晩餐会
月の光が皎々(こうこう)と降り注ぎ、世界は一面の静寂に包まれていた。まるで、さっきまで繰り広げられていた激しい戦いなど最初から存在しなかったかのように。闘技場は閉ざされ、小さなカエルの鳴き声だけが夜気の中に響いている。
「くそっ……くそっ……」普段は冷静というより、どこか冷淡な印象のある雨水が、壁に向かって何度も拳を叩きつけていた。今回は誰も止めようとしなかった――いや、止められなかった。三人とも心身ともに疲れ果て、言葉を発する力すら残っていなかったのだ。
「いってぇ!」月光が痛みに顔をしかめながら、海棠の乱暴な手当てに抗議するように声を上げた。
「ごめん……」海棠は小さく呟いた。それはただの謝罪ではなかった。包帯を巻かれた星児も、ぼんやりと天井を見上げながら、人生そのものを疑い始めていた。
――正直、今すぐ家に帰りたい。けれど、リズ兄貴が「この数日いないと寂しい」と言っていたのを思い出し、唇を噛んだ。
ドゴッ――
壁がついにひび割れ、崩れた。
雨水は無言のまま、真っ黒な表情で三人の方へ歩み寄ると――いきなり三人をビリヤードの球に変えて、テーブルに叩きつけた。
「うわああああ!!!」三人はすぐに反応し、台の上で目を回しながら悲鳴を上げた。
「本当に悪かったってば!!!」海棠が叫び、
「ゆ、許してくれぇぇぇ!!」星児も涙声で懇願した。
だが、雨水は一言も発せず、ただ無言でキューを振り続けた。
休憩室の中には、ホラー映画さながらの絶叫と、激しくぶつかり合う球の音が響き渡り、濃密な火薬のような空気が立ちこめていた。
あまりの騒音に、通りすがりの者たちも思わず足を止める。
「……もうご飯行っていい?」しょうちゃんとトビーが恐る恐る尋ねた。
「もう少し待て。――この一局が終わるまではな。」雨水の手つきはますます荒々しくなっていった。
「うああああああ―――!」痛ましい悲鳴は、まだ続いていた。
ギルド戦の夜には、毎晩ビュッフェ形式の晩餐会が開かれる。これは、家に帰る暇もなくホテルに泊まる悪魔たちへの夕食の提供が目的……なのだが、スポンサーの気前が良すぎて、どの料理も豪華すぎるほどだった。まるでスポンサーが財力を誇示しているようだ。
この晩餐会は多くの資産家たちが出席する交流の場でもあるため、誰であれ正装を求められる。恥をかかず、そして強者たちの情報交換の場にうまく紛れ込むためでもあった。
月光と星児は、雨水が特別に用意した英国風のスーツに身を包み、髪をオールバックに整えていた。「おでこ、めっちゃ広く見えるんだけど……」と星児がぼやく。
「そんな田舎者みたいなこと言わないでくださいよ。」と月光がすかさず突っ込む。
そしてカトリーナの“丁寧すぎるおめかし(という名の拷問)”を終えた海棠が姿を現した。パンツスーツ姿で現れた彼女は、普段の印象とはまるで違い、艶やかで上品。いつも三つ編みにしていた髪は、ふんわりとした大きなカールに変わり、前髪も整えられ、おとなしく額におさまっている。顔の半分を占めていた大きな眼鏡はコンタクトレンズに替えられ、もともと印象的だった大きな瞳がいっそう際立っていた。血色の悪い青白い頬も、淡いピンクのメイクで見事にカバーされている。
パンツスーツは痩せた体型を美しく引き立て、まるで小さなアヒルが白鳥へと変わったかのようだった。三人は思わず息をのんだ。特に星児は口をぽかんと開けて言った。
「おまえ……こんな顔してたのか……?」
「正直、私もびっくりしてる。」と海棠が苦笑する。
「何をおっしゃっているんでしょうか?」と月光がまた突っ込む。
「わ、私……こんな格好して大丈夫かな……? ちょっと派手すぎない……?」と不安そうにカトリーナに尋ねる海棠。
華やかなドレスに身を包み、完璧なメイクで仕上げたカトリーナは、にっこり微笑んで答えた。「女の子が綺麗にしてるのを“出しゃばり”なんて言うのは、まともじゃない人だけよ?」
自分の愚かさに気づいた海棠は、静かに口を閉じた。
「普段はだらしなくて無頓着に見えるけどね、今回は自分をちゃんと飾るいい機会だと思うよ。」と雨水が言った。
「でもさ、そんなの面倒くさいよ……化粧の準備なんて一人じゃ無理だし。この二人なんて一時間で全部終わってるじゃん、メイクまで……」
「それはおまえに化粧の習慣がないからだよ。――ねえ、立夏月光、少しファンデでも塗ったらどうだい? 顔色がやけに悪いよ。」
「必要ないでしょう。」と月光はそっけなく返す。生まれつき整った顔立ちに自信があるのだ。
「じゃあ、せめてアイシャドウでも。負けるにしても見た目では負けるなよ。」
「ちょっと見てみたいな。」と星児も興味津々に言う。
「化粧ってね、女の子だけのものじゃないのよ。」とカトリーナが軽く笑った。
「うぅ……」海棠は完全に降参したようにうなだれる。準備を終えると、五人は宴会場へと向かった。
「ねぇ、晩餐ってさ、何が食べられるの?」と海棠がまたも口を開く。
「おまえの羞恥心だ。」雨水が即答した。
海棠は申し訳なさそうに肩をすくめ、その姿はまるでアニメ『ノートルダムの鐘』の主人公のようだった。
宴会場に到着すると、そこは深いワインレッドを基調とした高級なクラシカル空間で、米酒色の模様が床や壁を舞うように広がっていた。すでに多くの人々で埋め尽くされており、どうやら月光たちは最後に到着したらしい。
テーブルには数えきれないほどの料理が並んでいた。ティラミス、赤ワイン、子牛のステーキ、トースト、パスタ……。
海棠は目を輝かせ、フォークでクロワッサンを威嚇するようにカチカチと鳴らした。
星児は周囲を見回し、そこに渦巻く様々な感情――嫉妬、悔しさ、利得への欲望――を感じ取る。明らかに会場には見えない波が流れていた。胸の鼓動が早くなり、海棠や月光のように食べ物に夢中になれず、お腹がぐうと鳴っても、彼はただその場に立ち尽くすしかなかった。――後になって思えば、この夜、星児はほとんど何も食べていなかった。
雨水はカトリーナの腕を取り、まるで湖の上で優雅に舞う白鳥のように、二人並んで席へと着いた。
「本当に多いですね。絶対に食べきれないですけど。」月光はこれまでビュッフェというものを見たことがなく、思わず感嘆の声を漏らした。目の前の料理を眺め、ローズマリーの香りが漂う最後のラムチョップに目をつけた。だが、フォークを伸ばした瞬間、それは誰かの素早い手に奪われてしまった。
「おい……」月光は文句を言おうとして顔を上げたが、相手を見て言葉を失った。奪ったのは、今日の唯一の勝者——渡瀬 寒だった。
周囲では穏やかなジャズが流れているというのに、彼の瞳は今なお戦場の只中にあるかのように鋭く、警戒と威圧に満ちていた。その視線に射抜かれ、月光はすっかり興ざめしてしまい、揉め事を避けて譲ることにした。だが渡瀬は不意に口を開いた。「今日はルシファ会、ついてなかったな。」
その一言に、月光は危うくトングを落としそうになった。
確かにその通りだ。
しかし、わざわざ自分たちを嘲笑いに来たですか?
周囲でも、ルシファ会の面々が現れて以来、その話題で持ちきりだった。中にはくすくす笑う声さえ混じっている。
正直、月光は怒鳴りたかった。だが、ここで怒るのはあまりに無粋だ。
彼はまだその程度の分別はあった。
「おまえの中には、吐き出せない怨嗟が渦巻いているようだな。」嘲笑というより、何かを見透かしたような声音だった。
月光は手にしたトングを握りしめ、数歩離れた。だが渡瀬は何も取らずに、ぴたりとついてくる。まるで意図的に距離を詰めるその様子に、月光の苛立ちは募る。
。
「……あの、こうやってついて来られると、食べづらいんですけど。」不機嫌さを隠さずに言うと、渡瀬はまた黙り込んだ。無言のまま、ただ答えを待つように立ち尽くす。
(この人、会話の仕方知らないのか?)月光はため息をつき、そっと離れようとした。
その時、渡瀬がぽつりと呟く。「隠すつもりか? 心の渇きを、癒せない現実を。」
……渡瀬は本当に、言葉を選ぶということを知らない。
「ですからね、こうされると、本当に食事できないんですよ。」月光の声には、もはや苛立ちが滲んでいた。
渡瀬がまた何か言おうとしたその瞬間——いつも穏やかな笑顔を浮かべる少女が、苦笑しながら彼の腕を取った。
「お兄ちゃん、新しい味のアイスがあるよ。行こう?」甘えるような声。まるで救いの天使だ。月光は思わず、心の中で彼女に感謝した。
もちろん、少女の目的はアイスではない。だが渡瀬は気づかないようで、「俺、アイスは食べない」と無表情に言った。
「そんなこと言わないでよ。あれはみんながまだ見たことない新しいフレーバーなんだから。うちのバイト先でも売ってないんだよ? ね、ちょっと味見してみようよ。ついでに兄さんにも評価してもらって、あとで店長に提案してみるからさ。」彼女はなんとか渡瀬を説得しようと、必死に言葉を重ねた。もう少しで戦争が起きそうな気配を、どうにかして止めようとしている。
渡瀬は多弁な少女を一瞥し、ため息混じりにその手に引かれていった。二人が向かったのは抹茶キャラメルクッキー味のアイスクリームのコーナーだった。
本当は月光も食べてみたかったが、どうやらその新フレーバーとは縁がなかったらしい。惜しい。そう思うと、口の中のローストチキンも急に味気なく感じた。そんな時、月光は食事をしている六月を見かけた。
六月たちは窓際の席に座っていた。彼らもまた念入りに着飾っており、特に海棠の隣にいる六月の姿は、黄色のドレスが少し地味に見えた。月光は心のどこかで少し落胆を覚える。彼らは優雅なジャズを聴きながら、窓の外の色とりどりの夜景を楽しんでいた。
だがその雰囲気を壊すように、「うまい、うまい」と豪快に食べる大暑の声が響く。月光はその場へ歩み寄ったが、立秋が立ちはだかった。まるで六月のマネージャーのように。
月光の胸の奥で、苛立ちの炎が一層燃え上がる。彼は必死に冷静を装い、問いかけた。「……何かご用ですか?」
立秋はチョコレートを一口かじりながら、面倒くさそうに言った。「そっちこそ、何の用?」その尊大な態度に、月光の怒りは限界に近づく。
六月は二人の言い争いを聞きながら、そっとナイフとフォークを置いた。視線を逸らし、周囲のざわめきが妙に耳につく。
「貴方がどうしたいのか知りませんけど……忠告しておきます。あまり調子に乗らないでください。」月光は低く警告する。
「はっ、おまえに止められる筋合いなんてないし? それに、別に何もしてないじゃない。」
「何もしてない? 今まさに私を挑発してるでしょう……目的は何ですが?」
「教えたら、何かくれるの?」
「……取引でもなさるおつもりですか?」
六月は空気がどんどん重くなるのを感じ、慌てて席を立った。しかし月光は追いかけてきて、まるで濡れた子犬のような目で言った。「どうして最近ずっと私を避けてるんですか?」
月光の言葉を聞いた瞬間、六日の胸の奥に酸っぱい痛みが広がった。心の中で、彼女は恨めしそうに呟く
――先に離れていったのは、あなたのほうでしょう……
六日は拗ねたように言いながら、足取りを乱す。まるで制御のきかない古い機械みたいに。「先に遠ざかったのはあなただよ。それに、若い女の子たちとすぐ仲良くして、まるで私なんていなかったみたい。」
月光は困ったように眉を下げた。「それは……私の重大な目的のために必要なプロジェクトで――」
「女の子とキスするのも、その“重要なプロジェクト”なの?」六日の声には怒気が混じっていた。炎のように、どんどん熱を帯びていく。
「そ、それは事故です! 私だって嫌だったんですよ!」月光が慌てて手を振る。
六日は立ち止まり、じっと彼を見た。「事故で……どうやったらそんな事故になるの?」
それでも彼女は理性的だった。争いを起こす気はない。
ただ、心が納得していないだけだった。
「お互いにぶつかって……そのまま……」月光はしどろもどろに答えた。
「ぶつかって……キスになる? どういう物理現象よ、それ。」六日がさらに詰め寄る。
「わたしだって不思議ですよ! ていうか、私が他の女とキスしたこと、そんなに大事ですか?」今度は月光が反撃に出た。
六日は息を呑んだ。
その瞬間、彼女はようやく気づいた――自分が何に怒っているのか、そして何を失って怖がっているのか。
「大事に決まってるでしょ! キスってそんな軽いもんじゃないわよ! もっと節操を持ちなさいよ!」
彼女の叫びは夜風に溶け、月光の胸をまっすぐ貫いた。
「別にいいと思ってますけど……ていうか、たぶん私、初めてじゃないかもしれないですし……」月光は言えば言うほど、どんどん火に油を注いでいた。
「よくないわよ! 立夏月光、自分をもっと大事にしなさいよ!」六月は、こんな言い合いに意味がないと分かっていた。周りの視線も痛いほど突き刺さる。
「私のこと……理解してくれないでか?」月光のその一言が、六月の苛立ちにさらに火をつけた。
「まだ知り合って二ヶ月でしょ!? 立夏月光、ちょっと大げさすぎない!?」
「……そうですか。」月光は、何かを悟ったように静かに言った。
「二ヶ月じゃ理解できなくても仕方ないです。……私がどういう人間なのか、証明してみせます。」
その蛇のような瞳には、もはや濁りも欲もなく、水のように澄んだ光だけが宿っていた。
――それも、彼だった。
六月はようやく落ち着きを取り戻し、小さく息をついた。「わかったわ。でも……少し距離を置きたいの。」
「え……離れる必要あるですか……?!」
「もう少し冷静になる時間が欲しいの。」六月はほとんど何も食べずに、その場を去った。
月光はただ、彼女の背中を見送ることしかできなかった。背中が完全に消えた瞬間、星と海棠の険しい視線が月光を襲う。
「私たちも六日と話したかったのに! あんたが全部時間奪ったで!」
「このクソ鈍感な裏切り野郎!」拳と蹴りが飛び、月光の夜はさらに散々なものになった。
「いってぇ、痛いってすだで!」
「割れ鍋に綴じ蓋ってやつね。」立秋はご満悦に言った。今夜の彼はやけに食欲旺盛だ。
「なんか、やけに楽しそうじゃない?」大暑は何も気づかずに尋ねた。
「見て分からないの?」
「雨くーん♡」
その声を聞いた瞬間、雨水の全身に鳥肌が立った。不安げに振り返ると、そこに立っていたのは――マモン。
マモンは顔だけ笑っているような、冷たい笑みを浮かべながら近づいてきた。手には高級そうな赤ワインのグラス。馴れ馴れしく雨水に声をかけると、勝手に彼のグラスにもワインを注ぎ、皮肉たっぷりのトーンで話を切り出した。
「今日はちょっと惜しかったねぇ? まさかああなるとは思わなかったんじゃない?」
会場のあちこちで、莫大な資産を持つこの大貴族――マモンの噂が囁かれていた。羨望、憧れ、嫉妬――様々な視線が集まっている。
だがそんなことはどうでもいい。
雨水にとって重要なのは、このマモンの態度だった。
彼の“上から目線”な物言いは、雨水の手に握られたグラスを砕きたくなるほど苛立たせる。何か言い返そうとしたその瞬間、マモンはさらに火に油を注ぐ。
「まあまあ、いいじゃない! 今回はダメでも次があるさ! 雨くんって、すっごく優秀な人なんでしょ?」
カトリーナは冷や汗を流しながら、無理やり笑顔を作っている。マモンは大げさに雨水の背中をバンバン叩きながら、まるで本気で励ましているように見せかけて、実際は明らかに挑発していた。
最後にマモンは声を潜め、顔を寄せて――二人だけに聞こえるような声で囁いた。「これからも、いろいろご指導お願いしますねぇ、雨くん。」
雨水は怒気を隠さず、マモンを睨みつけると、その手を振り払った。そして無言でカトリーナを連れて立ち去る。
残されたのは、彼らの背中を見送りながら、三日月のように歪んだ口元で笑う――あの悪魔の姿だけだった。




