二者択一
夢は理屈で説明できるものではない。
私は飛び起きた。部屋はまだ暗い。ふと目に入った時計には、もうすぐ明け方であると表示されていた。
息が荒い。心臓は暴れるように動いている。私は大きく深呼吸をした。
怖い。怖い、怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。信じられないほどの恐怖が私を襲う。気分が悪い。
あの表情が、声が、頭から離れない。伸ばされた手が今でも目の前にあるみたいだ。鮮明に、恐ろしいくらいに鮮明にその場面だけは脳裏に焼き付けられている。
最悪だ。退路を絶たれた。逃げ道がなくなった。
これからも機械仕掛けの日々が続くのだ。
嫌な夢を見た。
私は一体、何を間違えたのだろう。何を間違えて選択したのだろう。どこが間違っていたのだろう。
何もわからないままに堕ちた。きっとどこかで間違えて、きっとどこかで失敗して、きっとそのまま間違えたままで、何も気がつかないままで、落ちて、堕ちて、堕ち切ったのだと思う。
気がついたら独りだった。それだけなら良かった。
気がついたら敵がいた。それだけならまだ良かった。
気がついたら味方がいなかった。嫌な予感がした。
彼らの行為自体はなんてことない。私が臆したのは、味方がいないという事実だった。
毎日が憂鬱になり、笑うという行為さえわからなくなり、世界から色が消え、誰の声も聞こえなくなり、痛みも感じなくなり、生きる意味を失い、生きることに疑問を覚えた。
そして見えた道。眼下に広がった、死という道。恐怖は感じなかった。むしろ魅力的にさえ思った。
だからそう。死んでみようと思ったのだ。悩むこともなく、深く考えることもなく、なんとなく、死んでみようと思った。まるで目の前にある新しい玩具で遊んでみようとする子供みたいに、好奇心に駆られたように、軽い気持ちで。
死というものがどういうものかをわかっていなかったわけではない。取り返しのつかないことだとはわかっていたけれど、死という道はあまりに魅力的だった。
明日、死んでみよう。そう思ったのがいけなかったのだろうか。
だから、あんな夢を。
私は教室にいた。二時限目が終わったところだった。いつも通りの日常。誰も私など見ていない。
けれど、普段に比べてなんとなく廊下が騒がしい気がした。
教室にいた何人かが興味本位で笑いながら廊下へ出て行き、暫くして悲鳴に変わる。
校内に警報が響き渡った。校内放送が流れてくるが慌て叫んでおり聞き取れず、更に警報の中に消え失せる。
教室がざわめく中、私は何故か冷静で、ふと窓の外を見て―
心臓を摑まれた気分になった。
一瞬で恐怖に襲われ、体は硬直する。全身でそれを拒絶しようとしているのに、視界は固定されて動かない。
外の街が灰色の濁った液体に浸水していた。
「・・・・・・え」
あまりに掠れた声に、それが自分のものだとはわからない。いや、最早そんなのはどうでも良かった。
逃げないと、逃げないと死ぬ。咄嗟にそう思った。
人で埋められた廊下。何も考えずに飛び込んだ人の川に流されてから、みんなが屋上へ逃げようとしているのがわかった。偶然にも私のいた教室は最上階だったので屋上はすぐだ。とにかく上へ。みんなそれだけだった。
状況把握をしなければ・・・。
停止しそうな思考を必死に働かせて、私は人の間を潜り抜け強引に踊り場にある窓へ身を乗り出し、外の景色を視界に入れる。
灰色の液体は波を打ってどんどん増量して、次から次へと街は見えなくなっていく。どの建物の屋上にも人の姿があり、低い建物から徐々に消えていった。
私は声を失い目を奪われた。動悸が激しくなる。鳥肌が立ち、全身で恐怖を感じる。
自分を落ち着かせるために深呼吸をしようとしたとき、後ろの方で悲鳴が聞こえた。私も、屋上へ向かう数人も振り返る。
下にいる人の悲鳴を聞く限り、液体が校内に侵入しているようだった。途端に人の流れが速くなる。
そんな中、どうしてかわからないが、私は未だ踊り場から離れずに窓の外から灰色を化してゆく町を見ていた。
暫くして直感的に気がついた。
この液体に触れると、人は消えるのだ。
人が流れていないのも、水中で吐き出されるはずの息が浮かび上がってこないのも、液体に触れた瞬間に消滅するから。
沈むのではなく、消えるのだ。
悪寒がする。全身が震える。
嫌だ、嫌だ嫌だ。死にたくない。消えたくない。
ふと振り向けば、波はもうすぐそこまで来ていた。先程私がいた廊下は液体で見えなくなっていて、そのまま私のいる踊り場までやってくる。
私は怖くなってそのまま人の流れのままに階段を上る。
何段か上ったところで、突然背後から悲鳴が聞こえた。
「い、嫌! 死にたくない!」
女の子の声だった。私は驚いて振り向き、つい立ち止まる。血の気が引いていくのがわかった。
私のすぐ後ろにいた女の子は、腰まで液体で見えなくなっていた。
「やだ、嫌だよ・・・、やだってば! 助けて! 助けてっ!」
女の子は恐怖に怯えた顔で私に手を伸ばす。その手が一途に私の助けを必要としているのは一目瞭然だった。
止めを刺された。今まで必死に動かしていた思考も、あまりの恐怖に体さえも働かなくなっていて、私が助けてくれないと悟った女の子の表情が徐々に変わっていくのを眺めるしかなかった。
世界が終わるのだと思った。全てこの液体に呑み込まれ、全て消え逝くのだと。
夜が明けたのか、部屋に光が入ってくる。私は重い体を動かしてカーテンを開けた。
私が避けていた道が見える。私は抱きたくなかった感情を持っている。
私は、死にたくないという感情を抱きながら生きるという道を歩むしかないのだ。
私は一体何のために生きているのか。答えは簡単。ただ死にたくないだけ。
どんなに日々がつまらなくても、どんなに日々が辛くても、死にたくないから生きるだけ。
何のために世の中はあるのだろう。どうして私は死にたくないのだろう。私はいつ死ぬことができるのだろう。
ねえ、神様。生きていたら何か良いことでもあると言うの?
生きることは死ぬことより残酷だ。