【短編】婚約破棄と言う勿れ
――パリンッ!
大理石の床の上でガラス製のグラスが割れた。
時刻は夜。
場所は王宮内の離宮にある大広間だった。
そしてグラスが割れた瞬間、楽しそうに談笑していた貴族たちの視線が一斉に集まる。
今年で17歳になるエリシアことわたしは、その中心で静かに心を落ち着かせていた。
ただ、無意識に怒りが湧き上がってきたのだろう。
風など入るはずがないのに、わたしの金髪が少しだけ揺れる。
「エリシア・フォン・グランディール! 貴様との婚約をここに破棄する!」
突如、怒号のように響いた声。
わたしの数メートル前には、婚約者の第一王子・アルト・ディ・ルヴァンが勝ち誇った顔で立っている。
20歳のアルトは豊かな金髪を揺らし、麗しい微笑を浮かべている。
だがその目には、浅ましい優越感が滲んでいた。
そして彼の腕は一人の少女を抱いている。
リリア・メイスン。
王立学園で“天使”と呼ばれるほどの人気者で、素朴な笑顔と儚げな仕草が貴族の男子生徒たちの心をつかんで離さなかった男爵令嬢だ。
まあ、それはさておき。
わたしは顔は冷静を取り繕いながら、固く握った拳を隠すように左手で包み、静かに彼らを見つめていた。
「お前はこのリリアに対して取り返しのつかない罪を犯した! 平民相手に身体を売っていたと嘘の噂を流し、彼女を貴族社会の中で孤立させようとしたのだ!」
アルトの芝居はまだ続く。
「お前のような冷酷非道な女と俺は王妃にするつもりはない! ゆえに俺はお前との婚約を破棄し、ここにいるリリアと新たな婚約関係を結ぶことにした!」
――ああ、そう来たのね。
胸の奥で、小さく笑う自分がいた。
すべては知っていた。
アルトとリリアがわたしに内緒で密かに会っていたこと。
リリアの家族が、商人組合から不正な金を受け取っていたこと。
そして――この“公開婚約破棄劇”が、彼らの自己正当化のために用意された茶番であることも。
ざわめく観衆の中、わたしは口を開いた。
「……アルト殿下。その言葉、すべて本心でおっしゃっているのですか?」
「もちろんだ! この場にいる全員が証人だ!」
アルトは自分こそが正義だと言わんばかりに胸を張る。
一方のリリアも涙ぐ演技をしながら、アルトの胸に身を寄せた。
――まるで出来の悪い素人劇。けれど、観客はみな信じ込む
事実そうだった。
周囲からはリリアに同情する声が小さく聞こえ、続いてわたしの悪口もちらほらと出始める。
瞬間、完全に私の中の何かが切れた。
「そうですか……では、どうぞご自由にどうぞ」
わたしは二人に対して深く礼をした。
けれど、わたしの唇がわずかに上がっていたことに気づいた者はほとんどいなかっただろう。
顔を上げたわたしはニコリと微笑み、勝ち誇っている二人に言い放つ。
「ただ一つだけ申し上げておきますわ、殿下。婚約破棄という言葉は軽々しく口にすべきではありません」
「なに……?」
「王家の第一王子が、正式に結ばれた婚約を一方的に破棄した場合、王国法第九条により、責任は王家に帰属します。そしてグランディール公爵家は三代に渡り国の財務を管理してきました。ゆえに国に対して責任を要求いたします」
大広間の空気が凍りついた。
「その賠償金、いかほどになるでしょうね?」
アルトの顔から見る見るうちに血の気が引いていく。
周囲の貴族たちがざわめき始め、文官の一人が青ざめて立ち上がった。
「ま、待て……それは、その……」
「婚約破棄と言う勿れ……殿下、あなたの立場ゆえの苦しみを思い知ることになるでしょう」
わたしは軽く一礼し、その場を後にした。
♦♦♦
その夜。
わたしは公爵邸の執務室で紅茶を口にしていた。
婚約破棄の噂は王都を一晩で駆け巡った。
そして内容は――アルトにとって最悪の方向に歪んでいた。
――アルト殿下が財務卿の娘に泥を塗った
――男爵令嬢を庇って王国法を破った
噂は瞬く間に広がり、やがて王の耳にも届いたという。
扉を叩く音がして、一人の青年が入ってくる。
「……お疲れ様、エリシア」
「リオネル様……」
180センチを超える長身で、細身の筋肉質な体型。
優れた文武以上に優しさを持ち合わせている、茶髪のイケメンである。
アルトの弟である第二王子のリオネル・ディ・ルヴァン様だ。
穏やかで、思慮深く、わたしの心の支えだった。
「兄上、完全に詰んでいるよ。父上もお怒りだ。次期王位継承権は剥奪されるだろうね」
「……そうですか」
わたしはカップを置き、静かに息を吐いた。
ざまぁ、とは思わなかった。
ただ、やっと終わったのだという実感が胸を満たす。
「君はよく耐えた。あの人たちの悪意にも、侮辱にも……でも、もう無理しなくていい」
リオネル様の声がわたしの全身に広がっていく。
直後、わたしの両目から涙があふれた。
「わたし……ずっと怖かったのです。誰にも信じてもらえず、罪人のように見られて……すべて終わる気がしたんです」
「終わりじゃないよ。君は解放されたんだ」
彼の指先が、そっとわたしの手に触れる。
驚くほど固く、そして温かかった。
「……ありがとうございます、リオネル様。あなた様の協力がなければわたしは自害してかもしれません」
「礼なんていらない。むしろ僕が感謝したい。ようやく僕は自分の愛する人を手に入れることができるのだから」
穏やかに笑う彼の瞳に心が救われていく感じがした。
♦♦♦
それから一月後。
アルトは王位継承権を剥奪された。
リリアと共に国外追放の処分を受け、二度と王都の地を踏むことは許されなかった。
――ざまぁ、とは言わない。
けれど、天は見ているのだと思った。
王の勅命により、新たな王太子はリオネル様になった。
一方、わたしは正式にリオネル様の婚約者となった。
リオネル様と婚約した日。
満開の薔薇が風に揺れる庭園で、わたしとリオネル様は二人だけでお茶を飲んだ。
「……まだ、兄上のことを考えてるかい?」
「いいえ。ただ、少しだけ昔の自分を思い出していました。あの頃のわたしは、殿下の言葉ひとつで泣いたり笑ったりして……愚かでした」
「愚かじゃない。真っ直ぐだっただけだ」
リオネル様がわたしの手を取る。
その仕草はあの時よりもずっと穏やかで、そして――確かな愛情に満ちていた。
「エリシア。もしよければ……婚約ではなく正式に妻になってくれないか?」
「……え?」
「今度は、君が笑っていられる未来を作りたい」
頬が熱くなるのを感じた。
涙がこぼれそうになる。
あの夜、大広間で割れたグラスの音が今も耳に残っている。
けれどその破片の先に、こうして新しい光があるのなら――もう恐れなくていい。
「……はい。わたしでよければ、喜んで」
リオネル様はわたしを抱きしめ、優しいキスをしてくれた。
庭園の薔薇が風に揺れる。
赤と白が入り混じり、まるでわたしたちの新しい始まりを祝福しているようだった。
――婚約破棄と言う勿れ
それは終わりではなく、始まりを告げる言葉。
裏切りの痛みも、涙も、すべてを超えて。
今、わたしは真に愛される人生を歩き出す。
リオネル様の胸の熱さを感じながら、わたしはこの幸せをずっと噛み締めると心に決めた。
いつまでもずっと――。
〈Fin〉
読んでいただき本当にありがとうざいました。
そして現在、異世界恋愛作品の新作を投稿しております。
【完結】悪役毒妃の後宮心理術
ぜひとも一読していただけると幸いです。
広告バナーの下から1クリックで目次ページへと移動できます。
どうぞ、よろしくお願いいたします m(__)m




