第八九話 ただいま
夜の冷気が街に降りていた。
石畳に響く靴音は、いつもよりわずかに重い。
教団壊滅から戻ったばかりのアレンたちは、それぞれ言葉少なに並んで歩いていた。
戦闘が終わったあと特有の静けさがあった。
勝った。
だが完全に何も残らないわけではない。
服の裾に残る焦げ跡。
乾ききらない血。
身体の奥に沈む疲労。
隣を歩くユウが肩を回しながら、小さく息を吐く。
「……今日はさすがに堪えたな」
「珍しいな、お前がそんなこと言うの」
アレンが横目で見る。
「風のガキまでいたからな。気配だけであの距離からこっち見抜いてきた」
「ああ」
あの最後。
遠くの屋根の上。
一瞬だけ立っていた少年。
風をまとい、こちらを見下ろしていた影。
追う暇はなかった。
だが、あれはまた現れる。
アレンは確信していた。
「面倒が増えそうだな」
「増えない日がない」
ユウが苦笑する。
やがて分かれ道に着く。
「じゃあな」
「ああ」
短いやり取りだけで別れる。
戦場では背中を預ける仲間でも、家の扉の向こうにはそれぞれ別の世界がある。
アレンが扉を開ける。
するとすぐに、軽い足音。
「おかえりなさい」
柔らかな声とともに、妻が姿を見せた。
灯りの下で、ほっとしたように目を細める。
その一言だけで、張っていた神経が少しだけ緩む。
「……ただいま」
アレンは短く返す。
妻は服についた血を見て眉を寄せた。
「また無茶をしましたね」
「予定よりは楽だった」
「その台詞、毎回聞いてます」
呆れたように言いながらも、すぐ布を取りに行く。
慣れている。
戦いから帰るたびに、こうして何も言わず世話を焼く。
アレンは椅子に腰を下ろした。
肩に触れる指先が温かい。
「夕食、温め直します」
「まだ起きてたのか」
「待ってましたから」
それだけで十分だった。
どんな敵より強いものがあるなら、こういう瞬間かもしれないと、ふと思う。
一方その頃。
ユウの家では扉が開いた瞬間、
「遅い!」
妻の声が飛んだ。
だが次の瞬間には胸元へ飛び込んでくる。
「……怪我してない?」
怒った声なのに、腕は震えていた。
ユウが苦笑する。
「してないしてない」
「嘘。血の匂いする」
「俺のじゃない」
「それ毎回言う」
頬を膨らませながら、それでも離れない。
ユウはその頭を軽く撫でた。
「飯ある?」
「ある。冷めた。温める」
「助かる」
「あと説教もある」
「そっちはいらない」
ようやく少し笑いが戻る。
戦場で削れたものを埋めるのに、派手な言葉はいらない。
明かりのある家。
待っている人。
それだけでいい。
その夜。
アレンは窓の外を見る。
風がわずかに揺れた。
あの少年の気配を思い出す。
まだ終わっていない。
次が来る。
だが今夜だけは――
背後から妻の声。
「考え事ですか?」
「少しな」
「なら明日にしてください。今日は休む日です」
振り返ると、少しだけ強い目で見られていた。
戦えと言われれば国一つ潰せる男が、その視線には逆らえない。
「……わかった」
小さく笑って、灯りを消した。




