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1 突きつけられた現実

 彼女はドイツ空軍(ルフトヴァッフェ)の女性の飛行中佐。

 憔悴しきった彼女はフィールドグレーの制服に、黒いネクタイを締めて膝に付いた両手を見つめるようにうつむいたきり微動だにしない。

 名前はザシャ・デーゼナー。

 ドイツ国防軍空軍の正式な書類上には、見事な経歴が記されていた。


 十六歳でミュンヘン大学医学部卒業。

 十九歳で軍の飛行学校を卒業。

 同年、空軍に入隊。スペイン内戦へ義勇兵のひとりとしてリヒトホーフェン率いるコンドル軍団に偵察部隊として従軍。

 二十一歳でポーランド戦に参加。

 その後、対フランス戦、イギリス戦、さらに対ソビエト連邦戦と転戦を重ねる。

 最後の所属は第六航空艦隊。ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンの指揮する地上攻撃飛行隊に付き従い、その第一地上攻撃飛行隊の中でも独立行動部隊の指揮を執った異色の指揮官だ。

 父親は記録上ではノルマンディーで戦死した。

 とても軍人のそれとは思えないような長い金色の髪がゆらりと揺れる。

 精彩を欠いた眼差しは、とても歴戦の飛行機乗りのものとは思えなくて、一様に見張りについたアメリカ軍の将校たちが訝しげな眼差しを向けた。

 訊問がはじまってからも彼女は聞かれたことに訥々と言葉を返すだけで、他の将校たちのように自信に満ちあふれているわけでもなければ、どこか怯えを隠せないわけでもない。

 異様な彼女の雰囲気に、男たちは飲み込まれかけて我に返る。

「我々を煙に巻こうとしても無駄だぞ」

「……わかっています」

 丁寧な英語でぽつりと彼女は言った。

 ミュンヘン大学でも天才と呼び声の高い彼女に、だけれども多くの同期の卒業生たちは彼女に対してそれほど目立った印象がなかったという。

 大学に在籍していたのは五年間だが、その間、印象らしい印象を受けないというのはどういうことだったのだろう。

「変な奴でしたよ」

「友達なんていなかったんじゃないですかね」

「会話したこともないからよくわからない」

 そんな言葉さえ聞かれる彼女。

 けれども、ザシャ・デーゼナーと共に戦った下士官や将校たちは、真面目で責任感が人一倍強い理想的なパイロットだと評価した。

「わたし、ソ連に引き渡されるんですよね」

 東部戦線で戦った将兵は例外なくソビエト連邦によって裁かれるべきである。

 そうした通達を彼女が知っていたかどうかはともかくとして、半ば予想していたような口ぶりでそう告げると細い肩をますます縮めてザシャは不安そうな溜め息をついた。

「君の身柄は、英米で保護することになったから、安心したまえ」

「……え?」

「君の実験記録をスターリンに渡すわけにはいかないからな」

「実験?」

 どういうことなのかと口ごもる彼女に、訊問にあたっていたひとりのアメリカ人将校は、見せつけるようにして一冊のファイルをテーブルの上に放り出した。

 相手の表情を伺うようにしてファイルの内容を確かめるザシャの顔色がまるで音をたてたかのように血の気を失っていった。

「……これ、わたし。こんなこと、知らない……っ」

 知らないと言って呆然とした彼女は、口元を手で覆ったまま青ざめた顔で何度も何度もかぶりを振った。

「君が知らなくて当然だ。これは、軍とそれに関係する医務官が隠し持っていた悪魔の実験の極秘資料なのだから」

 精神分析医ダグラス・ケリーにザシャ・デーゼナーは言葉を失った。

 この年、彼女の年齢は二十六歳。


 ナンバー000000001。

 ドイツにおける優生学を証明し、実験的な裏付けの取得と今後人工的なアーリア人種の天才を誕生させるための研究の第一段階。


 仰々しく記されたアルファベットに、ハニーブロンドの巻き毛の女は卒倒した。知らないと繰り返した彼女は緑色の瞳を揺らす。

「継続的なデータの取得のため、被験体は極度の精神的重圧を与え続けられる環境におくこと。この実験の結果次第でその限界値を知る事を第一目的とするストレステスト」

 極度のストレスに晒される環境におかれた彼女は、けれどもそのデータを有効活用することもないまま戦争はドイツの敗戦で終結した。

「君は重大な実験の被験体だ。だから、君をソ連に奪われるわけにはいかないのだよ」

「わたしを、……どうするつもりなんですか」

 アメリカに連れて行かれて実験のモルモットにされるのだろうか。

 それともイギリスか。

「君の身柄を、ソ連は口から手が出るほどほしがるだろう。だから、アメリカ合衆国の名において、必ず保護することを約束する」

 ――君は、戦争の被害者なのだ。

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