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校正者のざれごとシリーズ

校正者のざれごと――サリー・アン課題

作者: 小山らいか

 私は、フリーランスの校正者をしている。

 そして、校正と並行して時々問題集の執筆の仕事もしている。小説や論説文のなかから適当なものを選び、それを元に問題を作って解説を書く。

 あるとき、三人称で書かれた小説の一部分に対して、「これは誰の視点か」という問題を作った。私としては答えは主人公だったのだが、編集担当者からは「これは神の視点ということもありますよね」と指摘を受けて、書き直しをした。神の視点。そうか、そういう考え方もあるのか。登場人物以外の誰かの目線で情景などが描かれることもある。

 このとき、ふと思い出したのが「サリー・アン課題」という言葉だ。

 校正の仕事で扱った保育士の資格試験のテキストに載っていたものだ。子どもが他者の視点を獲得できているかを見るもので、内容はだいたいこんな感じだ。

 サリーとアンが同じ部屋にいる。サリーは自分のボールをかごに入れて蓋をし、部屋を出ていった。そのあと、アンはそのボールをかごから取り出し、箱に入れて蓋をし、部屋を出ていった。サリーは部屋に戻ってきて、ボールを取ろうとする。さて、最初にどこを探すだろうか。

 答えは「かご」。サリーは自分が出ていったあとにアンがボールを箱へ移動させたことを知らないので、ボールはかごに入っていると思っている。だが、実際のボールは箱の中にある。ここで問われているのはボールがどこにあるかではなくサリーの視点なので「かご」が正しい。

 しかし、その様子を外から見ている視点(神の視点)では、ボールが箱に入っていることを知っている。なので、まだ他者の視点を獲得する前の小さな子どもでは「箱」と答えることが多いらしい。一般的には4~6歳くらいになると「かご」と答えられるようになるそうだ。

 小説を読むとき(そして書くとき。私はこうしてエッセイを書きながら、たまに救いようのない暗い小説を書いている)、登場人物おのおのの視点を意識する。主人公は知らないけれどもその友人や恋人は知っていること。知らないはずの人の名前を呼んでしまったり、見知らぬ人同士が急に近い距離感になっていたり。そういった違和感がないように組み立てを考える。そして一人称の小説で難しいのは、本人の姿の描写。

 吉本ばななさんの『キッチン』。目にしたことのある人も多いのではないだろうか。私の手元には福武書店のハードカバーの本がある。ずいぶん古びている。ここに入っている『満月』という話は『キッチン』の続きを描いたもので、そこにこんな一節がある。

 ――そんな細い手足で、長い髪で、女の姿をして田辺くんの前をうろうろするから、田辺くんはどんどんずるくなってしまう。

 この「田辺くん」に思いを寄せる女性が、主人公の職場に押しかけて文句を言うシーンだ。私はこの一節を読んで、あれっと思った。『キッチン』から読み進めてきて、自分の中にあった主人公のイメージには「細い手足」も「長い髪」もなかったからだ。一人称の小説では、主人公本人の容姿を細かく描写するのは難しい。主人公を見ている他者に表現してもらう必要がある。 

 唐突だが、私には子どものころから好きだった作家さんがいる。氷室冴子さん。集英社コバルト文庫を代表する作家の一人だった。とくに好きだったのが『なんて素敵にジャパネスク』というシリーズで、平安時代を舞台におてんばな姫が活躍するドタバタコメディだ。大笑いしながら、切ない恋や、子を思う親の心など泣かせる部分もたくさんあった。この本で、当時中学生だった私はずいぶん難しい漢字の読みも覚えた。時代背景から使われる、きざはしきょうそくうちぎなど。すのすごろくなどは現代でも一般的に使われる。

 なぜ急に氷室冴子さんの話をしたかというと、彼女が小説家を志し、自分自身の書く力を高めるためにあることをしていた、という話を思い出したからだ。それは、自分が読んだ小説を、別の登場人物の視点に置き換えて書き直すということ。視点を変えることで、同じ話でもずいぶん印象が変わってくる。そして、別の人物の視点からその小説の世界を描くというのは非常に難しいことだと思う。そうした努力によって彼女は力をつけ、素晴らしい小説をたくさん残した。

『なんて素敵にジャパネスク』の続きをずっと楽しみにしていた私は、あるとき新聞で彼女の訃報を知る。まだ50代初め。若すぎる。そして、もうあの続きは読めないのかとひどくショックを受けたのを覚えている。

「サリー・アン課題」は子どもの心理的発達を知るためのテストではあるが、拡大解釈すると大人にも通ずる部分があると思っている。他者の視点に立って物事を考えるのは、意外と難しい。たとえば、自分では伝えたつもりでも伝わっていないこと。相手が伝えたと思っているのにこちらが理解できていないこと。もちろん、家族や夫婦の間でも。

「あれ、今日弁当いらないけど」「え、聞いてないよ」「いや、ちゃんと言ったよ」

 かといって、さすがにこんなとき「サリー・アン課題」を持ち出すのはいかがなものか。ただのコミュニケーション不足なのでは。いや、認めたくないけど記憶力の衰えか。  


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 子供のうちに誰しも言われることですよね「相手の立場になって考えよう」と。  大人になると「多種多様で多角的な視点」と言われるように。  使われるシチュエーションは違えど本質は同じではないでしょうか。…
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