第三十話 再び
旅支度を整えたアレンは、王城の裏庭で最後の確認をしていた。
月明かりが静かに輝き、夜風だけが彼のマントを揺らしている。
「……さて、明日の夜明け前に城を出よう」
独り言のように呟いたそのとき、ふわりと裾を揺らしながら誰かが近づく気配がした。
「アレン様」
振り向くと、そこには深い青の外套をまとったリアナが立っていた。
普段のドレス姿とは違い、軽装で動きやすい格好。
その瞳は、揺らぎのない強さを帯びていた。
「リアナ……その格好は?」
「ついていきます、アレン様。ユウ様を救う旅に」
アレンの瞳が大きく揺れる。
「馬鹿なことを言うな。
これは危険な旅だ。王宮にいれば安全で――」
「……安全でも“後悔”は残ります」
リアナはゆっくりと近づき、アレンの胸に小さく手を添えた。
「ユウ様の苦しみを知ってしまった以上、私は……ただ待っていることができません。
あなたの隣で、あなたの決意を支えたい。
そして……あの優しい青年を、私も取り戻したいのです」
アレンは言葉を失った。
その真っ直ぐな想いは、誰よりも清く、そして強かった。
「リアナ……君は騎士でも冒険者でもない。戦闘も、危険も――」
「勉強します。学びます。傷ついても構いません」
リアナはそっと微笑む。
「アレン様を一人で背負わせたくないのです。
あなたが背負う痛みの一部を……私にも背負わせてください」
アレンは胸を刺されるような感覚に襲われた。
家柄ゆえに守られる立場だった少女が、
自ら危険の中に飛び込もうとしている。
本気で、アレンと共に生きるために。
「……リアナ。そんなにも……」
「はい」
リアナは迷いなく答えた。
「私は、アレン様の“婚約者”です。
ただ名ばかりではなく、あなたと同じ道を歩みたいのです」
その表情は美しく、そして揺るぎない光を宿していた。
アレンはゆっくりと、リアナの手を取った。
その手は震えていなかった。むしろ温かく、力強い。
「……わかった。
君の覚悟、確かに受け取った」
リアナの瞳がぱっと明るくなる。
「一緒に行こう、リアナ。
どんな道でも、君が望むなら私は拒まない」
リアナは深く頭を下げて、そして顔を上げた。
「必ず……ユウ様を救いましょう」
アレンはうなずく。
「ああ。必ずだ」
二人は夜空を仰ぐ。
遠い星のように小さな光が、
いつか再びユウの心にも灯ると信じながら。
夜が明ける少し前、雨が降り始めたが、王都の門の前でアレンとリアナは馬に跨り、静かに出立した。
ユウが堕ちた深い闇へ。
単なる捜索ではなく、魂を取り戻す旅へ。
二人の影が、朝霧の中へゆっくりと溶けていく。
――ユウを救うための旅が、いま始まった。
森を抜け、次の村までは半日の距離。
まだ雨は止まず、ぬかるんだ道を馬は進みにくそうに足を取られる。
アレンは馬を下り、馬の手綱を引きながら歩いた。
リアナは雨よけの外套を深く被り、震えながらついてくる。
「リアナ、無理するな。今日はここで野営しよう」
「……いえ、アレン様に迷惑を……」
「迷惑なんかじゃない」
言いながらも、アレンは胸の奥が苦しかった。
――本来、彼女はこんな旅をするはずではない。
暖かい屋敷で守られ、幸せな生活を送る未来だってあった。
それなのに。
雨に濡れ、靴は泥にまみれ、疲労で足がふらつく。
そんな姿を見ているだけで胸が締めつけられる。
「……ユウ様は、もっと辛かったのでしょう?」
リアナの声は雨の音に消されそうだった。
「街の人々に怯えられ、避けられ……
あの優しかった彼が、どれほどの絶望を抱いたのか……」
アレンは言葉を返せない。
ユウを理解していたはずなのに、彼の苦しみを守れなかった。
その罪が、いま旅の重さにのしかかってくる。
雨が弱まった頃、二人は森の大樹の下で焚火を点けた。
旅慣れないリアナの手は小刻みに震え、火打石を扱うだけでも苦労している。
「……ごめんなさい。アレン様のお手を煩わせてばかりで」
「謝るな。これは俺の選んだ道だ。
君を連れていくと決めたのは、俺だ」
リアナは火を見つめたまま、小さくつぶやく。
「それでも……もっと強ければ。
ユウ様にも、アレン様にも……支えられるはずなのに」
アレンは火越しに彼女を見つめた。
旅に出て数日。
リアナの手はすでに傷付き、歩き方もぎこちない。
なのに――その瞳だけは挫けていなかった。
「君は十分強いよ、リアナ。
どんな貴族より、どんな騎士より……ずっと」
リアナの目が少し潤む。
「……でも、私は戦えません。
魔物に襲われれば足がすくんで……
アレン様の光がなければ、私は何もできない……」
「君がいてくれるだけで、俺は進める。
それだけで十分だ」
リアナはそっと唇を噛んだ。
ユウを救いたい気持ちと、自分の無力感が胸の中でせめぎ合っていた。
その時だった。
木々の奥から、重い足音が地面を震わせた。
「アレン様……!?」
アレンが即座に立ち上がり、光を槍状に形成する。
「下がれ、リアナ!」
闇から現れたのは巨大な狼。
槍が放たれ、閃光が夜を裂く。
爆ぜる光。
狼が苦痛の叫びを響かせながら倒れる。
リアナは震えた。
ほんの一瞬、視界が暗くなった瞬間に――ユウの影を、ほんの少し重ねてしまった。
「……ユウ様も、こうして……
孤独の中で戦っていたのでしょうか」
アレンは答えられない。
焚火の光が二人を淡く照らす中、アレンはリアナの肩にそっと手を置いた。
「ユウは一人で戦わせるべきじゃなかった。
今度は……俺たちが、その影を取り戻す番だ」
リアナは静かに頷く。
「ユウ様を……必ず」
夜が明ける頃、雨は完全に止んでいた。
リアナは泥だらけの外套を握りしめながら言った。
「アレン様、私……覚悟は変わりません。
どれほど辛くても、どれほど痛くても……
この旅をやめるつもりはありません」
アレンは深く息を吸った。
「俺もだ。
もう誰も、奪われるような未来にはしない」
二人は互いを見つめ、小さく微笑む。
泥道は続き、旅の苦難も終わる気配はない。
だが――二人の決意は確かに強くなっていた。
影に堕ちた友を取り戻すために。




