少女と看護師と黒猫と
「消灯時間は夜の九時です……」
聞きなれた看護師さんの説明。
どこの病院もほとんど同じ、正直に言うと聞き飽きた。
ふと窓の外を見ると、すごく綺麗な庭が広がっていた。
芝生は丁寧に整えられていて、いくつか置かれたベンチの横には、青葉の生茂る桜の木が、程よい感じの日陰を作っていた。
「……羽さん、九月 美羽さん!」
「はい!」
大きな声で呼ばれて、慌てて返事をする。
「もう、聞いてなかったでしょう?」
若くて、身長が高く、スタイルの良い看護師さんが、むくれた顔で言う。
「あはは~」
ちょっと笑って、私はごまかす。こういうのも、もう慣れた。
「あのね、ここはいつもの病院と違って精神的疾患を抱えた人もいるの。だから人と接する時は慎重にね」
「はーい」
元気良く返事を返す。早くこの人に出て行ってもらいたいから……。
少し表情を緩ませたくて、もう一度、窓の外に目をやる。
そこで私が目にしたのは、鮮やかな緑でもなく、爽やかな青でもなく、眩しいくらいの光でもなく、黒だった……。
鮮やかな緑の上、爽やかな青の下、眩しいくらいの光の中、その黒は穏やかに眠っていた。
「じゃあ後は何かあったら……」
「あっ、あの!!」
何か言っていた看護師さんの声を遮る。
「な、なに?」
あまりの剣幕に怯みながら看護師さんが答えた。
「あそこ! あの一つだけ日当たりの良いベンチの上!」
「なんで、なんで猫がいるんですか!?しかも黒猫!」
あぁ、そのことかと、看護師さんは、慣れた調子で答える。
「うーん、詳しくは、私にもわからないんだけどね。なんだか追い出しても、捕まえようとしても、必ずあそこに帰ってくるんだって」
「それで、いろいろ手を講じたのだけど、お手上げ状態になっちゃって。でも、誰に危害を加えるわけでもなく、あそこに寝ているだけだから、いつしか誰も手を出さなくなったんだってさぁ」
「そ、それでも仮にも病気の人が集まる所に黒猫って……」
「そうね、ココに来た人、みんな驚くわね」
看護師さんが、ニコニコしながら言う。
「何だか、楽しそうですね?」
「うん。だって、今の素のあなたが、あまりに可笑しかったから。でも、さっきの作り笑いしているあなたより、その驚いている顔の方が、よっぽど良いわよ?」
いろんな事を見透かす言葉に、さらに驚かされる。
「あ!まあ、これは必要無いと思うけど、一応あなたは病人なのだから、あの猫には触っちゃダメよ?」
「必要ないって?」
なんだかオカシナ言い回しに、首をかしげて聞く。
「それがね、さっきも言ったように、あの猫。何度も捕まえようとしているのよ。でも、未だ誰一人、あの猫に触れたことが無いの。だから多分、美羽ちゃんも触れすら、しないと思うわ」
「そうなんだ……」
「じゃあ、もう行くわね」
「あ、はい」
「なにかあったら気軽に声をかけてくださいね」
事務的に、でもどこか、おちゃらけて、看護師さんは去って行った。
「いい人なんだなぁ……」
あ、名前聞いてなかった。とか考えながら窓の外の黒猫を眺めた。
「ニャーン……ニャーン……」
「ふう、もうちょっと、愛想良くてもいいのにー」
私は昨日、窓から見た。黒猫の隣に座って、そう呟く。
それにしても、流石、猫が居付くだけの場所。暖かくて心地が良い、風の通りも良い、あまりの気持ち良さに自分が病人である事を、忘れてしまいそうだった。
「うーーーーん」
大きな伸びをしてみる。隣の黒猫は、なんの反応も示さず、眠っている。
「もう、なんか反応しないの!?」
むきになって、言う。
……………………
無視。
「本当は、死んでいるんじゃないでしょうね?」
ふと、昨日の看護師さんの言葉が、蘇る。
(未だ誰一人、あの猫に触れたことが無いの)
そして、好奇心が生まれる。
「よーし」
そーっと、そーっと、手を伸ばす。
ゆっくり、ゆっくり、手を伸ばす。
気配を消して。
そーっと、そーっと、ゆっくり、ゆっくり…………。
パチッ
そんな音が聞こえたような気がする。
それほどの勢いで黒猫は目を開けた。
しばし見つめ合う。
……………………
愛想笑い。
…………
ニコッ
……
ダッ!
そんな漫画の擬音を立てながら、黒猫は走って行ってしまった。
「あーーー」
もう少しで、触れると思ったのになぁ。
「ほらねっ! だから無理って言ったでしょう?」
「うひゃあ!?」
いきなりの声に、驚いて振り向くと、昨日の看護師さんが、ニコニコしながら立っていた。
「そんなに驚かなくても、いいじゃない」
クスクス笑いながら言う。
「だってぇ、全然、気配がしなかったんだもん!絶対…看護師さんだったら、あの猫に触れるって!」
名前を呼ぼうとして、聞いていなかったことに気付く。
「あー! 私の名前。憶えてないなぁ?」
気付かれた。
「えーっと、そんなこと無いですよ!」
また、愛想笑い。
「じゃあ言ってみてよ。」
ニヤニヤしながら問い詰めてくる。
そうだ!胸元の名札を見れば!
そっと目を走らせる。
だけど、看護師さんは胸元にクリップボードを抱えていた。
「ほらぁ、どうしたのぉ?」
もう駄目だと、思ったとき。
クリップボードの横から名札がチラッと見えた。
----小鳥遊----
…………………………
「ごめんなさい。憶えてないです」
降参だった、病院生活も長いし、本は沢山読んでいるし、病室の表の苗字を読んで周った事もあるから、多少、難しい字でも大丈夫だと、思っていたのに・・・。
「まあ、そんなことだろうと思っていました。昨日全然、話聞いていないんだもの」
「だってぇ……」
つまらないんだもん。
「まあ良いわ。私の名前は小鳥遊 舞子! 今度は覚えてね」
ずいっと、身を乗り出して忠告してくる。
「タカナシ マイコさんね。うん、憶えた!」
復唱して答える。
「よろしい! じゃあ次ね」
「へ?」
間抜けな声で答える。
「あなたは病人なのだから、あの猫に触っちゃ駄目って、言ったでしょう?」
「えーっと、だって小鳥遊さんが、触れないって言ったから」
本当に触れなかったし。
「そっか、好奇心を刺激したのがいけなかったのね! ならこれからはおもしろい話は無しにしましょう」
「えーーーーー!」
それは困る。非常に困る。
「だって、またこんな風に、好奇心で動かれたら、大変だもの」
「ごめんなさい!もうしないから!」
泣きつく。“退屈”だけは、本当に耐えられないから。
「うーん、じゃあ一つ。私の名前は下の名前で呼ぶこと! これでさっきの事は冗談にしてあげるわ」
あまりに簡単な提案で、拍子抜けしてしまった。
でも、まあ、これでおもしろい話が聞けるなら、良いだろうと。
「舞子さん」
呼んでみる。
「よろしい! あんまり私の苗字好きじゃないのよねー。それに、下の名前で呼ぶ方が仲良しって感じでいいでしょ?」
またニッコリ笑う。
この人の笑顔は本当に輝いていて、私には少し眩しい。
「で、おもしろい話は?」
「ちょっとぉ、今は友情を確かめ合う所でしょう?」
いつの間に、そんな友情が出来たのだろう?でも、多分この人は嫌いじゃない。
クスッ
「あ! やっと、ちゃんと笑ったね! やっぱりそっちの方が、断然可愛いよ!」
「美羽ちゃんは、せっかく元が良いんだから、それ活かさないと」
…………………………
「そうゆうの、好きな男の人に言ってもらいたかったな」
「あ、生意気~」
舞子さんはまたクスクス笑っている。
でも、私はまた笑えなくなっていた。
「活かす相手なんていないっつーの」
小さくぼやく。
「ねぇ、美羽ちゃん」
急に真面目な顔で、舞子さんが言う。
「おもしろい話が良いって言っていたわよねぇ?」
「う、うん」
なぜか沈んだ声で舞子さんは続ける。
「じゃあこれね……あの黒猫の話……」
「あの猫ちゃんに興味あるでしょう?」
「うん……」
確かに興味はあるけれど……
「なんで、そんな話し方なんです?」
「それは聞いていたらわかるわ」
「あの猫ちゃんにはねぇ、沢山の噂があるの」
「なんせ、誰も触れたことの無いぐらいの猫だからね」
「でね、その中でもとびきりの噂があるの」
「ある看護師の夜勤の時の話なのだけれどね……」
「凄い風と雨の夜、突然、もう長くないって言われていた、おじいさんの所からナースコールが鳴ったの」
「もちろん慌てて、病室へ走って行ったわ」
「だけど、病室の前に着くと、何だか話し声がするの」
「耳を澄まして聞いてみると……」
「やっと迎えに来てくれたのかぁ」
「と、おじいさんの声がするの」
「誰かいるのか、それとも独り言なのか、とりあえず中に入ってみると……」
「ドドーーーン!!」
「うひゃあ!」
急に大声を出すから驚いてしまった。
「ふふっ、意外と恐がりなのね」
「うーーー」
そりゃあ、これからここの病室で生活するのだから、恐いに決まっている。
しかもこっちは病人なのに、こんな風に、驚かしてくるなんて、この人は本当に、看護師さんなのだろうか……
「でね、雷の中。おじいさんに、目を向けるとね、おじいさんが胸を押さえて苦しんでいたの」
「急いで応急処置を施そうとしたけど、もうどうしようもない感じで」
「おじいさんが、とうとう心肺停止状態になっちゃったの」
「その時ね……」
「ミャーオ」
「猫の鳴き声が聞こえて窓の方を見ると……」
「ドドーーーン!!」
…………………………
「あれ? 恐くない?」
「さすがに二回目は……」
苦笑い。
「そっかぁ、でね、窓の外、凄い雨の中、あの黒猫がその病室を見ていたんだって」
「だからね、あの黒猫には、誰もあんまり、近寄りたがらないのよ」
「しかも、あんまりにも、似たような体験をする人が多いから、あの黒猫ちゃんは、死神って呼ばれているんだから」
一通り話しが終わったみたいだった
「ふう。舞子さん、それってさぁ、ここの患者さん達があの猫に近寄らないようにするための作り話でしょう?」
「うわ、冷めた反応……。でも残念ながら、それは無さそうね」
「だって、私はそんな風に聞いた事無いもの」
「舞子さんが、嘘を言っているとしたら?」
少し疑ってみる。
「まあ、それは、美羽ちゃんが信じるしかないわけだけどね」
…………………………
「小鳥遊さーん」
「あ、呼ばれちゃった」
「また、そのうち違う話、してあげるね!」
小さく手を振って、パタパタと行ってしまった。
「ふう」
小さく溜め息をついて、さっき黒猫がいたところを見る。
「わっ!?」
いつのまにか例の死神さんが、座っていた。
「いつの間に戻って来たのさぁ?」
死神さんに、聞いてみる。
無視……。
「まあ、わかっていたけどね」
ふう、っと、もう一度、溜め息を吐く。
「死神かぁ……」
「……じゃあね、美羽ちゃん。また来るからね!」
お母さんが、慌しく去ってゆく。お父さんも、お母さんも、いつも私の治療費の為に、一所懸命になって、働いてくれている。さらにその間を縫って、私に会いに来てくれる。それが嬉しくもあり、申し訳なく思う事もある。
でもそんな事を言えば、お母さんも、お父さんも、悲しそうな顔をするので、私はいつもにこにこ笑う、お母さんのため、お父さんのため、自分のため……。
「ふぅ」
軽くため息を吐いて庭にあるベンチに座る。ここは例の死神さんの指定席……の隣。日当たりが良く本当に気持ち良い。このベンチだけまるで別世界の様で、気分の良い日、天気の良い日はここで読書をするのが、いつの間にか日課になっていた。
「ん~~~~」
読んでいた本を閉じ、軽く伸びをする。
「ねぇねぇ、死神さん」
隣で寝ている黒猫に話しかける。実はこれも密かな日課。
「私の魂はいつ持って行ってくれるの?」
隣で寝ている「死神」さんに、問いかける。
でも、いつも決まって無視。
そのくせ、そっと手を伸ばすと、いつもパチっと目を開け、私を見つめてくる。
「私に触れるな!」
まるで、そんな言葉が聞こえてきそうなほどの、威圧。
でも、そんな雰囲気が、まるで知性のあるような瞳が、行動が、私を今とは違う世界へ連れて行ってくれるような気がして、どうしてもココへ来てしまう。
「美羽ちゃん! あ……九月さん!」
大きな声で名前と、苗字を呼ばれる。どうやらここ最近気付いたのだけど、他の看護師さん。(特に婦長さん)の前では、苗字で呼ばないと怒られてしまうようだ。
舞子さんは、慌ててこちらに小走りで寄ってきて。
「そろそろ冷えてきたから、お部屋に戻りましょうね。美羽ちゃん!」
耳元で、そう囁かれる、どうして、この人は怒られてまで名前で呼ぶことに、こだわるのだろう?死神さんと同じくらい謎が多い。看護師さんなのに、人を驚かすのが好きだし。すごく無邪気だと思ったら急に大人びた事を言ってみたり、とにかく掴みどころが無い。今まで出会ってきた大人とは、どこか違っていて、私はなんとなく、この人にも惹かれていた。
もちろん本人には内緒だけど……。
「死神さん、違うお迎えが来ちゃったよ」
舞子さんの大声にも微動だにせず。お昼寝中の死神さんに、ちょっとふざけてそんな事を言ってみる。
「美羽ちゃん!!」
突然大きな声で、名前を呼ばれて振り返る。
「冗談でもそんな事言わないで。」
いたって真剣な“大人な舞子さん”がそこにいた。この寂しそうな目と、私の心を見透かす様な態度の取り方は、正直、苦手だ。
「ご、ゴメンナサイ……」
萎縮して、なんだか片言になり。うつむいて、謝罪の言葉を呟いた。
異変に気付いたのか、舞子さんは慌てている。
「あ、急に大声出してごめんなさい、でも、もう二度と、さっきみたいな事は言わないで」
急にかしこまって、すごく悲しそうな目でそんな事を言われ。なんだかすごく申し訳ない気持ちになってくる。
「ごめんなさい」
もう一度しっかり謝る。
この人にはきっと、いつもの、お愛想笑いや、嘘の謝りは通用しない。そう思わせる何かが、舞子さんにはあった。
「はい、約束ね。さ、お部屋に戻りましょう。お姫様」
急に冗談めいて、まるで王子様の様な振る舞いで、手を出してくる。
そっと顔をうかがうと、さっきの真剣な顔は何処へ行ったのか、いつものニコニコした屈託の無い、無邪気な、少し眩しい笑顔だった。
私は舞子さんの手を、そっと取り、立ち上がる。
「ばいばい、死神さん」
いつもの部屋の、いつものベッドへ戻る。私にとっては、もっとも悲しい時間。寂しいような、虚しいような、なんだかどうしようもない絶望感。まるで、楽しい夢から覚めてしまったような、名残おしい感覚。
それを察してなのか、舞子さんは、いつも手を繋いで病室まで連れてきてくれる。私は、『子供みたいで恥ずかしいから嫌だ』と、言ったのに。いつも、私が死神さんの隣に居る時は、夜勤明けの日でも、まるで友達を心配する様な、そんな真剣さで、私を迎えに来る。時には怒り、時には笑う。まだ出会って、一月程度なのに、私はこの人のいろんな所を見てきた気がする。
そして、いつもの、腫れ物に触るような、少し距離を置いた、看護師さん達とは違う何かを感じ。この人の前では、自然な自分で居られるような気がした。
でも、すぐにこの時は終わる。いつものベッドに戻り、お互いが日常に戻る時……。
「さっきは怒鳴ったりしてごめんね」
私をベッドに座らせ舞子さんがシュンとして謝る。まるで友達に謝るように。少し気恥ずかしそうに、照れくさそうに、それでいて本当に申し訳無さそうに……。舞子さんは、私の事を叱ってくれたのに。
「そんな、私が変な冗談言ったから、悪いんだよね? 舞子さんは……その、あの、私の事、想って言ってくれたんだよね? だから、そんな……謝らないで! その……あと……あ、ありがとう……」
本当に恥ずかしかった。本当のありがとう。を、言う事がこんなに恥ずかしいなんて思いもしなかった。それでも、この人にはちゃんと伝えなきゃいけないって不思議と思えた。
「ぷっくくくくく、あははははははは」
シュンとうつむいていた舞子さんが、突然大笑いしだした。
「ちょっ、な、なんで笑うの!?」
真剣に謝ったのに、なんで!? 心の中が混乱して、気恥ずかしさとあいまって顔がどんどん火照ってゆく。
「だって、美羽ちゃんがいつになく、しおらしいから何か、可笑しくって」
「な、しおらしかったのは舞子さんの方でしょ! いつになく真剣に謝るから。なんかこっちが申し訳なくなって……。もー、なんなのー!」
笑い続ける舞子さんに、批難の声を上げる。
「ごめん、ごめん。何かしおらしい美羽ちゃんって、可愛くっていつもとのギャップがね……くくくくく」
まだ笑っている。
「もー、仕事あるんでしょ! 早く行ってよ!」
布団を被って。きっと真っ赤になっている顔を、隠す。
「ごめんって! あれー今の台詞でぐっとクる。はずなんだけどなー」
「もーほれは、おほこのひほにまいこはんあ、いはれて、ぐっとくるこほでしょ!」(もー。それは、男の人に舞子さんが言われて、ぐっとクる事でしょ!)
布団の中で、くぐもった抗議の声を上げる。
「美羽ちゃんはこういうのはダメかー。じゃ、また新しいのを考えないと」
「次にあったら覚えとけよー!」
三流の捨て台詞を残して、嵐の様な人は、去っていった。やっぱり舞子さんは掴みどころが無い……。でも、必ず別れ際を寂しくしない。決してさよならをしない。いつ居なくなってもおかしく無い私に、「また」と言ってくれる。その優しさと、嵐が過ぎ去った後の静けさに、私は久々に泣いてしまった。