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おばさん、異世界召喚に巻き込まれる。

作者: 猫野沙子
掲載日:2026/05/24

カクヨム様にも掲載しています。


異世界召喚に巻き込まれたおばさんと少女の物語。



 久しぶりに駅前をぶらついていた。今日は会社の健康診断だった。丁度暇な時期に当たっていたから午後から有給を取って、ゆっくりウィンドウショッピングを楽しんでいた。

 独り身だしこれと言って趣味もないけれど、そう言えばしばらく紙の本を読んでいない。ふと思い立って、本屋に向かうことにした。

 ファーストフード店の前でスマホを見ている女子高生が立っていた。ふっ、と女子高生が顔を上げてこちらを見た。ジロジロ見ていたわけじゃないけど、視線を感じたのかしら?

「きゃー!」

 突然、女子高生が悲鳴を上げた。おばさん不審者じゃないよ?!変な格好もしてないと思う。地味なだけで。

 私の背後からも悲鳴と怒号が聞こえた。ぱっと振り返ろうとしたら、その前に背中に衝撃があった。熱いのか痛いのかよく分からなかったけど、私はそのまま女子高生に向かって倒れ込んでいった。その時、眩しい光を感じながら意識を失った。



 気がついたら青白く複雑な文様がぼんやりと光る冷たい床の上にいた。隣には先ほどの女子高生が立っていた。思わず顔を見合わせる。

「聖女召喚は成功した!」

 渋い声がそう宣言したが私は疑問符で頭の中がいっぱいだ。声がした方を見ると、白いローブをまとった人たちが10人ほど立っていた。他にも刺繍がたくさん入った服を着ている男性が2人いて、こちらは豪華な椅子に座っていた。

「異物はいかがいたしますか?」

「辺境に捨て置け。無理に消して聖女様に影響が出たら困るからな」

 私はもう一度女子高生と顔を見合わせた。女子高生はスゥっと目を細めて、

「異物ってこのおばさん?」

と白いローブの集団に聞いた。

「聖女様!今すぐ目障りな異物を処分いたします」

 私はあれよあれよと言う間に、辺境に追放された。



 アース村長は連れてこられた異世界人のおばさんをひとまず自宅に案内するしかなかった。アース村長は寡夫やもめで、一人息子は冒険者になるんだと村を出ていた。この村でも十分に冒険者をやれるが、若者はやはり都会にでたがるものなのだ。

「名は?」

「ひとみって言うの。よろしくね」

 にこにことしてひとみは自己紹介をすると、

「ここに連れてきてくれた冒険者のキャサリンとダンに少しはこの世界の事教えてもらったんだけど、わからないことがたくさんあると思うから面倒かけると思うわ」

と言って、アハハと笑った。

 息子が使っていた部屋に案内した。扉を開けるとあまり掃除をしていなかったせいで埃っぽい。

「箒と雑巾あるかしら?」

「あ、あぁ······」

「窓はどうやって開ける仕組み?」

 気まずい顔のアース村長に、ひとみは特に気にするでもなく聞いた。アース村長が窓を開けてみせると「へえ、昔の実家みたい」とつぶやいた。

「水は井戸?」

「それもあるし、魔法で出したりもする」

「一応、冒険者キャサリンに教えてもらったんだけど、まだ魔法を使うのは不安なの」

「なら、井戸の方がいいな」 

「井戸の場所、教えて?井戸は釣瓶式かしら?」

 ひとみはアース村長にあれこれ聞きながら、掃除をし、夕飯を共に作った。

 アース村長は、夕飯を共にしながらひとみの話を聞いた。彼女がいた世界はこちらより魔道具のようなものが発展していて、とても便利だと言う。けれど、ひとみはこちらの世界の不満を口に出さなかった。

「『住めば都』って言葉が向こうの世界にあるの。どんなとこだって住んでるうちに良く感じるものよ」

そう言ってひとみは笑った。

 次の日、ひとみはアース村長の家の敷地にある小屋に目を留めて、

「あれは倉庫?」

と聞いてきた。

「いや、あれは俺の親父が使ってた作業小屋だ。昔は農閑期に皿なんかを親父は作って売ってたんだ」

「あの小屋に住まわせてくれない?」

「息子の部屋以上に手を入れてない。危ないぞ」

「平気よ。スキルあるから」

「スキル持ちなのか?」

「うん。CADオペと建設ってのがあるの。あの小屋を改装して住めるようにできるはず。」

 ひとみは宣言通り1週間程で小屋を改装して、小屋に住み始めた。




 また夜中に目が覚めてしまった。寝汗でべっとりと濡れた肌に髪の毛が纏わりついて不快だ。

 聖女になった少女は天蓋付きの大きなベッドから身を起こすと、覚えていない夢に苛立たしさを感じた。怖い夢だとは思うが、激しい動悸と寝汗だけが夢の名残で内容は一切覚えていなかった。

 ベルを鳴らすとメイドがやってきて、汗をかいた少女に

「聖女様、汗をお拭きします。お召し物も変えましょう」

と言って手際よく準備をし、少女の身なりを整えてくれ一礼して去った。

(聖女になっても嫌な夢って見るのね)

 ベッドに横になったものの、目が冴えぼんやりと考える。異世界に来てから不自由はしていない。この世界の神様に祈りを捧げてさえいればいい。

 それに祈りを捧げれば、美味しいご飯をだしてもらえるし、綺麗なドレスを仕立てたり、アクセサリーを買ったりもできる。満足だ。

(でも本当に······?なんか変。でも、分かんない)

 頭も心ももやもやしているが、それすらも長く続かない。いつの間にか忘れてしまう。

(そう言えば、何でおばさん追い出しちゃったんだろう?別に追放しなくたって良かった気がする)

 人の良さそうなおばさんだったが、面識はない。

(あたしが召喚された時———。······ええっと、何だっけ?)

 思い出そうとするが像を結ばず、聖女になった少女は疑問も長く保たずにぼんやりとする思考のまま天蓋を見つめる。そのうちにうつらうつらして、まぶたが落ちてくる。

(あ、また······)

 どこからか青い光が入ってきて、少女の身体に吸い込まれるように消えていく。こっちの世界に来てからだ。時計もないこの部屋では時間も分からないが、夜更けまで起きていると必ずこの光がやってくるのを見る。

(何なんだろう?)

 この光を見ると誰かに聞きたいと思うものの、疑問は長く覚えていられず忘れてしまうから、これを知っているのは少女だけだった。




 このシュトロー村にやって来たひとみという異世界人は、村長から紹介された。彼女は俺たちハーフドワーフの輪にすぐに溶け込んだ。

 俺たちハーフドワーフというものは、純粋なドワーフほど鍛冶に適性がない者が多い。俺もそうだ。別な仕事ももちろんあるが、特に親が高名な鍛冶師だと里に居づらいものなのだ。

 そんな奴らがシュトロー村で細々鍛冶や何やらやって暮らしている。作ったものは村に安く提供し、修理は無料。その代わり近くの山で採れる鉱石は俺たちが採掘し、自由に使える。元々はシュトロー村の人たちが自分達用に使っていた小さな鉱山だから出来ることだ。

 ひとみはスキルが職人向きで、こちらも助かることも多かった。特に”きゃどおぺ”はすごい。ひとみはフリーハンドで驚くほど精密な図面が引けるのだ。建設というスキルはまだLvが1しかないため、日曜大工程度らしいがそれで充分だとひとみは笑った。

 


 「聖女様」と言われて、聖女として少女は今日もこの世界の神に祈りを捧げる。

 ”祈りの間”として案内される部屋の床には大きな魔法陣が描かれており、その中心に椅子がポツンと置いてある。四方の壁も天井も真っ白で、椅子の正面の壁には壁龕が設けられている。壁龕は上部が半円の縦長で、これまた白い女神像が置いてある。この部屋はどこまでも無機質で、祈りの間としての神聖さも荘厳さもない。女神像までも無機質だ。

 祈りを捧げると、椅子の周りの複雑な文様が白い硬質な光を纏い始める。少女の魔力で魔法陣全体が光り満たされるまでこの部屋を出ることは出来ない。最近は、最後は自分が起きているのかどこにいるのか分からなくなるくらい疲れ果てる頃に終わるのだ。

 けれど、少女はいつもいつの間にかこの事を忘れてしまう。疲れた体を引きずるようにあてがわれている部屋に戻る。護衛とメイドが付き添って戻るが手を貸してもらったことはないし、その事に違和感も抱けない。

 部屋は大きな天蓋付きのベッドに簡素なドレッサーと使われることはないであろう応接セットが置いてある。仕立てた、宝石が縫い留められてキラキラした派手な赤いドレスをマネキンに着せて飾ってある。気に入っているはずなのに、見ると気持ちが何故かもやもやとしてしまう。

 祈り疲れた体を湯船に沈めた。風呂だけはどうしても恥ずかしくて1人だ。この世界で毎日湯に浸かるのがどれ程贅沢か少女には分からない。魔法があるとは言え、平民は湯船に湯をためられるほど魔力が続くものが滅多にいない。

 風呂から上がればメイドが髪を乾かしたり、肌の手入れをしてくれる。

 それから夕飯だ。最高の食材を一流の調理人が丹精込めて作った料理は華やかで味も美味しい。けど食べながらふと、もっと素朴な、そう、マ······———このお肉柔らかくて美味しい!また食べたいな。デザートは何かな?

 ひどくぼやけた記憶の向こう側で、夕飯のおかずを味見と称してつまみ食いした時に「静琉しずるは食いしん坊ね」と優しく微笑んだママ(ヒト)の事も自分の名前も少女が思い出すことはなかった。

 


 ひとみはよく笑う。

 アース村長が朝会えば笑顔でおはようと言い、村の農作業やハーフドワーフの手伝いをして日銭を稼ぐ。働いているところを見かけるといつもにこにこと働いている。

 ひとみがこの村に来て3ヶ月。すっかり村になじんでいる。

 この前は異世界草で”こーひー”なるものを淹れてくれた。異世界草はその名の通り、その昔召喚された聖女が持っていた異世界の種から増えたものだ。

「まさかこっちに異世界草タンポポが生えてるとは思わなかったわ。たくましいわね」

と笑っていた。

 そんな明るくバイタリティに溢れているはずのひとみは、存在感がひどく薄かった。村人がよく、すぐそばにいるのに「ひとみ、どこ行った?」などと言われているのに気がついた。

「何でだ?」

 単純な疑問。アース村長はひとみがどこにいるかすぐに分かる。ひとみはよく働くし、よく笑うからだ。皆の中心にいても違和感がないくらいだ。けれど、気がつくと端にいる。特に気を使って端にいる様子もない。

「ひとみは存在感が薄いな」

だから、ひとみに冗談めかしてそういった時、ひとみがほんの少し動揺したように見えて、アース村長は違和感を覚えた。

「昔からよ」

 明るい声をひとみは上げる。どこか虚勢を張っているように見えるひとみに、それ以上アース村長は踏み込むことができなかった。



 ひとみが自分自身に違和感を持ったのはシュトロー村に来て、ひと月ほど経ってからだった。

 ひとみは農作業の手伝いをしても、どこも痛くならなかった。向こうの世界で草むしりをすれば、しゃがんでいるのが辛く腰も痛くなったはずなのに、異世界に来てからはそんなことにはならなかった。運動嫌いなのに、筋肉痛すらなかった。

 視力に至っては若い頃より良いくらいだ。近眼も乱視もない。この世界は月がなく星空だけなのだが、降るような星がとてもきれいに見える。

 最初のうちは、異世界に来た特典のようなものだと思っていた。

(でも多分、私死んでるよね。転移に巻き込まれる直前に刺されたはずだし)

 眠気すら訪れないと気づいたのはいつだろう?思いの外冷静に現状を受け入れている。もう村の中は真っ暗で、星だけがチカチカと瞬いている。

(この世に一人きりでいるみたい)

 この世界にはモンスターがいる。この村に来る途中、初めてモンスターを見た。冒険者のキャサリンとダンは事もなげに倒してしまったが、ひとみには衝撃的だった。元の世界ではゲーム画面の向こう側にいるモンスターが目の前にいたのだから。

 村はモンスターが入り込めない結界があると言う。だから夜は夜行性の動物の鳴き声や気配が少しあるだけで、とても静かだ。

(私はモンスターではない。じゃあ、私は一体何なんだろう) 

 ひとみの身体から青い光が揺らめきながら立ち昇り、夜空にふわりと浮かぶといつも決まった方向に流れてゆく。

(———光、少し減ったな)

 この村に来て半年。違和感は確信に変わり、自身に終わりが近づくのを静かにひとみは見つめていた。



 ———悲鳴が聞こえた気がして、顔を上げた。通りかかったおばさんの後ろに、キャップを目深に被ってナイフを振り上げた人。思わず悲鳴を上げる。おばさんは悲鳴を上げた私をぽかんと見つめて、それから振り返ろうとして、刺された。おばさんは私のほうに向かって倒れかかる。私の足元から眩しい青白い光があふれ出して、おばさんが動けないままの私に倒れ込んできた。背中にはナイフが刺さったままだった。私は声の続く限り悲鳴を上げ続けた———

「······夢」

 寝汗がすごい。けれど、ようやく悪夢の正体が分かった。

(刺されてたのあの追放しちゃったおばさんだったな。知らない場所だったし、何でこんな夢見るの?)

 少女は召喚直前の事も思い出せず、トラウマから繰り返し通り魔の凶行を夢に見ている事に気付けなかった。いつものようにベルを鳴らしてメイドを呼ぶ。

(あのおばさん、元気かな······?何であんな事言っちゃったんだろう······)

 メイドはやってくると、慣れた手つきで少女の身なりを整え、一礼して去っていった。

 少女は自分自身のせいで追放されてしまったおばさんのことに罪悪感を抱きつつ、ベッドに潜り込んだ。その時、ふわりと青い光がやってきて、また少女の身体に吸い込まれるように消えた。

(またあの光だ。何なんだろう?明日メイドさんに聞いてみようかな······。それとも私、疲れてるのかな?体調はどうなんだろう?)


”体力:中、魔力:低、状態異常:記憶操作(一部解除)、思考阻害、思考誘導”


(えっ?何、今の)

 頭の中に現れた表示の内容に、聖女はベッドの中で息を殺して震えた。そうすると、フッと表示は消えた。

(も、もう一度。私の体調は?)


”体力:中、魔力:低、状態異常:記憶操作(一部解除)、思考阻害(一部解除)、思考誘導(一部解除)”


 少し表示が変わった。

(私、何かされてる?記憶操作って何よ?!)


”記憶操作:対象者の記憶の一部を改ざん、あるいは思い出せないようにする。禁呪の一種”


 少女はゾクリと身を震わせた。それから突然、

(私の名前……なんだっけ?)

と、ようやく自分自身の名前すら思い出せないのに何の違和感も抱いていないことに気が付いた。



 ハーフドワーフたちはひとみの提案で、剣のセミカスタマイズ品を作ってみた。持ち手と刃を手始めに3種類ずつ作り、購入者の希望で組み合わせを決めるのだ。すぐ持ち帰れるのと、オーダー品と違って規格品で価格を抑えられるため、村に来る冒険者にもまずまずの好感触だった。

 それ以外に、リバーシと言う玩具を作った。ひとみは自ら木を加工して何セットか作ると、村の子どもたちにプレゼントして遊び方を教えた。また、ハーフドワーフたちが作ったものは村にやってきた冒険者たちに遊ばせて、こちらは欲しがったら売った。

 子どもから大人にも面白さが伝わり、シュトロー村で年に2回リバーシ大会が開かれるようになるのはもう少し先の話である。

 その頃にはセミカスタマイズの剣も軌道に乗っており、剣以外のものもセミカスタマイズの品を提供するようになった。

 やがてハーフドワーフたちの一部は故郷に帰り、このセミカスタマイズを広げていくこととなる。



 アース村長は夜中に目が覚めてしまった。年だな、と苦笑してしまう。今夜はすっかり目が覚めてしまい、喉の渇きも覚えた。

「ふう」

ため息をつきながら起きると、台所へ行った。

 コップに魔法で水を注ぎ入れて飲み干し、もう一度寝ようと寝室に戻りかけ、今はひとみが住んでいる小屋の外に明かりがあるのを見つけた。

「こんな時間に明かり?」

 アース村長はひとみだろうと思いつつも、こんな夜更けに何をしているのか、何か悩みでもあって眠れていないのかと気になった。しばらく逡巡していたが、明かりが消えないので思い切って行ってみることにした。

 ひとみは椅子に腰かけてぼんやりと夜空を見上げていた。ひとみは村の裁縫上手に頼んで仕立ててもらった部屋着を着ていた。普段は一つに括られている髪の毛は降ろされており、案外髪が長いのだなと村長は思った。

「ひとみ、まだ起きていたのか?」

 低く驚かせないように声をかけると、ひとみはゆっくりと振り返って村長を見た。髪を下したひとみは普段と違ってほのかな大人の色気をまとっており、村長の鼓動を早くさせるのに十分な効果があった。

「もうそろそろ寝ようと思ってたのよ」

 にこにこと笑う。普段と違う印象のひとみの笑みに村長はドギマギしてしまうが、努めて顔に出さないようにした。

「ねえ。星がきれいね」

ひとみは夜空を見上げて、そう言った。村長は空ではなくそう言ったひとみを見つめた。昼間とは違って、空に吸い込まれて消えてしまいそうに見えるひとみの儚さに、村長はひどく動揺した。

「あぁ……そうだな」

そう答えるのが精一杯だった。

「この世界に月がないのは残念だわ」

「月?」

「そう。星みたいに夜空に浮かぶのよ。丸くて淡い黄色で———」

「ひとみっ!?」

 ひとみの身体から青い燐光がゆらりゆらりと立ちのぼる。幻想的で神秘的で、とても恐ろしかった。ひとみの姿が少し透けて見えて揺らぐ。思わずアース村長が手を伸ばしかけた時、燐光がひとみの体から抜け出るように空へ立ち上り、王都の方へ流れて行った。

「―――ばれちゃった」

 クスクスとひとみは笑ってあっけらかんとして言ったが、目の奥の動揺は隠しきれていなかった。

「安心して?モンスターじゃないから。私も自分が何なのかよく分からないのよ」

「体は何ともないのか?」

 アース村長の心配そうな顔いろを見て、ひとみは嬉しそうな、悲しそうな複雑な微笑を見せた。



 ———キャサリン、この世界の事教えて?魔法があるの?!すごいわぁ。私にも使えるかしら?え、使えるの?ホント?やってみるね。分かったわ。イメージが大事なのね。じゃあ、明かりを出してみるわ。これは読書ライトくらいかな。ほら、調光も出来るの。すごい?そうなの?この年で褒められると嬉しいのよ。だって、褒めてくれる人なんていないもの。

 ———静琉、起きて。いつまで寝ているの!学校に遅れるわよ?

 夢を、見た。

(いいえ、夢じゃない。きっと記憶だ。私と·····おばさんの。あの声、ママの声だ)

「ステータス」

 ベッドの中で小声で唱えると、聖女になった少女・静琉の頭の中に自分のステータスが表示される。

(スキルは鑑定だけで変わらないわね。特殊スキルは······)

 特殊スキル:魂の欠片(20/100%)

 唇を噛む。徐々に自分を取り戻してきた静琉は、ぼんやりした演技をしながらここを抜け出す方法を考えていた。あのおばさん(ひとみ)のところへ行って、謝って、一緒に逃げようと思った。

 けれど。

 ”魂の欠片”と言うスキルを鑑定して、静琉はショックのあまり泣いた。


 魂の欠片:一度だけ異世界人”ひとみ”を召喚出来る。魂の欠片が消費されると消える。消費された魂の欠片は召喚者《静琉》に吸収され、魂が統合される。


(もうあまり時間はない。ひとみさんと話す事も出来そうにない。どうする?)

 胸が痛み、勝手に涙が溢れるのもそのままに、静琉は考える。

(さっきの夢。ひとみさんの記憶ならもしかして、私にも魔法が使える?試してみよう)

「ライト」

 小声で呟く。出来るだけ暗い明かりをイメージして、布団の中で試してみた。小学生の頃に実験で灯した豆電球ほどの明かりが灯った。

「出来た······」

 イメージが大事だと言っていた。多分、魔力もたくさん必要だ。

(あの魔法陣も鑑定してみよう)

 静琉はそう決意すると、流れる涙をそのままに静かに目を閉じた。



 もう、終わりなのかな。ひとみは夜空を見上げる。満天の星空は息を呑むほど美しく、夜風がひとみの頬を撫でていく。

(後悔ばかりの人生だったけど、ここでは少しだけ前向きに生きられたかな)

 元の世界では流されるように生きていた。選択を間違えたと何度思っただろう。けれど、選んだのは自分だ。後悔はあるけど、選んだ人生の中で好きなように生きてきたと思えば、そう悪くはないだろう。ちゃんと生活できていたし、道に外れるような事もしていなかったのだから。

「眠れないのか?」

 またアース村長がやって来た。ひとみの異変をみても、村長は態度を変えなかった。むしろこうやっていると、アース村長が度々来るようになった。

 心配してくれる人がいるというだけで、心が温かくなる。ひとみは異世界に来て良かったかもしれないと思った。例え偽りの命で消えゆくだけだとしても。

「ええ。村長は寝なくて大丈夫なの?」

「あぁ」

 村長も隣で夜空を見上げる。今夜も星がきれいだ。とても、綺麗だ。



 静琉は数日かけて魔法を駆使しながら、今いる場所や魔法陣を調べた。

 メイドに魔力糸を絡ませて、他のメイドたちとの会話からここが王宮の中の離宮の一つだと知れた。ここに普段いるのは静琉と静琉を世話する者たちだけらしい。

 メイドと護衛の会話から、離宮の外は厳重な警備が敷かれているのが分かった。

 肝心の魔法陣は魔力を魔石に溜めるためのものだった。魔石はあの”祈りの間”にはなかったから、魔法陣を通じて別な場所にある魔石に溜めている可能性が高かった。

(魔力は奪われるだけ。ためてある魔力がどこにあるのか分からない。そうだ。出来るか分からないけど、魔力にマーキングしてみる?バレちゃうかな。でも、やるしかない。最悪はどこかに転移してしまえばいい)

 静琉はそう決めた。魔力にマーキングを施すのをこっそり練習してから、魔法陣にマーキングした魔力を流した。

 バレるかと怖かったが、幸いバレることはなかった。マーキングした魔力を探すと、どうやら”祈りの間”の下に地下があり、そこで魔力を溜めているようだった。

(———ひとみさんはあと5%しかない。たくさん魔力があったら元の世界まで転移できるかな?)


 静琉がベッドで脱出に向けて考えていると、普段より濃い色の青い光がやって来た。いつものように身体に吸い込まれていく。

「ぁああああああ!!!!!」

 青い光が身体に吸い込まれた瞬間、ひとみの人生が一気に静琉の中になだれ込んで来て、処理能力を越えた脳が、心が、身体が悲鳴を上げる。

 静琉は鼻血が出ていることも、メイドと護衛が慌てて部屋に入ってきたことも分からないまま気絶した。



「これで大丈夫かな」

 ひとみは小屋の中を見回した。キッチンスペースに作りつけた棚には、村長からもらったマグカップに村人から譲ってもらったお皿、ハーフドワーフの人たちがくれたカトラリー類。裁縫上手な村人と一緒に作った刺しゅう入りランチョンマットがしまわれている。

 ひとみはマグカップに視線を止めると、棚からそっと取り出して両手で包み込むように持った。それから、またそっと元の場所に戻すと、小さくため息をついた。

 服はさほどないが、ベッド下収納に冒険者キャサリンが買ってくれた服や村人に作ってもらった服、それに自分で初めて異世界で買った服が仕舞われている。

 今は異世界に来た時に着ていた細身の黒いスラックスとチュニックブラウス姿だ。バッグはなかったから、多分、刺されたときに落としたのだろう。

(死んでるって気が付いて、受け入れてたと思ってたけど……。いざとなるとやっぱり怖いわね)

 ベッドに腰を下ろして、手をぎゅっと握る。少し震えているのが自分でもわかる。

 ひとみは静かに消えることを決めていた。泣き喚いたって消えるのは変わらない。なら、笑ってる顔をみんなの記憶に残したいと思った。

 言葉も残さない。いや、残せなかった。だって、泣いてしまうから。話したら泣いてしまうし、手紙を書いたら涙が落ちて文字がにじんでしまうだろう。

 それに、村長に言葉を残そうとしたらきっと彼を縛ってしまう言葉を吐き出してしまいそうだから。

(私は自由に生きてきた。だから、誰の人生も縛りたくない)

 忘れられていいと思いながらも、忘れてほしくないという願望。消えかけているのに、達観できない自分に嫌気がさす。

(なんで私はこんなに醜いのだろう。こんな気持ちは知られたくない。消えそうだっていうのに)

 ひとみはいつの間にか涙を流していた。本当は消えたくない。けれど。

(光が·····)

 青い光が立ちのぼる。今までにないほど濃密な光が立ちのぼり始めると、ひとみの体がゆっくりと消えてゆく。ひとみは恐怖と闘いながら、声を出さないように口を手で押さえる。

(痛いわけじゃない。大丈夫。大丈夫だから······。どうしよう。こんな時に村長が来たら······)

 死への恐怖と光に気づいた村長がやってきてしまうかもしれない焦りがひとみの心を乱した。

(どうか村中の人が穏やかに眠りますように。明日の朝までおきませんように······!)

 ひとみの必死の祈りが魔法となって村中を覆った。ひとみが消えた夜は、誰も彼も心地よい眠りが朝まで続いた。

 半分以上消えかけたひとみは、

(みんな私を受け入れてくれてありがとう。アース村———)

 一気に”ひとみ”が消えた。

 一際青い光が夜空に舞い上がり、幻想的な光を放ちながら王都の方に流れていくのを誰も気が付かなかった。



 目を覚ますと、メイドが珍しくベッドサイドに椅子を置いて座っていた。静琉が目を覚ましたのに気づくと、慌てて出ていった。

(何で———あぁ、思い出した。ひとみさんの記憶が······)

 つまり、そう言う事だ。静琉は冷静に状況を把握しようと、手っ取り早く魔力糸を伸ばした。

(私はひとみさんが消えるのに間に合わなかったのね。直接謝れなかったんだ······)

 気落ちして涙ぐみながらも、聞こえる声に集中する。メイドは医者を呼びに行ったようだ。どうやら3日ほど寝ていたらしい。

 静琉の中でひとみの記憶の受け入れと、ひとみの魂の欠片の統合にそれだけの時間がかかったのだ。

(ひとみさん、巻き込んでごめんなさい。追い出しちゃってごめんなさい。私のせいで、魂の欠片になっちゃったんだよね。怖い思いをこっちの世界に来てからもしたなんて、本当にごめんなさい)

 静琉は自分の中にいるであろうひとみに謝った。返事はない。自己満足だ。唯一の救いはひとみが静琉に対して悪感情を持ってなかったことだ。

(ひとみさん、今度は私があなたを助けます。だから、力を———ひとみさんを利用させてもらいます)


 医者の許可が出ると、さっそく静琉は”祈りの間”へ導かれた。もう静琉は完全に状態異常を脱しているため、演技を続けるのも難しく認識阻害と変貌の魔法を駆使して、周囲からはぼんやりしているように見せかけた。必要以上に喋らなければこれで問題ない。

 ひとみの魂が統合されたおかげで、ひとみが持っていた”CADオペ”と”建設”のスキルが静琉も使えるようになっていた。特に”CADオペ”は魔力糸を組み合わせればいろいろと出来そうだった。

 静琉は”祈りの間”で一人になると早速CADオペと鑑定スキルを利用して、魔法陣をより詳細に鑑定して魔法陣の構造を理解していった。不自然にならないように少しずつ根気よく続けた。

 魔力を捧げ終わって寝るまでの間は、くたくたになった体を励まして離宮の中を探った。そのうちに図書室らしい空間を見つけたので、隠蔽魔法で身を隠してこっそり確認しに行った。

(やっぱり図書室だ。文字は魔法陣の文字も読めるから多分、読めるはず)

 悠長に目的の本を探すことは出来ないが、この世界の本は背表紙に凹凸がある空押しの技法が使われていた。

(CADオペ優秀。魔力糸と一緒に使えば、この背表紙の題名なら読み取れる)

 静琉は魔法陣について書かれていそうな本を魔力糸で見つけると、こっそり図書室に行ってその本を持ち出しては読んだ。CADオペと鑑定で解析した”祈りの間”の魔法陣と照らし合わせて、より深く理解していく。

 そうして半年が過ぎようとした頃、静琉は”祈りの間”の魔法陣を書き換える準備を終えた。

(後は召喚用の魔法陣だ)

 図書室の一角に隠し部屋を見つけたのはその少し後だった。CADオペと魔力糸を駆使して構造を探り、隠し扉の開け方を鑑定で解析した。その前に侵入させた魔力糸で、召喚用魔法陣について書かれた本をその中で見つけていた。

 ある夜、静琉は痛いほど鼓動が早くなった心臓をなだめながら隠し扉を開けた。うまくいくか分からなかっただけに、開いた時はほっとした。そこからはいつも通り本を持ち出して読み、召喚用の魔法陣を転移用の魔法陣に書き換えるため試行錯誤を繰り返した。

 そうして、1年が経とうという頃に、静琉はついに計画を実行に移した。

 ”祈りの間”で一人になると、出入り口に障壁を張ってから、”祈りの間”の魔法陣を魔力糸とCADオペで書き換えた。魔力の奔流は静琉の予想よりずっと激しく、転移の魔法陣を魔力糸で展開させるのに手間取った。

 出入り口の外側から騒ぐ声や扉を打ち据える音などが響いていたが、静琉はそれに気づく余裕もなかった。

 ようやく転移用の魔法陣の展開を終え、その身になだれ込んでいた魔力を流してやると、黒い光が激しく渦巻いた。チラリと神官らしき人たちの姿が出入り口から見えたが、すぐに視界は暗転した。

 一瞬の間があり、ハっと気がつくと目の前にはひとみ、背後には通り魔がナイフを振り上げていた。静琉は躊躇なくひとみの手を掴んで引き寄せた。

 通り魔の凶刃はひとみの肩を切り裂き、次いで静琉の腹に吸い込まれた。

「カハッ!」

 静琉はそのまま闇に呑まれていった。



 ”静琉”はとっさに腹を刺されたもう一人の静琉に回復魔法をかけた。だが傷が深くて、なかなか塞がらない。

「大丈夫ですか?!」

「救急ですか?!人が刺されたっ!」

「あなたもケガしてますよ!」

 周囲の人たちの声で、少し冷静になった。聞き慣れた、だけど懐かしい日本語。

「大丈夫です。でも———」

 救急車のサイレンが近づいて来る。唐突に気がついた。そうだ。ここは日本だ。元の世界だ。よく分からないけど、戻れたんだ。なら———

(”刺された私”の致命傷は回避出来た。後は救急隊員に引き渡すまでうまくコントロールしないと)

 腹を刺されて意識を失っている静琉が失血死してしまわないように、”静琉”は魔力糸で静琉の体内を探り、鑑定で傷の状態を見て傷ついた太い血管をいくつか治したところに、救急隊員が駆けつけて静琉に応急処置をした。次いで”静琉”も肩の手当てを受け、後続の救急車で病院に運ばれた。


 ”静琉”は病院のトイレで鏡を見た。見慣れないパンプスに黒い細身のスラックス。それに”静琉”の年代では着ないようなデザインのチュニックブラウス。違和感が確信に変わる。


 ”静琉”はひとみだった。


 静琉ひとみは病院でいくらか落ち着くと、ちゃんとひとみの記憶がある事に気がついた。何故か魔法もスキルもそのまま使える。

 その後、病院の一室を借りての警察からの事情聴取を受けたり、静琉ひとみの会社に事情説明などに時間を取られた。

 ママ(静琉の母)に会ったときは疲れ切っていたが、

「娘さんに助けていただきました。ありがとうございます。でも、娘さんをこんな大変な目に合わせてしまって、なんと言ったらいいか······」

と謝った。憔悴したママ(静琉の母)パパ(静琉の父)は、それでも、

「ご無事で良かった。娘の静琉もきっとそう言うでしょう」

と言って、逆に静琉ひとみを慰めた。初めて見たこんな状態の2人の姿に、勝手に涙が浮かんでくる。

「静琉の様態は危険を脱したと医師から言われました。出来たら、静琉が目を覚ましたら、直接お礼を言ってもらえないでしょうか」

 そうパパ(静琉の父)に言われて、静琉ひとみは、

「もちろんです」

と答えて、その日は自宅《ひとみの家》に帰った。

 静琉ひとみはようやくほっと一息ついた。明日と明後日はとりあえず会社を休みにした。事情が事情だけに会社の人にも心配されたのが、何だか嬉しかった。

 静琉ひとみは異世界に行く前は、きっと気持ちに余裕があまりなかったのだろう。周囲の人達の事をあまり見ていなかったようだ。

 ”ひとみ”でありながら”静琉”になった事で、違う視点を持てたのかもしれない。

「クリーン」

 楽な部屋着に着替えてしまうと、静琉ひとみは面倒になって魔法を使って体を綺麗にした。

「うん、やっぱり使える。魔法になれちゃうと便利すぎて戻れないわぁ」

 一人呟いて、久しぶりの自室のベッドで静琉ひとみは眠りについた。  



 冒険者のキャサリンとダンは、久しぶりにシュトロー村にやって来た。ひとみを送ってきた以来だった。

 異世界の聖女が消えたらしいと言う噂を耳に入れたダンが、「何かヤバそうだ。辺境で様子見ようぜ」と言ったので、「あんたがそう言うなら、そうするのが一番だね」とあっさり頷いてやって来た。

 ダンは斥候職で、勘が鋭い男なのだ。キャサリンはその勘に何度も救われている。

 シュトロー村は前に来たときと少し様子が変わっていた。リバーシと言う遊びが流行っていて、宿にも置いてあった。また、異世界草のコーヒーなるものが名物となっていた。ハーフドワーフたちが作っているセミカスタマイズの武器のことは噂で聞いて知っていたが、シュトロー村には新しい風が吹いているようだった。

 アース村長に会うと開口一番に、

「ひとみは逝ってしまったよ」

と言われた。

「そうかい。そんな気はしてたよ」

 キャサリンは魔法使いで1流を自負するだけあって、ひとみの魔力の流れが普通とは違うことに気がついていた。

「何も言わずに······。ひとみらしい」

 寂しげな微笑を浮かべたアース村長はそう言って空を見あげてから、

「だが、ひとみのおかげでシュトロー村は少し豊かになったんだ。特にリバーシはお勧めだぞ」

と、今度はキャサリンとダンに豪快な笑顔を見せた。

 少しばかりから元気に見えたが、ダンもキャサリンもニヤニヤと笑うと、アース村長に睨まれた。これなら心配はあるまいと、2人は早速勧められたリバーシをやってみて見事にはまり、シュトロー村に貢献するべく、リバーシを買ったのだった。


 キャサリンたちがシュトロー村に来て間もなく、隣国との戦争が始まった。王都には戦時に展開される強固な魔法障壁があったはずだが、魔法障壁は展開されず、訓練とは違う現実に軍もうまく対応できず、あっという間に負けてしまった。

 敗戦国となったことで流言飛語が飛び交い、村人たちの間にも不安が広がったが、結局変わったことといえば領主が隣国の貴族に変わった程度で、村人たちは安心して元の生活に戻っていった。



 静琉が目を覚まして一番に目に飛び込んできたのは、パパとママの姿だった。

「ママ?パパ?」

 何故2人が?仕事じゃないの?パパは「静琉が目を覚ましました」と誰かに言っているし、ママは泣きそうな顔で手をぎゅっと握りしめてきた。ママは何か言おうとするけど口元が震えるばかりで、結局無理やり口角を上げて笑ってみせた。

 パパはママの背中を撫でてやりながら、静琉に、

「どうして病院にいるか、分かるか?」

と聞いてきた。静琉はパチクリと瞬きしてから、あっと気がついた。

「私、刺されて······?」

 それから静琉はハッと気づいて、

「ひ———おばさんは?!私、手を引っ張ったの!」

「静琉が助けた人は無事だったよ。静琉はすごい事をしたんだ。けど、もう無理は······危ない事はするな······」

 パパが泣き出し、静琉は慌ててママを見ると、ママも静かに涙を流していた。

 

 静琉が目を覚ましてから数日後、可愛らしいアレンジブーケを携えたひとみが、お礼を兼ねたお見舞いに来てくれた。ママがお礼を言って、花瓶に水を入れに行った。

「初めまして、静琉さん。目を覚ましてくれて本当に良かった。助けてくれてありがとう。でも、次は自分自身を守ってあげてね?」

 静琉の事が分からないらしいひとみに、静琉は安堵と一抹の寂しさを覚えた。

「そうだ。お見舞いを持ってきているの」

 そう言って取り出したものは、静琉が憧れていたブランドの包装紙に包まれていた。

「若い人の流行に乗れているか分からないけど、人気のブランドだって聞いたから······。元気になったら、これを持ってママとパパとお出かけしてね」

 静琉は一旦は受け取れないと言ったが、

「50歳近いおばさんじゃ、似合わないわ。使ってちょうだい」

と言われて受け取った。後で開けてみると、そのブランドにしては少し落ち着いたデザインのバッグだった。

「あら、良いじゃない。長く使えそうなデザインね」

ママがそう言って笑うと、静琉も釣られて笑い、退院したらお祝いに何処かに旅行に行こうとパパが嬉しそうに宣言した。



 静琉ひとみは静琉のお見舞いを終えて、駐車場に向かった。車に乗り込む前に、静琉がいるであろう病室の階を見上げて、少し微笑んだ。

(静琉はもう大丈夫。パパとママ(静琉の両親)とこれから普通の幸せを噛み締めて生きていけるはず。さて、私はどうしようかな?)

 静琉に本当は”ひとみ”ではなく、”静琉ひとみ”であることを伝えるつもりはなかった。交流を持つ事も考えたが、それぞれの人生を歩む方がいい気がしたのだ。

(それに、うっかりパパとママって言っちゃいそうで怖いし)

 基本的には”ひとみ”であるが、表面に出ている意識は”静琉”寄りである。だから、静琉の家族のそばで過ごすことはリスクがあった。

 ”静琉ひとみ”は車に乗り込むと、自宅へ向けて車を出した。

(そうだ。ダイエットしよう。素材はそんなに悪くないんだから、美容にも力を入れて····。人生楽しまないとね)

 ”静琉ひとみ”はそう決めると、何だかワクワクしてきて、新しい人生に踏み出していった。


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