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オネェ伯爵令息に狙われています

作者: ふじの
掲載日:2025/10/03

うまくいかない。

なんでこんなにうまくいかないのだろうか。


セレスティアは考えた。

ルノアール子爵家の第一子である私、御歳21歳。自分で言うのもなんだけど、金色の柔らかな髪に黒色のつぶらな目。結構可愛いはずなのに残念ながら行き遅れ。


長男、長女というものは、みな優秀だと思うなよ。

目の前にないレールを直向きに突き進み、失敗ばかりして強くなるのだ。

その点、次男次女たちの要領の良さよ。

上の失敗をよく見ているから、それはまあ上手くやる。

何を上手くやったって?

そろそろ婚約にこぎつけられそうな恋人を妹に取られたわ。


兄、姉のようになりたい?

何もしなくても後継になれる?

バカ言え、こちとら大変なんだよ。

必死で見つけた婿候補を寝取るんじゃねーよ。


「ねー?そう思わない?」


「何、悪口製造機みたいになってんのよ。あんたそのままいくと、口がひん曲がって意地悪ばばあまっしぐらよ」


親友のフランが酒を片手にジト目で見てくる。

やめて!そんな目で私を見ないで!


仕事終わりのアルコールがたまらない。

もう何杯目かも分からずにあおる。


「靡くほうも靡くほうでしょ。お前は婿に来るんだよ!『こんな可愛い妹ちゃん、放っておけない!!』って!残念だったな!私が跡取りだ!お前はもう貴族にははなれん…」


「どうどうどう。あんた黙ってれば可愛いんだから、お酒に飲まれるんじゃないの」


また口に運ぼうとしたアルコールをひょいっとフランに取られてしまう。そのまま残りまで飲まれてしまった。恨むぞ酒豪フラン。

反対の手で机に広がる黒髪を指で梳かすように何度も何度もなでてくれる。心地よい。

ゔー…と唸る私の頭を撫でてくれる親友の存在に涙が出そうだ。


「私の何が悪かったのかな…」


「ティアは何も悪くないわよ。運が悪かっただけ。」


「…運って…」


「あなた自身ではどうにもならないところよ」


急に優しくなるところも、ずるい。

涙が滲む。


「…私、誰かにちゃんと、選ばれる日って来るのかな」


珍しく弱音を吐いた私に、フランは黙って手を伸ばし、涙のにじむ目元を親指で拭った。


「選ばれるんじゃなくて、選ぶのよ。あんたは魅力的よ」


言葉の裏に、いつもの軽さのない響きがあって、胸が少し熱くなった。


「家に、帰りたくない…」


「あら、帰らなきゃいいのよ。どいつもこいつも困らせてやりなさいな。うちにおいで、ティア」


首を傾げるフランの黒髪がさらりと頬にかかって色気がある。

金色の目を細めてニヤリと笑うとかっこいいなと思いながら、正常な判断ができない私はこっくりと頷いたのだった。






頭が痛い。

カーテンから差し込んでくる光が眩しくて、寝返りを打とうとすると、硬い何かにぶつかった。


「あら、おはよう。素敵な朝ね」


「………」


やっぱり判断を誤ったかもしれない。

なぜ同じベッドにフランが寝ているのかしら。

しかも、なぜ頬杖をついてわたしを見つめている。

遠い目をしている私に可憐なウインクをするフランを張り倒そうかと思ったのに、頭痛と吐き気となんだかよくわからない感情が渦巻いてベッドに体を沈めた。

そのまま、布団の中の体の状況を確認する。


乱れてない。

痛くない。


「…何もなかったわよね?」


「安心なさいな。酔いつぶれたあんたを抱くほど困ってないわ。ほら、証拠に私の手は清らかでしょう?」


フランが自分の手のひらをひらひらさせる。


「……殺す」


「やだ、熱烈な愛の告白ね」


本気で枕を投げたのに、ひらりとかわされる。

この至近距離で避けるとは、こいつの運動神経はどうなっているのだろうか。


「…おじさま、おばさまはなんだって?」


「あんたの事情を伝えたら、ゆっくり休んでけってさ。ティアのおじさん、おばさんたちにも早馬出してるから気にしなくていいわよ。」


「そっか、助かる。」


幸い仕事は休みだ。

今日はフランの家でゆっくりしてよう。



フランとは幼馴染の関係である。

といっても、うちは領地を持たない王城勤めの文官の家系。代々“知識”で仕えてきた家だ。

対してフランの家は、広大な領地を持つ由緒あるアガースト伯爵家。身分の差は歴然としている。

普通なら、こんな気安さで転がり込めるような間柄じゃない。

けれど、私たちの両親は学園時代からの同級生で、長年の友人同士。おかげで物心つく前から私とフランも顔を合わせて育ってきた。


伯爵家の庭園で鬼ごっこをすれば、全力で走るフランに私は追いつけず、木登りを競えばいつも私のドレスは泥だらけ。馬にまたがって駆け回る姿なんて、本当に眩しく見えたものだ。


「ティア、こっちこっち!」


「危ないからそんなに早く走らないで!」


「大丈夫だって!俺が守ってやるから!」


子供特有の無鉄砲さと、跡取りの矜持を無意識に混ぜ込んで、彼はいつも胸を張っていた。

私はその背中を必死で追いかけて、泥だらけになりながら笑っていた。


そんなある日、覚えている。

夕焼けの中、木の枝に座って、フランが大真面目に言ったのだ。


「ティア、大好きだ!将来は俺がお前をお嫁さんにしてやる!」


真っ黒に日焼けした顔、ぎらぎらした金の瞳。

その言葉は、幼い私には眩しすぎて、胸がきゅうっと縮むような衝撃だった。


けれど、大人たちはただ笑っただけだ。


「フランはティアちゃんのことが好きなのねぇ」


「子供って可愛いわね。私もあったわー!そんな頃!」


「いいぞ!フラン!」


そう言って軽く受け流され、結局その約束は冗談の一つにされてしまった。

それはそうだろう。

子供の私だって考えなくても分かる。

子爵家の跡取りの娘と伯爵家の嫡男が、勝手に未来を決められるはずもない。

そうして交流は続けつつ、時は過ぎた。


気づいたときには、フランは女性らしい言葉を話すようになっていた。


気まぐれに見える仕草の裏に、どこか人を惹きつける色気をまとい、あのやんちゃな少年は器用に「親友」という立場に収まっていた。

私が泣けば撫でて、怒ればからかい、弱音を吐けば笑って慰める。


「やれやれ、あんたは私がいないとダメね」


そんなふうに言われて、悔しいのに嬉しくて、結局は甘えてしまう。


……ずるい。

ずるいわよ、フラン。


子供の頃の「大好きだ」の言葉も、あの夕焼けの告白も、全部なかったことにして。

親友の顔をして、気楽な調子で、ずっとそばに居座っている。


だから私は、恋愛がうまくいかないのだ。






うまくいかない。

どうして世の中はこんなにうまくいかないのだ。


フランツは考えた。

いいじゃないか、跡取り同士結婚したって。


木の上に登って落ちそうになった彼女を、必死に支えたことがある。

泥だらけになって笑い合ったこともある。

夕暮れ時、勇気をふり絞って言った。

「ティア、大好きだ。将来、俺と結婚しよう!」

その瞬間、ふわりと笑った彼女の横顔を、俺は今も忘れられない。


こちとら一目惚れしてからずっとセレスティア一筋なのは、天明の理だろうが。


家同士の繋がりは強固になるし、領地経営に文官家系の知識はもってこい。

俺がいうのもなんだけど、腹黒妹に跡を譲って、ティアがうちに来ても絶対家政は回る。

あ、別にティアもできる子なのは知ってるよ。

なのに、あの日の俺の本気を誰もまともに取り合っちゃくれなかった。

大人たちは笑って一蹴した。

伯爵家嫡男としてなんだかんだスムーズだった俺は、人生で初めてうまくいかなかった。



だが挫折は諦めと同義じゃない。

むしろ俺はその日から、余計にティアを諦められなくなったのだ。

どれだけ笑われても、邪魔されても、俺は“うまくいかせる”方向へ転ぶしかない。


そして十六の頃。

本格的に縁談話が舞い込むようになった時期だった。

政略結婚の候補が列をなし、父母は「相応しい相手を選べ」と口を酸っぱくして言ってきた。


だが俺にとっては無意味だ。

本命はひとり。ティアしかいない。


正面から「セレスティアと結婚したい」と言ったところで、大人たちは戯言だと笑ってまた一蹴するだろう。

幼い告白の再演でしかないと。

あのときと同じように。

クソが。


ならば、真正面からぶつかっても勝てないのなら、別の方法を取るしかない。

そこで俺は決めた。


「普通の“嫡男”」を演じるのをやめよう、と。


無駄に男らしい競争心を見せるよりも、軽妙で掴みどころのない女言葉で世間を煙に巻けば、縁談を本気で押し付けられる機会は減る。

奇異の目は集めるが、その分、伯爵家嫡男としての“適齢婚”の場からは外されるのだ。


本命はひとり。

余計な相手は不要。


わざと茶化すように振る舞いながら、心の底では誰よりも真剣に――。

それが俺の戦略的撤退であり、決意表明だった。


そして昨晩。

十年以上の執念の果てに、ついにティアを連れ帰った。


夜中、ティアを連れ帰ってきた報告するために訪れた執務室には、なぜか青筋を立てた母親と頭を抱えた父親。

そして床に正座させられた俺。


両親の視線が痛い。


「フランツ」


「嫌だわ、お父様。フランと呼んで♡……痛っ」


母親の扇子が飛んできた。

容赦なく額に命中する。これだからうちの母は恐ろしい。


「フランツ、とうとうやったわね…」


「あら、なんのことかしら?」


母は大きくため息をついた。


「小さい頃から一目惚れした相手を、ずっと思い続けて……他の娘との縁談は全部ごまかして逃げる。その執着、呆れるを通り越して感心するわ」


「さすがお母様、御名答!」


「気持ち悪い呼び方をやめてちょうだい。この数年で何人の縁談を蹴ってきたと思っているの?しかもその言葉遣いで断るなんて、『オネェ伯爵令息』なんて不名誉な渾名…伯爵家の名に傷がつくと叱ったでしょう」


「あら!だって“結婚なんてまだですの♡”って言った方が、相手も引き下がりやすいじゃない」


ギリギリと歯を食いしばる母の隣で、父が頭を抱える。


「貴様な……伯爵家の跡取りが“まだですの♡”で縁談を潰してどうする」


「私本命にしか心は捧げられませんの」


すまし顔で伝えた瞬間、もう一本の扇子が飛んできた。



どうせ笑われるなら、徹底的に笑わせてやればいい。

茶化して、誤魔化して、その裏で全部計算してやる。

俺は“うまくいかない”人生なんて、ごめんだ。

ティアとなら、笑われても構わない――最後に笑うのは、俺だ。


そして、その結果がこれである。


規則正しく上下する肩、乱れた金色の髪。

昨夜は泥酔して泣いて、愚痴をこぼして……。

そのまま寝顔を見せてくれるなんて、どれほどの信頼だろうか。


「…ティア…」


目が覚めたとき、すぐ隣にティアがいる。

その事実だけで、世界はこんなにもまぶしい。

十年以上、どうしてもうまくいかなかった想いが今、ようやく結実している。

執念の勝ち。

覚悟しろよ、ティア。


人生とは、うまくいくものなのだ。






これはまずい。

絆される。


フランの部屋でのんびり庭を眺めていると、時間がゆるやかに溶けていくようだった。

差し込む陽光に、金色の髪がやわらかく揺れて、なまじ整ってる顔がより破壊力を増す。

その横顔を見ていると、胸の奥にまだ微かに残っていた昨夜の涙の熱までじんわりと和らいでいく気がする。

あくまで気がするだが、癪に触るからフランには言わない。


「ふふ、何かついてる?」


不意に覗き込んできたフランの瞳は、悪戯っぽく笑う。


「顔面凶器」


「まぁ!美形って褒めてくれてもいいのに」


「本当のことだから腹が立つ」


他愛もないやりとりに、自然と頬がゆるむ。

昨日までの重苦しさが嘘みたいで、こうしてだらだら話しているだけで胸が軽くなるのだから不思議だ。


やがて小腹が空いてきて、時計を確認すると昼に差し掛かる頃だった。

扉をノックして入ってきた執事が、私がここにいることに目を丸くしたけれど、フランと二言三言交わすうちにすぐに表情を戻し、足早に退出していった。


「少しは気持ちも体も楽になったかしら。久しぶりにティアを連れてきたことを伝えたら、料理長が張り切っちゃったみたい。一緒に昼食はいかが?」




フランのエスコートで食堂に着くと、すでに伯爵夫妻が着席していた。

長いテーブルの中央に用意された料理は、彩りも香りも素晴らしい。だが、空気は最悪である。


なんだこの重苦しさは。

お二人ともしばらく会わないうちにやつれてしまっている。

いや、やつれの原因は顔色ではなく、目元にあり。

目の下に黒い影を落とし、こちらに向けられた視線には「うちの子がごめんなさいね」と書かれた札がぶら下がっているように見えた。

いえ、すみません。私が泥酔したせいです。

……胃が痛い。ほんとに。


「おじさま、おばさま。昨日は夜遅くに訪問してしまい申し訳ありません。滞在を許可してくださり、感謝申し上げます」


できるだけ礼儀正しく頭を下げる。

が、返ってきたのは妙に張り詰めた声だった。


「いいのよ、ティアちゃん。フランツから聞いたわよ、大変だったわね。……それより、ねえアナタ」


「……あ、ああ。ティアちゃん、昨日はどこに泊まったんだい?」


ああ、来た。来てしまった。

心臓が跳ねる。

嘘でも「客間を借りた」とでも言えばいいのに――。


「あらいやだ、お父様もお母様も野暮ねえ!私の部屋に決まってるじゃない!」


その瞬間、食堂の時が止まった。

伯爵夫妻はもちろん、給仕していたメイドたちまで硬直し、スープを注いでいた一人は見事に手を滑らせ、テーブルクロスにぽたりと染みを作った。

ああもう、やめてくれ。こっちの胃痛の染みが広がる。


「……こんの、馬鹿息子!!!」


「きゃー怖い!」


「責任が取れんのかー!!」


「それを狙ってましたわお父様!」


手を胸の前で組み、目を無駄にキラキラさせて体をくねらせる男に絶句する。

私だって朝「乱れてない」ことを確認して安心したのに!

なぜ自ら誤解されるようなことを言うの!?


「フランツ……。よりにもよって堂々と公言するとはどういう神経だ」


「ええそうよ!せめて『客間に泊まった』くらい言えないの!?何を期待しているの、この馬鹿息子!」


「まぁ、お父様もお母様も、まるで私が不埒なことをしたような言い方じゃなくて?」


「してないのか!?」


「残念ですがしてませんの!私、我慢強い男ですので、まだ清らかですわ」


「腹は真っ黒だろうが…」


その「清らか」発言に、夫妻のジト目が同時に突き刺さる。

……胃薬をください。


気まずさを誤魔化すように、私は手元のスープを口に運んだ。

けれど料理長が腕によりをかけたのだろう、その味は本当に素晴らしい。

クリーミーなスープにハーブの香り。パンは外がカリッと、中はふんわり温かい。

……二日酔いなのに美味しいのが、逆に悔しい。


「ティアちゃん、困ったらいつでも言いなさいね。うちの馬鹿息子が何かしたら、私たちが責任をもって止めるから」


「……ありがとうございます、おばさま」


「そんなに私って信用ないのかしら」


にこにこと紅茶を口元に運ぶフランの横顔を見て、私は深く息を吐いた。

……ほんと、どうしてこの人はこうなのだろう。


昼食はその後も続いた。

おじさまは何度も咳払いをしながら「仕事のことは気にせず、ゆっくりしていきなさい」と言ってくださるし、おばさまも「屋敷で必要なものがあれば遠慮なく言ってね」と優しい。

けれどその言葉の裏に「ただしうちの子には気をつけて」という本音が透けて見えてしまう。


食後のデザートが出てきたとき、ふと気づいた。この屋敷に来てから、私は心は少し楽になっている。


昨日、泣いて、酔って、弱音を吐いて。

フランは「選ばれるんじゃなくて、選ぶのよ」と言ってくれた。

その言葉がまだ胸の奥に残っている。


「さあ、そうと決まれば早く食べてしまって相応の対応をしないとね。ティア?」


パン、と手を叩いて意味深な笑顔を向けてくるフランに、背筋がぞぞっとする。

この人の「相応の対応」が未知数すぎて恐ろしい。


……うまくいかないことばかりの私の人生。

でも、フランといればどんな結果でも楽しいかもしれない。






とは言ったが…。

なんだろう、この状況は。


黒髪を撫で付け、ブラックのフォーマルを着こなしたフランが鼻歌を歌いながら私の隣に座っている。


アーガス伯爵家にいつまでもお世話になるわけにはいかないので、昼食後に荷物を整えて一人でサクッと家に戻る予定だったのに。

気付いたら正装のフランに捕まり、あれよあれよ馬車に押し込まれ、今この状況である。



「…フランツはなぜ正装?」


「なぜって?」


にやりと笑ったフランが、首元のタイをわざと強調するように指で直す。


「ご挨拶に決まってるだろ?ティアのおじさんとおばさんに」


「……は?」


思わず素っ頓狂な声が出た。

いやいや待って待って。

なぜこんなことになっているのだろう。

まさか「相応の対応」ってそういうこと?

おじさまの「責任を取る」に対して「それを狙ってた」って本気だった?

この“鼻歌交じりの正装男”と一緒に?


「だって、ティアは大事なお嬢様だろ?泥酔して転がり込んだまま返すなんて、俺の沽券に関わるだろう。」


「…沽券というほどのものではないかと」


「まぁ失礼ね!」


軽口の裏に隠しきれない真剣さがあるのが腹立たしい。

もう一度整理しよう。



確か伯爵家を出発する時、見送りに出てきてくださったおじさまとおばさまは、肩を並べて立っているものの、まるで心ここにあらずといった様子だったかもしれない。


「ティアちゃん、アレンとセリーナには(わけありの)早馬を出しているから、安心して帰って大丈夫よ。……きっとすぐに我が家に戻ってくることになると思うけど…」


おばさまは微笑もうとしたが、口元が引き攣っていた気がする。

あと、おばさまの声が尻すぼみになって最後まで聞こえなかったけど、その時に何か言っていた?


「……フランツ、貴様、殴られる覚悟でいけよ」


おじさまは低く一言。それ以上は言葉にしなかった。



おじさまとおばさまの視線に耐えきれず、私は小さく頭を下げて馬車に乗り込んだ矢先、フランは私の後ろで軽やかなステップを踏むように乗り込み、扉が閉まると同時に窓越しに手を振る。


「それでは行ってまいります!」


爽やかな声が玄関先に響き渡る。

まるで遠足にでも行くかのような軽やかさ。

……いや、こっちは心臓が潰れそうなんですけど。


窓の外に残るおじさまとおばさまは、そんな息子の様子に、諦めたような、でも温かさを滲ませた視線を交わし合っていた。



おっと、気が遠のいていた。

目の前のご機嫌な男に目を向ける。


黒い髪を撫で付け、きっちりとした燕尾服。

背筋も伸びて、まるで舞踏会にでも臨むような姿勢。

これは、冗談じゃない。

本気で「挨拶」に行く気だ。


「フラン、本当に行くの?」


「行きますとも。それとも、ティアは嫌?」


低く落ち着いた声音に、思わず息が詰まる。

からかいの色を帯びないフランの顔は、驚くほど整っていて、ぞっとするほど真剣だった。


「い、嫌というか……突然すぎるのよ」


「突然じゃないさ。ずっと前から決めていた」


彼は平然と答える。

きっちり結んだタイを指でなぞりながら、黒曜石の瞳がまっすぐこちらを射抜いていた。


「ティアと出会った時から、結婚するって決めてたんだ。今、このタイミングを逃したら一生後悔する。」


「後悔って……なにを大げさな」


「大げさじゃない」


フランはわずかに身を乗り出し、私の手を取り、唇を寄せる。

触れはしない。

ただ、触れそうで触れない距離で、唇が小さく動く。


「君の両親に、俺が君を大切にする人間だと伝える。ティア、俺を選んでくれる?」


にやりと笑う癖はそのままなのに、今は違って見えた。

決意を隠さない男の笑み。


「私、恋人を取られた女よ?」

「そんな男、くれてやれ」

「跡取り同士よ。子爵家はどうするの?」

「どうとでもなる。俺たちの子供に継がせればいいさ。」

「仕事もまだやめられないわ」

「別に今やめなくていい」

「私、酔っ払うと愚痴がすごいわよ」

「可愛いよ」

「あと、あと…」

「ティア」


手を引かれて、フランの腕の中に収まる。

心臓が、耳の奥に移動したくらい大きな音で脈打つ。


「さっきから嫌がってないってことは、同じ想いだって思ってもいい?俺、浮かれちゃうよ?」


フランの答えが、想いが、私の逃げ道を一つ一つ塞いでいくようだった。


「……っ」


声が出ない。

嫌じゃない。

むしろ胸の奥が熱くて、体の芯まで満たされてしまいそうで、言葉が出てこないのだ。


「ティア」


もう一度、名前を呼ばれる。

黒曜石の瞳に吸い込まれそうで、逸らせない。


「俺は、君が酔って倒れようが、愚痴で潰れようが、全部まとめて抱えていきたいんだ」


「……フラン、ずるい」


やっと絞り出した言葉が、それだった。


彼は嬉しそうに目を細めると、からかうように小さく笑う。


「ずるい?だって俺はずっと、君のことばかり考えてたからね。俺を選んでくれる?」


ああ、この人は本気なのだ。

胸がじんわり熱くなり、ふっと体の力が抜けた。

こくりと頷いて、フランの胸にもたれかかる。


「……知らないわよ?私の両親怒ると怖いんだから」


「もう共寝もしちゃったからね。一発くらい殴られておくか~」


「その言い方…。ほんと、私の人生うまくいかないわ」


そう呟いた私に、彼は得意げに笑う。


「俺といると“うまくいく”だろ?」


「……っ!」


思わず息を呑んだ瞬間、馬車が小さく揺れて止まった。

窓の外には、私の生まれ育った家の門。

そして、これから二人で越えていく未来の入り口が、確かにそこにあった。


――どうしてこんなに胸が高鳴るのだろう。

不安も怖さもあるのに、隣に彼がいるだけで前を向ける。


「……フラン」


呼びかけると、彼は迷いのない微笑みを浮かべ、私の手を優しく握りしめた。


その温もりがある限り、きっと――この先も。







【完】







「…そういえばいつのまに口調戻したの?」


「別に俺はずっとこうだったよ?」


「……(嘘つき)…」


ありがとうございました。

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