のパイロットはそうではない。
どこがどう違うのか、と聞かれてもうまく応えることができないのだが、軍人としてどこかずれている、とでも言えばいいのだろうか。よくもまぁ、こんな性格で職業軍人などやっていける、と彼は思う。
陸軍の兵士たちを写した戦場の記録写真だ。
空軍に所属する彼女には、基地が爆撃されるか、それとも戦場に撃墜されるかでもされない限り縁のない世界である。
心窩部を押さえながら一枚一枚写真に目を通していくザシャは時折、嘔気をこらえるように片手で口元を覆う。
緑の瞳を涙の皮膜が覆っているが、それでも雫がこぼれ落ちることはない。
「ザシャ、おまえは何のために戦っているんだ?」
どうして軍人などをやっているのか。
そう問いかけたカスパル・ファルに、ザシャは瞳をあげた。
危うくこぼれそうになった涙を手の甲で拭ってから、彼女は上官を見つめ返す。
「……わかりません」
どうして自分は好きでもない軍隊にいるのか。
そんなことを考えた事もなかった。
ただ、かつて、ミュンヘン大学から引き抜かれたときに、彼女に引き合わされたある医師がいた。
彼はナチス党の党員で、まるで蛇のような瞳を少女である彼女に向けていたこと。そして、その眼差しにまだ子供だったザシャは身の毛のよだつような危険を感じたのだ。
当時の彼女の周りでは多くの事態が起こりすぎていた。
ナチス党の医師と引き合わされた事件はその中の数ある事態のひとつだったが、けれども、多くの事態に巻き込まれる形になっていたザシャには、それらを正確に把握する力などなかった。
ただ、父親のことよりも、母親のことよりも。
そして今後の進路のことよりも、大学でいじめられていたことよりも、彼女は医師の眼差しに強い危険を感じた。
「……ただ、逃げられないと、そう思ったんです」
「逃げる?」
「わかりません」
軍学校に入学した後も、そうして軍隊に入った後も、彼女の元をその医師は何度も訪れたこと。
そして、わけのわからない実験を繰り返される。
体を傷つけられるわけでもなければ、不埒なことをされるわけでもなかったが、それでも、医師のやることにぞっとするような悪寒を感じた。
「今も、同じです。わたしは逃げ出すことなんてできません」
うつむいた彼女は、きつく下唇をかみしめてから手元の写真をめくる。
凄惨な写真だった。
戦車の脇に転がった亡骸。
それは敵のものか、それとも味方のものか。
「ザシャ」
ファルが言いながら彼女の顎を引き上げる。
職業軍人にしては細く、華奢な娘。スタイルは良いほうだが、それは軍人には不要のものだ。
こんなに華奢では生き残れはしまい。
「唇が切れるぞ」
かみしめた唇を親指で撫でてやると、ザシャははっとしたように頬を赤らめて彼の手から逃れるとうつむいた。
父親と母親が嫌いだと言う彼女。
勲章を戴いたこともザシャは家族に報告していないという。けれども、そんな彼女を多くのものが二重三重に縛り付けている。
思い詰めた様子で視線を落としてしまっているザシャは、もう一度拳で目元を拭うとファルから手渡されたファイルに視線を落とした。
彼女は驚くほど強い決意で軍隊という組織に立ち向かっている。
それを上官であるファルはよくわかっていた。
「明日は陸軍の視察に行く。おまえも来い」
「視察、ですか?」
「……まぁ、視察という名の見学だがな」
ひよっこの自分がどうして陸軍などに出向かなければならないのか。彼女の疑問は当然のことだった。
「社会見学だよ」
ファルの意図がつかめずに困惑して視線を彷徨わせているザシャに言う。
「……はぁ」
「そういえば、おまえもそろそろ感じているんだろう?」
含みを持たせた物言いでファルが告げると、ザシャはぎくりとして背筋を正した。
年が明けてから急降下爆撃隊の多くは密集編隊の飛行訓練が繰り返し行われている。それがなにを示しているのか、それを隊員のパイロットや後部機銃手たちがわからないはずがない。
そして、ザシャ・デーゼナーもそうだ。
いくら実戦経験が少なくとも、これだけ大編隊の密集編隊訓練が繰り返されれば嫌でも察するというものだ。
そして、彼ら急降下爆撃隊にはひとつの大きな変化があった。
ポーランド戦役の際は三つの航空艦隊に分けて配置されていた急降下爆撃隊が、ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン少将の率いる第八航空軍団の元に集中的に集結させられ運用されることになった。ここに所属する部隊はドイツ西部のケルン周辺の急降下爆撃機基地に移動することになったのだが、それまでポーランド国境付近に展開していた彼らにしてみれば、大移動であること間違いない。
この第八航空軍団は実質的に急降下爆撃隊に特化した航空軍団という意味合いをもっており、そしてそれがひとつの航空軍団として組織されると言うことは、新たな作戦が間近に迫っているということだった。
それをパイロットたちがわからないはずがない。
「……隊長、わたしは、きっと偵察部隊には帰れないんですね」
途切れがちにザシャが言う。
彼女が参加させられている急降下爆撃機の編隊行動の訓練。
それは、彼女が元の部隊には帰れないだろうということを暗に指し示している。
「わからん。だが、俺はおまえの生き残る確率を上げてやりたい。生き残れなければ、元の部隊に帰ることもできないんだからな」
「……はい」
そのために必要なことだ。
彼女の教官であるエルンスト・シッテンヘルムも言っていたではないか。
生き残るための最大の努力を怠るべきではないと。
ザシャの肩を軽くたたいてから、一通りの写真を見終わった彼女にカスパル・ファルは息をついた。
「わかっています」
生き残るための努力をしなければ、軍隊――戦場では生きていけない。
「そういえば、フランスのリモージュに爆撃が行われたと聞きましたが……」
それはフランスと、その同盟国に対する宣戦布告と同義なのではないかと、ザシャが告げるとファルは軽くかぶりを振った。
「ポーランドに喧嘩を売った時点で奴らは戦争状態だと思っているだろう」
「……そうでした」
英仏の両国は、昨年の九月にすでに「ドイツとの戦争状態が継続している」ことを宣言している。
つまるところ、実質的な戦闘行為は行われていないものの、英仏とドイツの間には戦争状態が発生していると言っても過言ではない。もっとも、イギリスは海を越えてドイツを攻撃するだけの大軍団を送ることもできず、そして、フランスは先の欧州大戦での財政的、もしくは人的損失を回復しておらず、ドイツに対して攻撃を加えることがままならなかったため、マジノ線を挟んでにらみ合うような状況が続いていた。
「……マジノ線、ですか」
つぶやいて彼女は首を傾げる。
「どう思う?」
「それほど脅威になるとは思えませんが」
冷静に評価を下す彼女はじっとファルの瞳を見つめ返した。
「だが対空砲は厄介だぞ」
「そうですね」
顎に手を当てたままでじっと考え込んでいる彼女は、ふとなにかを思いついたのか顔を上げてから、なにかを口にしようとしたが結局唇を中途半端に開いただけでそれ以上なにも言わなかった。




