夕日の友情
「それでね! ……って舞子さん聞いているの?」
いつもの様に、舞子さんに楽しいお話をしてもらおうと思ったのに。今日はなんだかうわの空で、舞子さんがボーっとしているので。仕方なく、私が最近読んだ本の話をしていたのだけれど、舞子さんは、聞いているのか、いないのか、なんだか浮かない顔で、一点を見つめていた。
「……っへ? なんだっけ?」
「もー!やっぱり聞いていなかったんだー」
「あははは、ごめん、ごめん。なんかボーっとしちゃって……」
ごめん、ごめん。はこの人のクセ。2回謝る時はテキトウな時。それを聞いて少しだけ安心した。
「舞子さんが、そんな風になるなんて、珍しいね。いつもはもっと、ノリノリで、仕事も忘れて聞いてくれるのに」
「何かあったの?」
いつもと様子の違う舞子さんに、何か面白い出来事があったのでは無いかと、興味本位で聞いてみる。
「ううん、何でも無いわ。あ、まだ仕事あったんだ。行かないと」
あまりに素っ気無い返事と、無理のある笑顔……。
なんだか妙に苛立ってきた。
「舞子さん! 何でも無い訳無いよ。私は舞子さんと出会って、そんなに日も経ってないけど、舞子さんの事ちゃんと見てきたつもりだよ? 今日の舞子さんは何か変だよ!」
ついつい声を荒げてしまう。こんなに一所懸命になったのは、いつ以来だろう? そんな風に思い返して私はハッとする。
また……繰り返そうとしている……。
そう思うと、これ以上踏み込んではいけない気がして、私はうつむいてしまった。
「ご、ごめんなさい。でも私は何時もどおりだから! また後で来るからね!」
そう言って舞子さんは出て行ってしまった。
私はジッと、シーツを見つめたまま、動けなくなってしまっていた。
「ねぇねぇ、死神さん」
爽やかな日差しに、穏やかな風、少しくすんだ白いベンチの上にまったく似つかわしく無い黒い塊。まるでそこだけぽっかり穴が空いてしまった様な、深淵の様な、それでいて、まだまだ底の見えない、『黒』に、私は問いかける。
「私……なんで生まれてきたんだろう?」
ついつい、こんな事を、言ってしまう。死神さんは、この黒猫は、いつもこうして聞いているのだか、聞いていないのだか、寝ているのだか、起きているのだか、わからない様子で、ただ隣に、在ってくれる。
「こんな事言ったら、また舞子さんに怒られちゃうね」
どうしてか私は、この黒猫に話かけてしまう。明確な答えどころか、返事すら返って来ない相手なのに、他の猫の様に愛想よく頬を擦り付けて来るわけでも、可愛らしい声で鳴くわけでも無いのに。
そうしてひとしきり、死神さんにいろいろ問いかけた後。いつもなら本を読むところなのだが、今日はそんな気分になれなかった。
今朝の舞子さんの様子と、過去の記憶が頭の中でグルグル回って、どうして良いかわからず、自分の弱い体を呪って、それでも死が恐くて、でもお母さんと、お父さんが、一所懸命に私の為に無理している事を思うと、早く死んでしまった方が良いのではと思ってしまう。
私はきっとバカだ。お母さんも、お父さんも、そんな事は望んでいない。だけど私は生きていて楽しく無い。私よりもっと酷い病気の人が居る事も、命の大切さも、わかっているつもりだけど、実感が無い。 私は『生きている』のだろうか?子供の頃から、ずっと病院で過ごし、本を読むこと位しかする事も無く。そのくせ、ちょっとはしゃいだり、無理をするだけで、体が悲鳴をあげる。
「そう言えば、あの時もそうだったっけ……」
それは私がまだ都会の小児病棟に居た頃の話。
「優お姉ちゃん!」
無邪気な声で、隣のベッドのお姉ちゃんに問いかける。
「しーっ、あまり大きな声を出すと、看護師さんにばれちゃうよ?」
隣のベッドから、囁くような声が聞こえてくる。
「はーい」
私も囁く様に、でも、喜びを隠せずに、はしゃいだ声で返す。
その頃の私は、ただ毎日が退屈で、隣のベッドの優お姉ちゃんが語ってくれる、不思議でおかしな物語に、夢中になっていた。そして、昼間に話してもらうだけでは足りず。こうして、ひっそり夜中まで、優お姉ちゃんにお話を聞かせてもらっていた。
「そうして、お星様になった女の子は、大好きな男の子に迷いの森から出る道を照らし、未来永劫、その子孫まで幸せになれるように、空から見守り続けました」
「おしまい。ねぇ美羽ちゃん、どうだった?」
「グズっ……ズズっ」
「美羽ちゃん?」
「女の子が可哀相だよー。グズっ……」
声が震えてしまう。
「ふふっ、泣いているの?」
「うーっ、だってぇ……。大好きな男の子と一緒になれなかったんだよ? しかも男の子が他の人と幸せになっているなんてぇ……ズズっ」
溢れる涙と一緒に、出てくる鼻水を懸命にすすりながら話す。それぐらい話に入り込んでしまっていた。
「そこまで読んでくれたんだ? でもね、このお話はハッピーエンドなのよ?」
優お姉ちゃんは、誇らしそうに言った。
「へ? なんでー!?」
あまりに驚いて、大きな声を出してしまう。
「しーっ!」
優お姉ちゃんの慌てた声に、ハッとする。
「ご、ごめんなさい……でも……ズズっ……なんで?」
「この女の子はね、元々自分の命が長く無い事を知っていたの。そうして自分の大好きな人の為に何か出来る事は無いかって思い悩んで、考えて、考えて、そうして自分で出した答えだから後悔はしていないの。そして自分が一番、男の子の事を幸せに出来たって、そう思っているから。このお話は、ハッピーエンドなのよ」
そう優お姉ちゃんは、言ったけれど、この頃の私にはわからなかった。
「でもやっぱり可哀相……ズズっ」
一言呟いて、鼻をすする。
「ふふっ、じゃあ今度はとびっきりあまーい恋物語にしましょうね」
私の不満そうな声を聞いて、優お姉ちゃんは、幼い子に言い聞かせる母のような、優しい声で言ってくれた。まさに「優」と言う名前の現す通り、優しく暖かいお姉ちゃんで、私は、優お姉ちゃんが大好きだった。
「うん、約束ね!」
「うん……約束」
その約束は果たされる事は無かった。
連日の夜更かしと、はしゃいだせいか、私は、次の日から高熱を出し。別の部屋に移され、一月ほどして戻った時には、優お姉ちゃんは居なくなっていた。
私は何日も泣いた。そして、何度も体調を崩し、転院を繰り返し、新しく出会う人とは必要以上に親しくならないように、なっていた。同じ悲しみを、何度も繰り返さない様に。
だけど私は、忘れてしまっていた。舞子さんという特異な、いつも出会ってきた人と違う。優お姉ちゃんとも、まったく違う。でも、優しく暖かい。正直、私には眩しい。
だけど、私にはどうして良いかわからなかった。今までは自分が傷つきたく無くて、人とは必要以上に仲良くならなかった。だけど、今度は違う。舞子さんに泣いて欲しくない。これ以上、舞子さんと親しくしない方が、良いのかもしれない。舞子さんの為に……。
でも、それはもう少しだけ待たなければならない。私は、舞子さんに幸せになって欲しい。だから今朝の様な偽者の笑顔は、私が今までしてきたような、偽りの仮面は、舞子さんには似合わない。
「行って来るね」
私は、死神さんにそう告げて、ナースセンターに向かって歩きだした。
「あの!」
通りすがりの看護師さんに、尋ねる。
「舞子さん、あっ、小鳥遊さん、どこにいるか知りませんか?」
小鳥遊さんと呼ぶのは、なんだかむずがゆい様な、照れくさい様な、不思議な気持ちになった。
看護師さんは、少し怪訝そうな顔をして
「小鳥遊さんは……今、少し大変な仕事しているから……ちょっと後じゃ、駄目かな?」
大変な仕事?なんだろう……。でも仕事じゃ仕方ないよね。
そう自分に言い聞かせ、それでも何かしたくて。
「わかりました。後にします。あ、あと、今日、小鳥遊さん、何か様子が変じゃありませんでした?」
何か手がかりでも掴めないかと、探りを入れてみる。
「!?」
看護師さんは、すごく驚いた表情で、私を見た。
「もしかして、あなた……美羽ちゃん?」
虚を衝かれ、今度は私が驚きの表情になる。
「ごめんなさい。違ったかしら?」
私が、驚いて固まって居ると、看護師さんが、申し訳無さそうに言う。
「い、いえ。美羽ですけど。どうして私の名前を?」
聞いた瞬間に、しまったと思った。舞子さんの時みたいに、私が覚えて無かっただけかもしれない。
しかし、それは杞憂に終わった。
「なるほどね。あなたが美羽ちゃんね。確かに可愛いわ」
品定めする様に、見られ、少しムッとする。それに、なんなのだろう?この人は、どうして私の名前を、知っているのだろうか。
「舞子からよく話を聞いているのよ。あなたの事」
私の疑問を見抜いたように、疑問点を解消してくれた。なるほど、舞子さんの仕業か……。
「そ、そうなんですか。それで、舞子さんは、私の事をなんて?」
正直、気になる。他の人に私の事を、どんな風に話しているのか。
「んー、それはナイショ。そういう事は、良い事でも、悪い事でも、本人に伝えるべきじゃないでしょう?それに、あなたにとって舞子は、そんなに信用出来ない人かしら?」
どうやらこの人も、舞子さんの知り合いだけあって、なかなかクセ者のようだ。
「信用出来ないですね」
私は、キッパリ断言する。
「ぷっ……あははははは」
突然、笑い出されて、困惑する。私はそんなに、おかしな人間なのだろうか。
「やっぱりあなた、舞子の言うとおりの子だわ」
ああ、そう言う事か。何だか何を言われていたか、なんとなくわかってしまった。
「そうね、あなたなら良いかもね」
看護師さんは、ひとしきり笑った後、突然真剣な顔で呟いた。
「何が良いんです?」
最初とは、反対に私が怪訝な顔をして、聞いてみる。
「うーん、後2時間くらいしたら、屋上に行ってごらんなさい。きっと舞子に会えるから。あ、屋上は日が落ちると風もあって、寒いから、ちゃんと暖かくしてね。あなたは病人なのだからあまり無理は、しないように」
そう言って人差し指でおでこを突かれた。
「えと、なんで屋上なんですか?」
「それは行ってみれば、わかるわよ」
そう言って病室に戻りなさいと、クルリと1回転させられ背中を押された。
「あ、そうそう。一つあなたと同じ意見があるわ」
振り向いて疑問符を浮かべて看護師さんを見る。
「舞子は信用出来ない」
と、ウィンクされてしまった。舞子さんは、きっと、誰と居ても、どこでも、あんな人なのだろうなと、思い知らされた。
「ありがとうございました」
少し頭を下げてお礼を言う。
「良いわよ。それより舞子。へこんでいると思うから、力になってあげてね」
意味深な言葉に、あっけに取られ、舞子さんに一体何があったのかと、思案しているだけで、あっという間に2時間が過ぎてしまった。
舞子さんがへこんでいるって……。一体何が、あったのだろう?男の人に振られたとかかな。そんな事を考えながら、屋上に続く階段を登る。建物自体は五階建てで、五階まではエレベーターがあるので、そこから階段を登るだけなのだけれど、想像以上にきつい。自分が改めて病人なのだと、思い知らされる。この弱い体がとても歯痒い。屋上の重たい扉を、ゆっくりと開ける。
ぶわっと、風が吹き抜け、無機質なコンクリートの色と物干し、それと、とても鮮やかなオレンジ色が、目に飛び込んできた。その中に、ぽつりと白い絵の具を垂らしたように、屋上のフェンス越しに夕日を眺めている人が居た。舞子さんだ。
「舞子さん」
ゆっくり息を吸い、まるで普通に呼吸するように、自然な形で呼ぶべき名前を呼ぶ。
舞子さんの肩がビクッと震え。腕で顔を、ゴシゴシしたあと、ゆっくり振り返る。その行動で、舞子さんがここで何をしていたのか、わかってしまった。
「美羽ちゃん……ダメじゃないこんな所に来ちゃ。患者さんは立ち入り禁止よ。」
遠くから静かに、それでも透き通る声で、努めて明るく振舞おうとしているのに、声が少し震えている。夕日を背にしているせいで、表情は見えない。
私は、黙ってゆっくり、舞子さんに近づいていく。
「美羽ちゃん! ダメ! こっちに来ないで。私がそっちに行くから!」
今度は、少し慌てた様子で、こちらに走ってくる。
屋上の風は、想像よりずっと強くて、冷たい。
それでも、一歩でも早く、舞子さんに近付きたい。私は、歩くのを止めなかった。
でも、数歩歩いた所で、舞子さんに、一気に距離を詰められてしまった。舞子さんの見ていた景色を、私も、見たかったのに……。
「もう! どうして屋上なんて来たの?今日は風も強いし、寒いし、それに一人で階段を登ってきたの!?」
すごい剣幕で、捲くし立てられる。
「ナースステーションで聞いて……。舞子さん、きっとへこんでいるって……。朝から様子がおかしかったから……」
はぁはぁと、呼吸が乱れていく。ちょっと階段を登って、ちょっと風に当たっただけなのに・・・・融通の利かない体に、苛立つ。
「美羽ちゃん! もう、こんな無茶して……ダメじゃない。とりあえずお部屋に戻りましょう。」
優しく肩を抱いて、黙って部屋まで連れて行かれる。エレベーターでの沈黙が少し重い。
そしていつものベッドに寝かされ、体温計を渡されたので、いつもの手馴れた動作で、体温を計る。もう自分でも体が熱い事には気付いているけれど……。
「舞子さん……」
ゆっくり沈黙を破る。
「どうして屋上で泣いていたの?」
さっきまで2時間も最初の言葉を、なんにしようか迷っていたのに、口をついて出たのは何の気も利いていない、言葉だった。
「ありゃ、ばれちゃったか……」
いつものお調子者の様子で、舌を出して、明るく振舞っている。
「お化粧……崩れてすごい事になっているよ」
これは本当。元気な時や、こんな深刻な状況じゃなかったら、お腹を抱えて笑っているかもしれない。
「へ? うそ? やだー! 見るなー!!」
これはいつもの調子みたいだ。手を顔の前でうろうろさせて、しばらくして諦めたのか、私に向き直る。
「もう、美羽ちゃんがあんなところに来たから、なんだからね!」
少し怒っているようだ。いや、大分かもしれない。
「舞子さんが露骨にへこんでいるんだもの、だから心配して行ったの」
私も少し怒って、頬を膨らませながら言う。
「もう……」
ふぅっとため息を吐いて、観念したのか、舞子さんはゆっくりと話しだす。
「昨日、私の担当していた患者さんが、亡くなったの」
それを聞いた瞬間、私はすごく後悔してしまった。私が一番心配していた事……。
私が死んだ時も、きっとこの人は泣くだろう。そういう事を、知ってしまった。もうこれ以上この人に、踏み入っちゃいけない。それなのに声が出なかった。
「その人とも、色んなお話をして、ふざけ合って、冗談を言えるくらい仲が良かったのよ」
さらに、私に追い討ちをかけるように、舞子さんは続ける。
「私、ダメなのよね、いつも考え無しに患者さんと仲良くなって、その度に泣いて」
これ以上聞いちゃダメだ。それなのに、何を言って良いかがわからない。ただ苦しかった。
「で、婦長さんに毎回怒られちゃって……何度も、お前は看護師に向いてないって。何度言えばわかるんだって」
あぁ、時間を巻き戻したい。私はどうしてこんな事を、してしまったのだろう。
そんな後悔ばかりが、押し寄せた。
「でもね。私は後悔してないの」
その言葉に、衝撃を受けた。あんなに泣いていたのに、婦長さんに怒られるくらいうわの空で、傍から見ても落ち込んでいたのに。
「私はね、どんな人とでもちゃんと向き合って生きたいの」
「たとえその人の命が、後1日だって、何時間だって、その人のお友達になりたいと思うわ」
「もちろん全ての人と、そうなれる訳では無いけど、せめて私が担当する人、くらいは全力で向き合いたいなって。そう思っているの。婦長さんには、よく怒られちゃうけどね。私の事、心配してくれているんだって、わかるから、テキトウに受け流しちゃうけどね。」
最後に舌を出して、少しふざける。この人は、いつもこうやって暗くならないようにする。
だけど私は、わかってしまった。この人は『信用出来ない』人だ。
「泣きたかったら、泣けば良いのに、無理して格好つけて、私の前でもあんな作り笑顔で取り繕って、屋上で、一人で泣いて、自分の担当の患者さんに、心配かけて、本当ダメダメだよね」
舞子さんが、驚いた顔で私を見る。
「だけど舞子さん、言ったよね? どんな人とでも友達になりたいって。私とは友達じゃないの? それとも、私の前では泣けない様な、上辺だけのモノなの? 舞子さんの全力って!」
私はたった今、この人に教えてもらった。友達と全力で向き合う。という事を、例え別れが待っていても、悲しみが待っていても、それにめげずに人と触れ合って行く事の大切さを。
「私はね、自分の病気を言い訳に、逃げていたの。誰かと必要以上に仲良くなっても、すぐにお別れが来てしまうって。でも舞子さんは、決して私を特別扱いしなかった。病人なのに驚かすし、すぐお腹抱えるくらい笑わせるし。他の人にも、そうなんでしょ? 婦長さんに何度も怒られるくらいの人と、仲良くなって、別れて来たんでしょ?」
私の全力が口から溢れ出す。
「もし! 今それだけの友達では無いと言うのなら。私の友達になってください! 全力で向き合えるような友達に」
ピピッピピッ…………さっきの体温計が体温を計り終えた電子的な音を告げる。なんとも間の悪い。
顔が熱とは別に赤くなっていく。
「ぷっ……あははははは」
どちらとも無く吹き出してしまった。二人でしばらく笑った後、舞子さんがポロっと涙を流し始めた。
「あれ、可笑しいのに何だか泣けて来ちゃった」
自分の感情が計り切れないのか、ポロポロ溢れてくる涙に、戸惑っている。
「舞子さん。泣いても良いんだよ?」
ベッドの上から手を広げる。
舞子さんは、すんなり私の腕の中に包まれて、そっと泣いた。
私よりずっと年上なのに、なんだか頼りなく心もとない。そして可愛らしい。舞子さんの新しい一面が見れて、すごく嬉しい気持ちになった。そして最後に舞子さんはこう言ってくれた。
「これからも、友達として、改めてよろしくお願いね。美羽ちゃん」




