隠された記憶
「海棠、あんたたも知っているでしょう。私はずっと、あんたの一部だったのよ。」ベッドの上で、リリアンは足をぶらぶらと揺らしていた。
「……じゃあ、あんたは何なの?」海棠は線を引きながらそう返したが、リリアンが今どんな表情をしているのかは見ていなかった。
「つまりね、いつか私はあんたの深層意識へ戻る。そうなれば、この姿も、あんたの前から消えるってこと。」世間話でもするかのような、のんびりとした口調だった。
「……」その言葉を聞いた瞬間、海棠の手は止まった。
彼女は筆を置き、今度はしっかりとリリアンを見つめる。
相変わらず、瓜二つの顔。
相変わらず、無造作に肩へ流れる大きなウェーブの髪。
相変わらず、何も気にしていないような佇まい。
それでも、どうしても聞かずにはいられなかった。「……どうして、消えるの?」
「うーん……私にも分からない。」リリアンはどこか神秘的な苦笑を浮かべる。「特別なきっかけが必要なわけでもないみたい。時が来れば、消えるのよ。」
そして続けて言った。「こういうこと、私たち……も経験してきたでしょう?」
「……どういう意味?」海棠はその言葉を理解できなかった。
だが、リリアンはその神秘的な笑みを崩さず、ただ一言だけ残す。「いつか、分かるわ。」
「え?」月光と星児が、同時に声を上げた。
海棠もまた信じられずにいた。
そのとき、リリアンの言葉が、まるで幽鬼のように――忍び寄るように、再び彼女の脳裏へと侵入してくる。
今が、その時なの?
雨水の声が、海棠の思考を遮った。「機器ですら何も検出できなかったのに、おまえたちは直感だけでそう断定したのか?それに……あの身体を流れる魔力も、明らかに他とは違っているだろう。」
その言葉を聞いた瞬間、海棠は無意識のうちに拳を強く握り締めていた。
リッツとリサの二人は、いかにも自信に満ちた様子だった。とりわけリサは胸を張り、こう言い切った。
「たとえ僅かであっても――私たちは、母上様から受け継いだ特別な『認定者』の力を、決して見誤りません。それに、母上様ご自身からも教えられてきました。母上様が唯一指名なさった継承者を、そうして守り、認めよ、と。」
「……彼ら、一体何を言っているんですか?」月光は思わず、星児に小声でぼやいた。
「アスモデウス家の機密ってやつか?だが本当に、自分たちの言葉に確信があるのか?」雨水の視線は鋭く、声も次第に強まっていく。
「この女は、自分が人間だという認識をはっきり持っている。人間の母から生まれ、人間の家庭で育ち、人間社会の価値観を刷り込まれてきた――どう見ても、正真正銘の人間だ。お前たちのその血統認証とやらも、正直あまり信用できないな。」
「……それは、確かにその通りです。」海棠はどこか諦めたように頷いた。
「ならば、今ここで血統証明を行いましょう。」リッツが静かに言った。「この儀式が、私たちの言葉が真実であることを証明します。」
「それは……」海棠は言葉を濁し、どう返すべきか分からずにいた。
「……確かに、事実は雄弁だ。」雨水の声はさらに冷え切っていた。彼は常に、現実主義者だった。「とにかく、一度やってみればいい。損はない。」
リサは人の良さそうな笑みを浮かべた。だが、海棠は気づいていた――自分の手を握るその力が、異様なほど強いことに。その態度は、あまりにも強引だった。
立秋と大暑は終始、傍観していた。大暑は何か言いかけたが、結局、立秋に制止されてしまう。
やがてリサは、自らの首元に強く、そして艶やかな桃色の魔力を流し込んだ。魔力を帯びた彼女は、より一層魔性を宿した存在となり、その姿は場にいる男性たちを無意識のうちに引き寄せていく。
それはまるで、教訓を与えるために仕掛けられた童話の罠のようで、一度踏み込めば、己を責めるほかない類のものだった。
ほどなくして、リサの首元には、山羊の装飾品を思わせる桃色の痕が浮かび上がった。その痕からは絶え間なく魔力が溢れ出し、存在しないはずの獣へと警告を放っているかのようだった。
他の者たちが特に気にも留めない中、海棠だけは、癒しようのない渇きに囚われたかのように、苦悶の表情を浮かべていた。
声を上げることすらできず、彼女は無意識のうちに自らの首を強く掴み、荒く息をする。
その渇きは、何をもってしても満たされないようだった。
月光、星児、そして大暑は慌てて駆け寄り、海棠を助けようとするが、効果はない。
彼女の顔色はみるみる蒼白になり、瞳から光が失われ、手足にも力が入らなくなっていく。走馬灯のような光景さえ、彼女の視界にちらついた。
立秋は冷や汗を浮かべ、喉を鳴らして唾を飲み込む。その場で冷静さを保っていたのは、雨水、リッツ、そしてリサだけだった。
リサの唇には、奇妙な笑みが浮かんでいた。それはまるで、舞台を終え、余裕と歓喜に満ちた――最も優れた主演女優が見せる笑顔のようで。
その姿は、人の情を欠いた悪魔そのものだった。
海棠は、ようやくあの生死の境を越えた。だが、それでも――何一つ理解できていなかった。
茫然とした青白い顔。
焦点の合わない、かすんだ双眼。
喉の奥に居座り続ける吐き気と、口元に残る白い泡。
そんな彼女の視界に映っていたのは、まるで新しい生命の誕生を祝福するかのように、この上ない歓喜の表情を浮かべる二人と、絶えず揺らめき、不安を掻き立てる桃色の魔力だった。
首元に残る締めつけられるような感覚は消えず、思考は終始混濁したまま。それでも、彼女は――やはり、何も分からなかった。
その後の展開は、ドラマのようには進まなかった。満面の笑みを浮かべていた二人は、海棠を連れ帰り、血縁を認めさせるようなことはせず、むしろ、彼女がゆっくりと受け入れるための時間を与えた。その態度は、拍子抜けするほど穏やかで、開明的ですらあった。
ただし、リッツは最後に、まるで警告のようにこう言い残した。
「だが――あなたが我が家の人であるという事実だけは、決して変わらない。……それでは、おやすみ。」
その後、海棠はしばらく、残された三人と視線を交わし続けていた。
「……まさか、本当だったとはな。」雨水は感慨深げに呟き、問いかける。「自分に、何が起きたのか……分かっているか?」
海棠は、疲労のあまり声すら出せなかった。頭の中は完全に混乱しており、ただ小さく首を横に振ることしかできない。
「となると……処理しきれない謎が山ほどあるな。」雨水は顎に手をやった。「何か、関連する記憶は?」
海棠は必死に記憶を探った。だが、そこにあったのは、脳裏を常に漂う濃霧のような、曖昧な感覚だけだった。
彼女は、またしても無言で首を振る。
これ以上聞いても仕方がないと判断したのか、雨水はそう言って締めくくった。「……この件は、改めて調べてみる。もう遅い。今日は皆、戻って休め。」
身も心も限界だったが、こんな出来事のあとで、海棠が眠れるはずもなかった。彼女は、生まれて初めて
「疲れ切っているのに眠れない」という状況を味わっていた。
彼女は月光と星児の部屋をノックし、外へ気分転換に付き合ってほしいと頼んだ。
三人が向かったのは、近くの公園だった。
時刻はすでに午前三時。
そこには人の気配は一切ない。
道端の草むらから聞こえる虫の声だけが、妙に大きく、そして心地よく響いていた。この時間帯なら、酔っ払いも警官も通らない。
月光は、どこからか蝉の抜け殻を見つけてきた。「ねえ、見てくださいよ。蝉の抜け殻ですよ。」
「小学生かよ。」星児はそう言いながらも、ためらいなくそれを受け取った。
「よく素手で触れるね。」海棠も思わず突っ込む。
「……なあ。」月光がふと思い出したように言う。「隊長、あのとき……本当は、まだ言い切ってなかったと思わないですか?」
二人は同時に頷いた。海棠も同意するように口を開く。「うん。ただの“暴走”ってだけじゃない気がする。」
「でも、今は全部まだ霧の中だ……あいつもきっと、考えがあるんだろう。気分を変えよう、アイス食べない?」星児はそのまま別の話題に切り替え、豪快に言った。「俺のおごりだ。」
そう言うと、星児はまるで鳥に餌をやるみたいに、アイス大福を海棠の口元に差し出した。
「自分で食べられる。」海棠は不機嫌そうに大福を奪い取った。
月光はビニール袋から冷たい飲み物を取り出し、星児に手渡す。靴を脱ぎ捨てると、大胆にブランコに乗って漕ぎ出した。口にはまだアイスを咥えたまま。「押してなさい。」
星児は言われるままに押したが、月光はバランスを崩し、ブランコから落ちてしまった。夏の蒸し暑い夜、二人はまだお互いに意地悪をし合える。汗をかくことでしか、涼しさを得られないのだ。「お前、本当にブランコ漕げるのか?」
「わざと落としたでしょ!」
「うるさいよ、もう十分暑いんだよ。」海棠の手の大福も、溶けかけているようだった。
「ねぇ、立夏月光。君、本当に自分の記憶が戻ること、気にしたことないの?」海棠は突然、月光に答えを求めた。
「そりゃあ、もちろん……」月光は急に黙り込む。「まあ、以前がどうであれ、別に構いませんが。」そして再びブランコに立ち上がり、挑戦を続ける。今度は星児も、事故を防ぐためにそっと押した。
「以前は、ただ思いっきり戦って、食べて、寝られればそれでよかったのです……でも……」月光は、かつて少しだけ大暑が嫌っていた相手に話してしまったことを思い出す。
大暑がそれを口にしたかどうかは分からない。「あのミカエルってやつを思い出してから、もうのんびりしていられない気がしてきたんです。」
星児は押す力を少し強め、月光のブランコはさらに高く揺れる。風が吹き、野草や小さな花がそよぐ。
蒸し暑さもあって、三人の体には薄く汗が浮かぶ。「でも、今の自分はどうすればいいのか、分からないんです……これが、迷いってやつですか?」
二人はしばらく沈黙した後、失礼ながら答えた。「頭空っぽかと思ったけど、意外と気にしてるんだな。」「考えは、想像以上に繊細だ。」
「うるさいですな!」月光のブランコは、怒りで激しく揺れ、また落ちそうになった。
「アイス食べ終わったら帰ろう。」海棠が提案した。
月光が口の中のアイスを食べ終えようとしたとき、突然激しい頭痛が襲った。
金髪の姿が脳裏にチカチカと映る。
月光は再びブランコから落ちた。
「おい、大丈夫か!?」「平気か!?」月光は必死に意識を保つ。やがて、テレビの砂嵐のようにぼんやりしていた景色が、脳裏で少しずつ鮮明になっていった。
「またここで祈っていらっしゃいますか。」頭の中に声が響く。声の主は――自分自身のように聞こえた。
その人物は、まるでおとぎ話のような金色の長髪を揺らしていた。その言葉が皮肉めいていると分かっていても、彼は振り向かず、ただ熱心にひざまずいて祈り続けている。しかし、その声には告げ口のような響きもあった。「貴方は、なぜ宴会を抜けたのだ?」
「もう言ったでしょう。行きたくないのです。どうして私たちは、ただの土の塊を拝んで崇めなければならないのですか?あなただって、自分が高貴なる火の子であることは分かっているでしょう。」
「それは父さまの御意思だ。父さまに誤りなどない。このすべては、運命の定めに従ったものだ。」その後の言葉は懇願めいていた。「父さまも言われた。もうお前を、あの連中――と混ぜてはいけない、と……」
「…..私は最近そうは思わないのです。たとえ父さまであっても、一瞬の過ちというものはあるはずです。だから私は拒んだのです。父上の意志を拒んだのです。」
金髪の男は緊張し、声を強める。「それは冒涜だ……!父様は疑うべき存在ではない!もし、この言葉を他人が聞いたら……」
「聞こえたなら、聞こえたで構いません。私はもう、すべてにうんざりしているのですから。もう行きますよ。今ここに来たのは、ただあなたに会いに来ただけです。では、さようなら。。」
「……ルシファー!」背後で声が響く。
大扉の内側から、何か物音がした。
激しい頭痛は徐々に引き、月光は茫然自失した。二人が震える彼を支える。
星児が問う。「おい、急にどうしたんだ……」
海棠も思わず尋ねる。「病院、行った方がいいんじゃない?」
月光は一瞬、悪鬼のような憎悪に満ちた目を見せ、二人を押しのけ、冷たく言い放つ。「大丈夫です。」
再び思い出した記憶が、彼に告げる。
このことを、誰にも話すつもりはない――たとえ、どんなに親しい者にでさえも。




