7 軍隊式信頼関係の築き方
その事件の一報は、唐突に入ってきた。
「……え?」
新聞を握りしめた僚友の声に、ザシャは驚いた様子で首を傾げた。
長い睫毛を瞬かせて彼女は大きく瞳を開いている。
「また、ですか?」
また……。
ザシャはそっと目を細めた。
なにか言いたそうな顔をしたが結局、自分の意見は特に述べることもせずに、瞳を伏せると差しだされた新聞を受け取った。
「ありがとうございます、ハーラー中尉」
「ルッツでいいと言ってるだろうに」
「……いえ」
口ごもった彼女は、つぶやいてから視線を新聞の紙面に落として黙り込む。
「去年もこの頃でしたね」
この頃――一九二三年十一月八日に起こったミュンヘン一揆の記念式典が行われる。毎年、パレードが行われ、「ビュルガーブロイケラー」というビアホールで大ドイツ国の総統アドルフ・ヒトラーが演説を行う。
昨年も、この記念式典の最中にヒトラー暗殺事件が起こった。スイスの神学生が、パレードの際にヒトラーを射殺しようと試みたのである。その神学生は裁判で死刑を宣告されて、刑務所に収容されたという話しだった。
そして今年である。
一九三九年十一月八日。
「……どうして、こんなこと」
つぶやいてザシャは口元を手でおおって言葉を飲み込んだ。
新聞の一面には大きな見出しでヒトラー暗殺事件が取り上げられている。
「……爆発が起こったとき、総統は早めにビュルガーブロイケラーを出ていたそうだ」
「そうなんですか」
――そうなんですか。
彼女の声からは特に感慨だとか、抑揚だとかいったものは伝わってこない。どこか機械的で、おかしな違和感を感じさせられた。
ポーランドとの戦争が終わってから約一ヶ月。
空軍のパイロットたちはあまり普段と変わらない訓練の日々を続けていた。もちろん、その間にも細々とした任務はあったりもするが、戦時中と比べれば平和なものだ。
新聞にはヒトラーは無事だったこと、犯人は別件で逮捕されていたことなどが書かれている。情報統制のせいか、新聞に公表されるのが遅い気がする。おそらく、捜査の進展状況のために公表が遅れたのだろう。
ザシャはそう推察しながら、紙面の文字を視線で追いかけた。
金色の巻き毛を耳にかきあげて彼女はじっとなにかを考え込んでいた。
「どう思う?」
「……わたし、政治的なことには意見をしないようにしているんです」
「なるほど」
それが最も賢明だ。
今の不安定な状況下でそういった発言をするのは軽率にも程がある。特に、国家社会主義ドイツ労働者党の動きが不穏すぎる。
「そういえば、おまえ、国家社会主義ドイツ労働者党に勧誘されてたな」
「もちろん、わたしはお断りしましたが、たぶん、父の関係だと思います」
視線を泳がせながらルッツ・ハーラーの言葉につぶやいたザシャは、どこか困った様子で新聞を置いた。
「そういえば、おまえの親父さん、陸軍の士官だったか」
「……父も断ったそうです」
「ほう?」
あまり感情を感じさせない声で淡々と告げる彼女は、先日、国家社会主義ドイツ労働者党に勧誘されていた。
国家社会主義ドイツ労働者党――NSDAPと言うのはいわゆるナチスである。
ちなみに元は総統アドルフ・ヒトラーを護衛する党内組織として結成されたのがナチス親衛隊だった。一九二九年にハインリヒ・ヒムラーが親衛隊全国指導者として就任して党内の警察組織として急速に勢力を拡大した。
一九三三年にナチス党が政権を獲得してから政府と警察組織との一体化が進められて、治安、諜報組織のほぼ全てを傘下においており、さらに、一九三四年には親衛隊特務部隊と呼ばれる軍事組織を保有し、この組織はポーランド戦役にも投入されている。
「……わたしは、政治的な思惑のない、ただの一軍人にすぎませんから」
ひとりの軍人にすぎない。
それは都合の良いお為ごかしでしかない。
彼女の言葉を聞いていたルッツ・ハーラーは、ザシャがナチス党、あるいはナチス親衛隊に対して決して快く思っていないということを如実に顕している。
国防軍に属する軍人たちの一部がそうだった。
「気をつけろよ」
「大丈夫ですよ、わたしは、ドイツの”戦後の子供”ですから」
ニッコリと彼女が笑った。
言葉にする危険性を充分に知っている。
不安定な情勢の下のドイツ国で生きてきた子供だ。
「そういえば、空軍の元帥閣下もナチス党員だったな」
「そうですね」
ザシャはルッツ・ハーラーの言葉を淡々と受け止めている。
一介の尉官でしかない彼らが不用意な発言をすれば、即刻逮捕されるだろう。だから、ルッツ・ハーラーもザシャも余分な発言はしない。
命が惜しければ、余分なことをしないことだ、とザシャは思う。
新聞の記事を見れば、一個人で行った暗殺計画であるらしい。しかし、ひとりでできることなどたかがしれていて、それが失敗すればこの有様だ。
目を細めたまま、考え込んでいた彼女はややしてからルッツ・ハーラーににこりと笑いかけた。
「ありがとうございます」
そう言って新聞を返した。
「そういえば、おまえ、聞いたか?」
「はい?」
聞いたか、と尋ねられても何のことだかさっぱりだ。
「今度大々的な作戦があるらしいとか」
「……まだ、正式な発表はありませんけれど、ありえない話しではありませんね」
考え込むような素振りを少しだけ見せてから、ザシャは眼を細めた。
「どうしてそう思う?」
ハーラーの問いかけに対して、ザシャは生真面目に相づちを打った。
「訓練が、本格的すぎますから」
訓練が本格的すぎる、とは言っても、曰く「天才」のザシャにとっては訓練らしい訓練ではないだろうに。
「そういや、おまえ、Ju88とHe111の訓練が始まってたな」
「はい、この時期に不自然すぎます」
彼女はあくまでも急降下爆撃機のパイロットだ。
スツーカ隊の訓練の合間に、双発型爆撃機の予備訓練と、戦闘機の予備訓練もこなしている。ある意味、部隊の中では一番に多忙なパイロットのひとりだが、それだけの訓練を一度にこなせるのは彼女しかいないだろう。
よくもまぁ、これだけの予備訓練を一度に受けていて頭の中がどうかしないものだ。
彼女にそれだけの訓練をさせるということは、戦時に彼女がそういった働きをすることも考慮している、ということになるわけだろう。
「大丈夫なのか?」
「別になんでもありませんよ」
にこりとほほえむ。
彼女はそうして、時計を見ると肩を回した。
「そろそろ休まないと」
体力の維持は兵士の仕事だ。
休暇中に倒れたことで、中隊長のカスパル・ファルにはこっぴどく怒られた。
ハーラーやギーゼブレヒトのように体力が有り余っているわけではない彼女は、平時はできるだけ早めに休むように心がけるようにした。訓練中に倒れるようなことになってはそれこそ大目玉を食らうだろう。
大目玉くらいで済めばいいが、カスパル・ファルの鉄拳はザシャにとっては真剣に痛い。できる限りそれを食らうことだけは避けたかった。
「そういや、おまえ、よく隊長にぶん殴られてるもんな」
同情するような眼差しの彼に、ザシャは不満げに唇を尖らせた。
「……隊長、容赦ないですから」
「いや、容赦してると思うがな……」
頭頂部に鉄拳で済んでるのだ。
これが男相手だったら問答無用で頬にストレートパンチを食らっている。
相手が女性だと言うことでカスパル・ファルは一応”紳士的”にザシャに対応しているのだ。
「……――」
不満げな瞳を受けてハーラーは笑ってしまった。
「本当に痛いんですよ」
「そりゃ痛くなかったら折檻にならないからな」
そこは軍隊だ。
当たり前のように殴られる世界。
そんな中で女性の彼女はよく頑張っている。
「俺だって新入りのときはよく隊長に殴られてたからな、そうやって成長してくもんだ」
「馬鹿になったらどうするんですか……」
溜め息をついた彼女に、ハーラーは声を上げて笑ってから彼女の頭を大きな手で撫でてやる。
「ま、おまえさんは少し殴られたくらいのほうが人並みに近づくだろ」
よく考えれば、昨日も中隊長のファルから頭に鉄拳を受けていたザシャのそこには大きなコブができている。
妹とも言える後輩のパイロットに、ルッツ・ハーラーは優しく笑う。
たぶん、ファルはコブができる程度には殴っているがそれでも力の加減をしているはずだ。そうでなければ、彼女がこの程度で済んでいるわけがない。
以前、彼女の前に来た新入りのパイロットが、カスパル・ファルにストレートパンチを食らって昏倒していたものだ。
それがない、ということは、ファルが彼女を紳士的に扱っているという証拠だった。もちろん、ハーラーは「新入りパイロット」にそんなことを教えたりはしない。
「とにかく、わたし、隊長に叩かれたくないので寝ます」
彼の大きな手のひらを振り払ってザシャは立ち上がった。
食堂を早足に出て行く。
職業軍人としては決して恵まれた体格をしているわけではない彼女の後ろ姿はどこか華奢にも見える。
「おやすみなさい」
「お休み」
振り返ってハーラーに会釈をしたザシャはそうしてズボンのポケットから自室の鍵を探ると暗い廊下へと消えていった。
「隊長も苦労する」
喉を鳴らして笑い出した、ルッツ・ハーラーは渋面のままで新聞を見つめていたフロレンツ・ギーゼブレヒトに視線をやってからその隣へと移動した。
「どうした? 難しい顔をしてるな」
「いや、あいつの言ってたことが気になってな」
あいつ――ザシャのことだ。
双発型爆撃機と戦闘機の予備訓練を受けている彼女。
通常、そうした予備訓練はじっくりと時間を掛けて行われるのが常だ。しかし、ザシャは「なんでも予備訓練なしで飛ばせる」と教官たちからお墨付きをもらっているパイロットでもある。それは今や部隊内では内密のことでもなんでもない。
「……大きな作戦が、近いうちにあるのかと思うとな」
彼女はただ淡々とそれらの予備訓練を受けているが、内心ではなにを考えているのだろうか。
ポーランドとの戦いでは、泣きながら戦っていた彼女だ。
なにも思っていないわけがない。
「心配か?」
「……それなりにな」
戦友として、そして部隊の仲間として心配にならないわけがなかった。
「そういえば、あいつが来て面白くないと思ってた連中もあれだけの訓練を完璧にやっているのを見てるとさすがにぐうの音も出ないらしいな」
空軍のパイロットとは言え、遊びたい二十代と言えばまだまだ遊びたい盛りのはずだ。
噂では、戦闘機隊の隊長のひとりがザシャをよこせとカスパル・ファルに詰め寄ったらしい。そんな話しも聞こえていた。
「うちのエース候補だ、戦闘機隊なんぞに渡せるか」
そうファルが答えたとか答えないとか。
「ま、隊長としてはまだあいつを手放したくはないだろうな」
彼女が転属してからまだたった二ヶ月しかたっていないのだから。
いくら戦闘機の予備訓練をこなしているからといって、戦闘機隊に優秀なパイロットを渡すつもりなどさらさらないだろう。
そんな会話を交わしたふたりは、そうしてから顔を見合わせて苦く笑った。
結局、彼らの中隊長カスパル・ファルは、彼女に甘いのだ。
「甘いな、隊長は」
ギーゼブレヒトが言うとハーラーが頷く。
「まったくだ」




