2 優しい雪
金の巻き毛と緑の瞳。
悪魔の実験の被験体――そう言われた時、彼女はひどく取り乱して両目に涙すらもにじませた。しかし、ダグラス・ケリーから実の父親がノルマンディーで戦死したという事実を伝えられたとき、ザシャ・デーゼナーは外見的にはほとんど動揺を見せることなく「そうですか」と呟いた。
多くの科学者や医学者たちを生み出した「ドイツ帝国」にあって、幼い頃から才女とも天才とももてはやされていたらしい彼女は、けれども両親や姉妹のことを尋ねてみても表情をこわばらせて「寄宿学校に入っていたから、家族のことはよく知らないし、ほとんど交流もないから今、どこでなにをしているのかも知らない」と言葉を選ぶようにしながらそう告げただけだ。
全身で彼女は家族に関する話題を拒絶している。
生まれ故郷はドイツ中部のブラウンシュヴァイク。父親は軍人の家系で、四人姉妹の長女。末の妹とは言葉を交わしたこともないという。
家族に対する異常な無関心。
それを覗けば、ザシャ・デーゼナーといううら若い女性は、それなりにごく一般的な関心や執着を覗かせた。
おそらく、とケリーは考える。
彼女の生い立ちがなんらかの心の傷を刻みつける結果になったのだろう。しかし、それを追及することは今の彼の仕事ではなかった。
「家族のことを聞いてもいいかな?」
「……いやだと言っても拒否権はありませんから」
諦めきったようなハニーブロンドの女性は、そうと言われなければ二十六歳にはとても見えない。童顔なために、軍に配属された時からからかわれ続けた原因だとも彼女は教えてくれた。
「妹さんたちとはいくつ離れているんだい?」
「一人目の妹が二歳下です、二人目の妹が四歳下、一番下の妹は七歳下です。末の妹が生まれた時、わたしはもう寄宿学校に入っていたので、時折家に帰ることはありましたけど、末の妹には避けられてましたし、わたしもそれから何年もしないうちに家に帰らなくなったので……」
口ごもった彼女は困ったようにほほえんでから、そっと目を伏せてそれからしばらく考え込んでしまった。
「失礼を承知で聞くが、君はご家族のことが嫌いなのか?」
率直に問いかけられて、ザシャは驚いたような緑の瞳を上げてから困惑しきった顔でケリーの双眸を覗き込んだ。
「父のことは、好きじゃありませんでした。”他の家族”のことは、あまり深く考えたこともありませんでした」
ケリーを見つめた女性パイロットはやがて長い沈黙の後に、言葉を選ぶようにしてそう告げた。
父親のことは好きではなかった。
そして、他の家族――母親と妹たちのことは余り考えた事もなかったと彼女は告げた。
「そうか」
「先生は、精神医学が専門でいらっしゃると聞いています、きっとわたしの答えも、わたしの精神状態の分析に使われるんでしょう?」
「それが仕事だからね」
天才として幼い頃からもてはやされた彼女と、彼女の家族との関係は聞いている限りはとても良好なそれとは考えがたかった。もっとも、ごく幼い頃に寄宿学校に押し込められて、一般的な家族関係を形成して来れなかった彼女にそれらを望むのは酷なことだったのかもしれない。
「ところで、ある情報によると」
ダグラス・ケリーはふと質問の方向性を変えた。
「君は空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングの保護下にあったということだが、君はナチス党には入党していないし、この噂だけを考えれば君とゲーリングが”そうした関係”にあったと考えてもなんらおかしくはない。このことについて君はどう考える?」
「……つまり、わたしと閣下が淫らな関係にあったと?」
不意に彼女の声が震えた。
女性に問いかけるにはゲスなものだったかもしれない。しかし、そうした疑惑がある以上は避けて通れぬものだ。
「閣下は、奥様を誰よりも愛していらっしゃいました……。わたしのことは、その、たぶん、女のパイロットだったから、気に掛けてくださっただけだと思います」
曖昧にほほえんだ彼女は、ことさらにゲーリングのことを批難するわけでもなければ、また、賛美するわけでもない。
どこか淡々とした語り口調で目の前にいる精神分析医に説明する。
不思議なのは、彼女の口調だ、
決してゲーリングを尊敬しているようにも見えないが、激しい怒りを燃やしているようにも感じられない。
奇妙な彼女の態度にケリーは内心で小首を傾げた。
「なるほど」
ダグラス・ケリーは頷きながらザシャの瞳を見つめてから、手元の資料を指先でめくる。
その経歴は実に華々しい。
男顔負けと言ってもいいかもしれない。
スペイン内戦ではコンドル軍団の八八偵察大隊に所属し、ポーランド戦では第四航空艦隊特殊任務航空部隊、第七六急降下爆撃航空団に所属する。さらにフランス戦とイギリス戦では再編された第四航空艦隊の第八航空軍団第七七急降下爆撃航空団に所属。東部戦線では第七七急降下爆撃航空団を経て、一九四三年に第一地上攻撃航空団に配属された。ここで彼女は自分の部隊とも言える独立行動部隊を与えられるが、ザシャ・デーゼナー本人が言うところによるとせいぜい多少の自由の利く他部隊の予備部隊に過ぎなかったということだ。
第六航空艦隊の懐刀。
そう言えば聞こえは良いが、単に使い捨ての穴埋め部隊に他ならない。
「しかし、本当に男顔負けだな」
「そんなことありません」
感心した様子のダグラス・ケリーに、穏やかにザシャはかぶりを振った。
「わたしの力だけでは、生き残る事なんてとてもできませんでした……」
悲しげに、そして静かに彼女は微笑した。
――部隊内での愛称は「ひよこ」。
東部戦線で馳せた彼女の異名は「緑の二重シェヴロン」、「爆撃嬢」。
彼女もまた、東部戦線の英雄にして人民最大の敵とまで呼ばれたハンス・ウルリッヒ・ルデル大佐同様、最後まで急降下爆撃機ユンカースJu87と苦楽を共にしたパイロットのひとりだった。
「どちらでもいいですよ、わたしは」
Fw190とJu87とどちらに乗るかと整備兵に問いかけられて彼女はそう応じた。
「ひよこ中佐」
「はい」
コートを身につけた華奢な将校は、ポケットに手袋を押し込みながら振り返る。
「笑ってくださいよ。たまには」
「努力はしますけど」
とても心から笑っているとは思えない悲しげな笑顔を口元にたたえて、彼女は靴の踵を鳴らすと歩きだした。
「明日の朝までには部隊の機体の準備をお願いしますね」
「努力しましょう」
「ありがとう」
差しだされたファイルを受け取ってサインを書き込む。
屈強な男たちと比べて上背の低い女性将校の横顔に、整備兵たちは一様に溜め息をついた。
――彼女の顔から笑みが消えた。
聞けば、イギリス戦の後から笑わなくなったのだと、彼女が新米だった頃を知る者は言う。
ロシアでのひどい戦いの日々に、彼女は白い吐息を吐きだした。
「早く、こんな戦争が終わればいいですね」
まるで独白するように、早い冬の夕暮れに照らされながら逆光の中に振り返るとザシャはかすかにほほえんだ。




