月神教の教徒である立春満
鏡に映った六日は、今にも倒れそうなほど疲れ切った顔をしていた。用を足したばかりの彼女は手を洗いながら、ウェイウェイにぼそりと漏らす。
「出場してないのに、なんでこんなに疲れてんだろ……」
「ルールが人をいじめてるとしか思えないよね。」ウェイウェイも苦笑しつつ肩をすくめる。「でさ、汝はいつになったら出番くるの?」
「まあ、公会代表戦って七日間連続でも、一度も出場しないで終わることもありえるらしいけど……最終日の“傲慢”は団体戦だから、そこでやっと活躍の場があるって。」六日は手を拭きながら答えた。
「早く戦いたいんだけどねぇ。もうあの変異種どもを弄びたくてウズウズしてるんだ。」悪魔らしい破壊衝動に駆られ、ウェイウェイは拳を握る。「今回の主力はまたグリフォン様なんでしょ?」
「うん。でも冬森先生にも言われたけど、私が今頼れる魔獣はまだまだ少ないんだって……」
「じゃあ今から特別に捕まえに行くってのはどう? この前の一群のウォーターホース、よかったじゃん。主人の命令もちゃんと聞くし、攻撃性も十分。汝、あの種族にはだいぶ好かれてるでしょ?」
「うーん……言われてみれば、確かに……」ウェイウェイの提案を受け入れ、どう動くべきか考え始めた六日。しかし、その行く手を三つの黒い影が塞いだ。
フードを深くかぶった三人の人物。悪魔公会の服装規定を満たしているとはいえ、その格好は現代とはかけ離れていて、どこか不気味だった。三人のマントには、揃いも揃って“月を抱える魔の爪”の紋章が刻まれている。
まるで黒雲に光を奪われた月――
光なき夜を象徴するかのようなその姿は、不穏そのもの。一歩間違えれば、悪夢となって襲いかかってきそうだった。
「ん? なんで道塞いでんだよ?」ウェイウェイが不機嫌そうに言い放つ。
「そんな言い方しちゃダメだよ……。あの、すみません……道を塞いじゃってるので、少しだけ通してもらえませんか……?」六日はウェイウェイを制し、丁寧に頼み込んだ。
ところが、その三人のうち――明らかに唯一の女性が前に出て、六日の両手をがしっと掴んだ。距離感ゼロの、異様なまでの親密さ。
一瞬で汗毛が逆立ち、鳥肌が走る。
“これはやばい”という直感が脳を突き刺したが、女の腕力は異常に強く、六日は振りほどけない。
女の声は、まるで蛇が耳元で這うような囁きだった。背筋が凍るほどねっとりと、六日に絡みつく。「“666様”……まさか、あなたが無事でいらしたなんて。」
666? 何それ?
六日の心臓は急にタップダンスのように暴れ、脳が高速回転し始める。どうにか逃げる方法をと必死に思考しながら震える声で返した。「な、何の……話ですか? わ、私には……さっぱり……」
すると、高身長の男が一歩前へ進み、頭の皮をぞわりとさせるほど誠実な態度で告げた。「今は思い出せなくとも……あなたこそが“666様”です。」
続いて小柄な男も口を開く。「我々は、ずっと……ずっとあなたを探しておりました。」
そして三人同時に、地面に膝をつき、皇帝の前の家臣のように深く跪いた。
六日は完全に面食らう。「わ、わたし……?」
「さあ、我々と共にお戻りください。“教主様”もあなたをお探しで……お会いできる日を心より渇望しておられます。……お戻りになれば、すべてがわかるでしょう。」そう言い終えると、彼らは六日を強引に抱え上げようとした。
「ちょっ……やめっ……!」ウェイウェイが止めに入るが、高身長の男に蹴り飛ばされ、壁に叩きつけられてそのまま気を失った。
「ウェイウェイ!」六日はグリフォンを召喚しようとするが――呼べない。
三人の身体から、ぼんやりとした光が漏れている。どうやらその光が六日の魔力を阻害しているらしい。
六日が必死にもがけばもがくほど、三人の動きもぎこちなく歪められていく。
そのとき――救世主が現れた。「満さん!」
六日の目に一筋の希望が灯る。さっきまでの柔和さは完全に消え、今の満は――まるで獲物を仕留めに来た狩人だった。
鋭い視線に六日は声を失う。
女が歪んだ声で叫んだ。「立春……!今度こそ、あなたの邪魔はさせない……!」
立春……?。どうしてあの人たち、あんなに親しげなの?芽を出す悪い予感が、六日の胸の奥を冷たくひっかいた。
満はまるで六日を知らないかのように、機械のような無機質な声で告げた。「邪魔はしないよ。私たち“月神教”には、確かに彼女が必要だから。前回はよくわからなかっただけで……まあ、今は全部理解した。」
その一瞬、六日はまるで崖から突き落とされたような気がした。
――じゃあ、今までの満の言葉は全部嘘だった?
――すべては自分を罠に落とすための芝居だった?
――あの優しさも、温度も、一つも本心じゃなかった?
月神教とは何?
なぜ、自分は訳もわからぬ宗教に巻き込まれている?
絶望の章はここから始まる。
満はどこか諦めたようにため息をつき、指を鳴らした。「……失礼。」
気づけば、昨日から袖口に寄り添っていたあのタンポポの綿毛が弾け、花粉が空中に舞い散った。六日の視界はぐるりと回り、夢への渇望が胸に満ちる。心の最も柔らかく、守られた部分がえぐり取られるように、六日は過去の夢へと落ちていった。
――情の薄い父。
――波乱の人生を送り、若くして亡くなった母。
――忘れさせられた初恋。
――大切な家族になったはずなのに、火事で失われた叔父や叔母。
それらが映画のフラッシュバックのように次々と押し寄せ、六日の心をぐちゃぐちゃにかき乱した。満は容赦がない。それは六日にとって何より苦い記憶の数々だった。
父はいつも、六日に“万人の憧れ”のような存在を求めた。優しさも厳しさも、どこか私情にまみれていた。六日は幼い頃から父の身勝手さを知っていた。
母は……ただ父にすがるしかなかった。彼を責めることは決してなかった。
「お父さんは、みんなのために頑張っているのよ。」母はそう庇うばかりで、その“みんな”に六日がいるのかどうか、もう誰にもわからなかった。
母は疲れ果てて、病院を住処にするようになり、そして……逝った。
愛してくれたはずなのに、記憶は薄れていく。
閉じられ、棚にしまわれ、埃をかぶっていく一冊の本のように。
――だが、それはただの序章にすぎなかった。
アレックス叔父以外の家族は火事で消えた。父は何かを悟ったように姿を消した。
初恋は、弱かった自分を守ってくれて……そして消えた。秋風のように寂しく、冷たく。
六日は最後に力尽き、地面に崩れ落ちた。呼び起こされた物悲しい記憶が、彼女を押し潰す。
六日は、自分が溶けた蝋になり、激流に流されていくように感じた。抗えず、ただ流されていく。
光が闇を裂き――そしてまた闇が静かに覆い尽くす。
この期間の記憶は、何も残らない。すべて流され、溶け合い、境界を失い――
最後には、自分が誰なのかすら、わからなくなっていった。
白い光が風景のすべてを覆い尽くし、世界そのものが激しく揺れているかのようだった。視界に映るものは、すべて曖昧で、輪郭を失っている。
「どうやって、その能力を身につけたんだ?」正直、誰がそう尋ねたのかはもう覚えていない。ただ、それが異様に蒸し暑い午後だったことだけは、はっきりと記憶に残っている。
秋の残暑が突然ぶり返し、陽光が大地を焼き、上着は汗で湿っていた。話題も、きっと偶然にそうなっただけだ。
ては、取るに足らない偶然から始まった。
自分は、どうでもよさそうに答えた。「うん……たぶん、そんな感じだったと思う。」
今となっても、その言葉は曖昧なままだ。
なぜこの力が芽生えたのか――本人ですら、よくわかっていなかった。
適当に返したその言葉に対し、相手の声にはどこか好奇心に満ちた喜びが滲んだ。まるでカエルがハエに引き寄せられ、大きく口を開くように――
そして、人生を左右する言葉を口にした。「それはすごいね。きっと、その能力はもっと伸ばしたほうがいい。」
蒸し暑い風が吹き抜け、胸元はさらに湿っていった。
他人の心の奥底を掘り起こし、幻覚によって痛みを増幅させる。
その媒介は、普段使っているありふれた幻覚と同じ――タンポポの花粉。
普段はシャンパンの魔酒を使っているように見えるが、あれもすべて、タンポポの花粉が生み出す幻覚にすぎない。
誰であろうと、容易く騙される。
まるで子どもが植物を弄ぶように、その破壊力は計り知れない。
疑いようもなく、この能力を使われた者は、即座に戦闘不能となり、他人の意のままに操られる。
糸の切れた人形のように地面へ崩れ落ち、魂を失ったかのように思考を止めた六日を見て、満はわずかな罪悪感を覚えた。彼女を支え起こそうとしながら、かつてと同じ、優しく頼もしい声で告げる。「……ごめんね。でも、すぐに終わるから。」
「何してるんですか?!」いつの間にか月光がその場に現れていた。殴りかかろうとしたものの、満は軽々とそれをかわす。
その隙に、あの三人組は義理も何もなく姿を消していた。
悔しそうに舌打ちする月光――彼らにそれが聞こえたかどうかは、わからない。
月光と満はすぐに、まるで万劫不復の状態に陥ったかのような六日を落ち着かせようとした。海棠は六日を抱き寄せ、星児は二人をかばうように前に立つ。
かわされた勢いで壁に激突した月光は、背中を打った痛みなど意にも介さず、抑えきれない怒りを爆発させた。「あなたを地球のへそになるまで、叩き潰して差し上げます……」その形相は、まるで獣のようだった。
満は、あの不気味なほど眩しい笑みを引っ込め、鼻で笑う。「ほぉ……ここでやるって?」
二人がその場を文字通り修羅場に変えようとした、その時――救世主のようにアレックスが現れた。「はいはい、そこまで。現場をひっくり返すのはやめてくれ。」
六日が危うく被害に遭ったというのに、彼の口調はどこまでも軽い。「その子、私が連れて行っていいかな?病院で診せたいんだ――お姫ちゃんをね。」**




