第8話
大変長らくお待たせいたしました。そして、大変申し訳ありませんでした。
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ビューラルヘン嬢は中庭の噴水近くのベンチに腰かけていた。
今日の彼女はいつもつけている眼鏡を外して、冷酷な臙脂色の瞳をあらわにしており、さらにはいつも一つにまとめていて少しぼさぼさな茶髪は、髪をまとめずによりぼさぼさになっている。
何故かはわからないが、この姿にボクは胸の高鳴りを大いに感じた。
でも、明らかにやつれている姿を見て罪悪感がわいた。多分これは昨日のボクのせいなんだろうなあと呑気なことを思ってはいたが。
───────そう、ボクは昨日、恐らく彼女を大いに傷つけた。
昨日ボクは彼女に、「ルナは愛妾か愛妃、または側妃にするので、ビューラルヘン嬢には婚約を解消せずに表向きはボクの唯一人の正妃となってほしい」という内容の契約を持ち掛けた。
すると彼女は「僕」ですらも見たことがないほど激昂してボクと口論になり、その時にボクが言った言葉のうちのどれかで傷ついたのだろう、目に光がなくなり、無表情になった。終いにはボクのことを無視してフラフラと帰っていった。
何に傷ついたのかは分からない。でも、申し訳なくは思っている。
だからせめて、謝罪してから探りを入れたり契約の催促をしたりしようと考えている。
ボクが彼女の目の前に立っても彼女は気づいていないかのようにぼうっとしていた。虚空を見つめる瞳は冴え冴えと光っていた。
その眩いほどの光が急に恐ろしくなったボクは、謝罪のことをすっかり忘れてしまい契約のことについて話そうと気が急いた。
「ねえビューラルヘン嬢、昨日の契約のこと、答えは出た?」
急に話しかけたが、彼女は全く驚いた様子もなく、只管無表情だった。
「‥‥‥‥ええ、殿下。ワタシは契約を受け入れましょう。但し、幾つか条件があります」
「何だい、条件って?」
そう聞くと彼女は不敵に微笑んでこう言った。
「一つ目は、契約のことはエヴォベアン嬢にも言わないこと。二つ目は、エヴォベアン嬢以外に愛人や愛妾を作らないこと。三つ目は、ワタシと関わるのは必要最低限にすること。この三つです」
なんだ、そんなことか。
というか、わざわざ契約するまでもなくどれも遵守するとは思うが。
「分かった、条件を受け入れよう」
彼女はそれを聞いて増々笑みを深くし、二枚の書類を提示した。
「こちらにサインをしてください。証人はいませんが、物としての証拠としてこの書類があります。この二枚は同じものですので、片方は殿下、もう片方はワタシがそれぞれもらい受けるので、きちんと保管してくださいね」
「ああ、分かった」
言われた通りにサインをして、片方の書類を貰い受けた。
ボクが何をしていても何とも思っていなさそうな表情を浮かべるビューラルヘン嬢を見て、ふと気づいた。
今日、ボクは「僕」にとって彼女が──ミハーリア・ビューラルヘンがどういう存在だったのかを探りに(ついでに契約の催促をしに)来たのだ。
けれども、ボクは─────ボクには分かるわけがないのだ。「僕」がそう訴えかけている。
ボクの中で眠っていて、虫の息ほどでしかないであろう「僕」の意識がそこまで強く訴えるので、彼女をよく見てみる。
見てわかるが、いつもと全く違う格好だ。そして妙な感じがする。例えるなら、「僕」が感じた、ボクの違和感のような‥‥‥‥‥‥‥‥。
まさか、あり得ない、いや、でも‥‥‥‥‥。
頭が理解するのを拒否している。でも多分そういうことなのだ。
「『ミハーリア・ビューラルヘン』も『ルハロ・エヴァルノール』と同じ状況になった」のだ。
通りで分からないはずだ。もう彼女は元の『ミハーリア・ビューラルヘン』とは似て非なる存在になったのだから。
以前の彼女ならば探れたが、今は‥‥‥‥‥。
諦めよう。いくら彼女が以前と違うからと言って、全然違うことを言うわけではないだろう。ここは直接聞いた方がいいな。
「ねえビューラルヘン嬢、君にとって『ルハロ・エヴァルノール』は─────いや、私はどんな存在なんだ?」
すると、彼女は不思議そうな表情を浮かべてこう言い放った。
「何をおっしゃいますか、殿下。ワタシにとって貴方様は今後関わりが薄くなるだけの、婚約者という名の他人です」
──────────え?
読了ありがとうございました。