第三十七話 兵士視点 王の降臨
■王都防衛兵・第三分隊所属
■名:――記録なし
正午の鐘が鳴り終わったあとだった。
俺は城壁の内側、第三区画の詰所に立っていた。
配給のパンは固く、鎧は重い。
だが、それがいつもの日常だった。
「影王なんて来るわけねえよ」
隣の兵が、そう言って笑った。
俺も笑った。
遠い噂だ。
北だの、辺境だの、そんな場所の話だと思っていた。
――空が暗くなるまでは。
最初は、雲だと思った。
だが、違った。
影だ。
太陽を覆い隠すほどの、巨大な影が、ゆっくりと降りてくる。
誰かが叫んだ。
「敵襲!!影王だ!!」
頭が、理解を拒んだ。
影王?
ここは王都だぞ?
冗談だろ?
だが、次の瞬間、地面が冷たくなった。
俺の足元から、影が這い上がってきた。
「動くな!!陣形を――」
隊長の声は、途中で途切れた。
影が、隊長の首を撫でるように通り過ぎ、
次の瞬間、首が落ちた。
血は出なかった。
影が、血を持っていった。
俺は悲鳴を上げた。
自分でも、情けないほど大きな声だったと思う。
前を見る。
そこに――影王がいた。
黒衣。鎌。人の形。
……顔は、普通だった。
普通すぎて、逆に怖かった。
化け物の顔なら、逃げる理由になったのに。
影王は、こちらを見た。
目が合った。
感情が、ない。
怒りも、憎しみも、
俺たちを見下す様子すらない。
まるで――壁を見るような目だった。
「撃てぇぇ!!」
誰かが叫び、魔法が飛ぶ。
光弾。聖印。
全部、影王に届く前に消えた。
否、消えたんじゃない。
影に“飲まれた”。
影王は、鎌を振った。
ただ、それだけだった。
次の瞬間、
俺の身体は宙に浮いていた。
いや――切り離されていた。
自分の足が、地面に残っているのが見えた。
「……え?」
声が、遅れて出た。
痛みは、なかった。
落ちる。視界が傾く。石畳が近づく。
その途中で、
影が俺の身体を包んだ。
冷たい。
だが、不思議と苦しくない。
呼吸が、いらなくなる。
(ああ……死ぬのか……)
母の顔が浮かんだ。
故郷の畑。酒場の笑い声。
全部、遠くなる。
影の中で、声がした。
――抗うか。――従うか。
意味は分からなかった。
考える力も、もうなかった。
(……疲れた……)
そう思った瞬間――俺は同意した。
身体が、溶ける。
骨も、肉も、名前も。
代わりに、何かが形を持つ。
立ち上がる。
命令は、ない。感情も、ない。
だが――役割は分かる。
前を見る。
そこには、影王が立っている。主だ。
逆らう理由が、存在しない。
周囲を見る。
さっきまで一緒にいた仲間たちが、同じように立ち上がっている。
影の兵として。
剣を持つ。影でできた剣だ。
重さは、感じない。恐怖も、ない。
影王が、歩き出す。
俺たちは、続く。
もう、名前はない。
記憶も、薄れていく。
だが、最後に一つだけ、分かる。
俺は今、王都を守る兵士ではない。影王ユウの、兵だ。
それが幸せだった。
その日、
王都で死んだ兵士の数は記録された。
だが――
影になった数は、誰も数えなかった。




