11 痛み
基地にヘルマン・ゲーリングが訪れたその日の夜だったか。
弊社の壁により掛かったままで窓の外を見上げながらタバコをの煙を吸い込んだギーゼブレヒトは思い出した。
それは、まるでなにかの不穏が忍び寄っているような、そんな印象を受けたものだった。
たまたまその場に居合わせてしまったため、「彼らふたり」の話しを全て聞いてしまったことを、自分は後悔しているのだろうか……?。
本来、軍隊とは女の世界ではない。
ドイツ空軍には付属する婦人補助隊という組織があるが、それはあくまでも通信などの後方勤務を主体としており、ザシャのように最前線の任務に立つようなことはない。それは、ナチス親衛隊も同じで、あくまでも「女性は後方にいるべき」というのが、大ドイツ国の国としての方針だった。
そんな、ドイツ空軍の中で異例中の異例とも言えるザシャ・デーゼナーという女性士官。彼女の最前線勤務は一般的には特例中の特例であり、表向きはあくまで「彼女の飛行技術が突出しているから前線勤務しているのだろう」という見解が同僚たちの間にはまかり通っていた。
そしてそんな不特定多数の将兵らと同じようにフロレンツ・ギーゼブレヒトやルッツ・ハーラーを含めて部隊の仲間たちもそう思っていたのだ。
けれども、少なくとも彼らの話を聞く限り、そんなかわいらしい理由からではない、ということをギーゼブレヒトはそのときに察してしまった……。
もっと穏やかではないなにかの「計画」が彼女の背後で蠢いているのだ、と。
*
「先生、待ってください!」
声が聞こえた。
ザシャ・デーゼナーの声だ。
廊下を歩いていたフロレンツ・ギーゼブレヒトは立ち止まる。咄嗟に足音を忍ばせて壁に背中を押しつけた。
「先生」
ぱたぱたと足音が鳴った。足音だけを聞いていれば少女のそれのようだと、彼は思う。もちろん盗み聞きをするつもりはなかった。
「どうしたんだね? ”お嬢さん”」
「お伺いしたいことがあります」
いつになく彼女の強い声が響く。まさか廊下の向こうで誰かに聞かれているとは思っていないだろうといった声の調子だ。耳だけをそばだてているため、年下の女性パイロットがどんな表情をしているかまではギーゼブレヒトにはわからない。
「……先生は、あのときどうして飛行機など操縦したこともないわたしに、突然操縦してみろなんておっしゃったんですか?」
ザシャの声が震えた。
そんな彼女に、低い男の声が応じる。
「……そういう、命令だったからだ」
数秒の沈黙の後に彼はそう告げた。
重々しい男の言葉に、ザシャが息を飲む気配が伝わってくる。
そして、それと同時に彼女と彼のやりとりの内容にギーゼブレヒトはぞっとして背筋を震わせた。
彼女の初飛行は十七歳の時だ。
噂では軍の飛行学校で金の卵として目をかけられていたらしい。しかし、それはあくまでも噂の範囲内で、一介の軍用機乗りでしかないフロレンツ・ギーゼブレヒトは彼女の初飛行の経緯など聞いたこともなかった。
――初飛行は一度として操縦したことのない飛行機を飛ばしてみろと言った。
要約すればそういうことだ。
彼女の言葉をそのまま信用すれば、ザシャ・デーゼナーという女性飛行士は何の訓練もなくいきなり操縦桿を握らされたのだろう。
「その、命令というのは、ナチス党に所属するあの”医師団”の命令ということでよろしいんですか?」
問いかける声が珍しく剣を帯びていた。
ナチス党に所属する医師。
その言葉に、ギーゼブレヒトは片目を細めた。
彼女と彼はなにを話しているのだろう。
狂気の沙汰だ……。
ギーゼブレヒトはそう思った。けれどもそんな青年の思考をも遮るように、中年の前大戦を経験した飛行士は強い言葉を切り出した。
「軽々しい言葉を口にするもんじゃない、少尉」
「……先生! わたしは当事者です。わたしには”知る権利”があるはずです」
はぐらかそうとした彼の言葉を、ザシャ・デーゼナーが厳しく追求した。
「君は知らなくていいことだ。そして、わたしは、この秘密を墓まで持って行くつもりだ。誰にも言わずに、ね」
「それは、わたしにも話してはくださらない、ということですか?」
「君は聡明だ。わたしの言いたいことなどお見通しだろう」
まるでそれは腹の探り合いのようでもある。
声だけを聞いているギーゼブレヒトには彼らの表情まではわからないから、放たれた言葉から内容を推測することしか出来はしなかった。
「……先生」
絶句したように、男を呼んだザシャが言葉を失った。
「ザシャ、君は今良い仲間に恵まれているようだ。その仲間を大事にしなさい」
戦友を大事にするべきだと告げる年上の男の声に、ザシャがまるで泣き出す寸前のような声を上げた。
「先生……! わたし、とても怖かったんです!」
「……わかっている、わかっているとも」
わたしは、君にひどいことをした。
彼は静かにそう言った。
「だが、君もわかっているだろう。当時も今も、わたしにも君にも命令に背くだけの力はないのだから。君も、わたしも全力で受け入れることしかできなかったんだ」
ふたりは何の話しをしているのだろう。
耳をそばだてながらギーゼブレヒトはそう思った。
ナチス党だとか、当事者だとか。
なによりも彼女の告げた言葉だ。
――どうして飛行機など操縦したこともないわたしに、突然、操縦してみろなんておっしゃったんですか?
ザシャの声に嗚咽が混じった。
感情をぶつける場所がわからなくて彼女が泣いている。
「先生……」
そっと廊下の影からふたりを覗うと、娘のような年齢のザシャを男が抱きしめている。まるで安心させるように彼女の背中を撫でながら。
「わたしにとって、君は自慢の教え子だ」
長身の元パイロットの男に縋り付いて泣いている彼女はまるで子供のようだった。家族とはうまくいっていないらしい彼女にとって、エルンスト・シッテンヘルムは父親のような存在なのかもしれない。
「さぁ、泣くのはやめなさい。君は軍人なのだから。しっかりしたまえ。急降下爆撃機のパイロットのデーゼナー少尉」
自分の胸に縋り付いて泣いている彼女を引きはがすと男はほほえんでから目元の涙を指で拭ってやる。
「た、大佐殿……」
「それでいい」
君は軍人だ。
「君は、君が思っているように、なにかしらの計画の内に組み込まれているのだろう。それが何なのかは、わたしにも詳しいことはわからん。だが、それを君が追求することは、君自身の命に関わる。だから、君は精一杯生き残る努力をするべきだ。少なくとも、君が反ナチス的な態度を取らない限り、彼らは君を危険因子とは見なさないだろう。だから、生き残る努力をしなさい。わかったね?」
反ナチス。
その言葉にぎくりと肩を揺らしたギーゼブレヒトは思わず辺りを見回した。
自分の他に誰か聞いている者が居はしないだろうか。
もしも、彼女が危険因子であると疑惑をかけられれば強制的な逮捕に踏み切られる可能性も存在する。
そもそも「なにかしらの計画」とはなにを指しているのだろうか。
「……はい」
エルンスト・シッテンヘルムとザシャ・デーゼナーのやりとりはわからないことばかりだった。
「わたしは命令された事に従ったまでで、君には随分とひどいことをしてしまった。けれども、君は自分の才能の全てを賭けて充分にその命令に応えてこれただろう? 少なくとも、君は確かに生き残る道を選んできたのだから」
「シッテンヘルム大佐……」
「なんだい?」
「……もしも。もしも、わたしが死んだときは、悲しんでくださいますか?」
どんな形であれ、軍人である以上は必ず死というものがつきまとう。
「もちろん」
それを示唆するザシャの言葉に男は大きく頷いた。そうして、金色の巻き毛の頭を大きな手のひらで撫でた。
「けれども、そんな報告を聞かないでいられることを祈っているよ」
優しく彼女に告げるシッテンヘルムはそうしてしばらくザシャと話しをしてから基地を立ち去っていった。
最初から最後まで彼らの話を立ち聞きする結果になってしまったギーゼブレヒトは、ぱたぱたと走るような足音に我に返った。
廊下の角を曲がってきたザシャと正面衝突しそうになって、彼は驚いて手を伸ばす。思わず彼女の体を押さえるようにして支えると、ザシャは真っ赤になった目元で、突然目の前に現れた大柄な男を見上げて声を上げた。
「……あ」
まさか曲がったところにギーゼブレヒトがいるとは思わなかったのだろう。顔から彼の胸に突っ込む形になったザシャの体を抱き留めて、二人とも見事に固まった。
「ヒヨコ……っ」
「す、すみません」
バランスを崩しかけた彼女は咄嗟に男の胸に手をついて体の重心を移動させると、ギーゼブレヒトの腕の中で体勢を立て直す。泣いていたのを隠したいのか、露骨に顔を背けた彼女はうつむいたままで、なんとか言葉を探そうとした。
「もう消灯時間なので……」
どもりがちになる言葉を紡ぎながら彼女は言い訳をするように彼の腕を抜け出すと、慌ただしく走り去っていく。
彼女の周りでは大きな秘密が渦巻いている。きっと、その陰謀にも似たそれを、彼女自身も知りはしないのだ。おそらく、ザシャ・デーゼナーという彼女が、軍人として、あるいは急降下爆撃機のパイロットとして任官しているというところに何らかの理由付けがあるのだろう。
そして、なによりもシッテンヘルムが告げた言葉が気にかかった。
生き残るために、必要なことはその努力だと。
「ヒヨコ……?」
走り去る彼女が、自分の涙を手の甲で拭ったのが見えた。
とても平凡とは言い難い彼女の経歴は傍目には誰もが羨むような華やかなものだったが、おそらくそれは彼女が望んだものでは決してないのだろう。
職業軍人――ドイツ空軍の軍用機のパイロットとしてエリートコースを邁進しているようにも見える彼女の経歴の裏には、もしくは何らかの後ろ暗い計画が隠されているのかもしれない。
けれども、その正体をギーゼブレヒトが考えつくはずもない。
嗚咽を漏らす彼女を呼び止めることもできないまま、ギーゼブレヒトはただその場に立ち尽くした。




