海棠と六日
それは、すべてが始まった春だった。万物が芽吹き、あたりには生命の息吹が満ちていた。周囲の空気さえも嬉しそうに弾み、まるで春がどこかで歌をうたい、どこかの翠い湖面がそっと波紋を広げているようだった。
おそらく、そんな命のざわめく春に、人々の心も少し衝動的になるのかもしれない。ある場所では、海棠を押しのけるように、綺麗な少女たちが、そんな衝動に突き動かされていた。海棠は無表情のまま、意味の分からない言葉を投げつける彼女たちの「攻撃」に耐えていた。
彼女たちは手だけでなく、口でも鋭い言葉を投げつけていた。「学校でも誰とも話さないで、隅っこで気持ち悪い絵ばっか描いてる子なんて、学校に来る必要ある?」と最初に言い出したのは、センターパートの巻き髪の少女。無理にまつ毛をつけて目を大きく見せようとしていたが、その根気だけは称賛に値する。「どうせ成績も私たちより悪いくせに、学分なんて争う意味ないでしょ?」続いて口を開いたのは、アフロヘアに焼けた肌の女の子。彼女は海棠を強く押し、背中が窓枠にぶつかり、鋭い痛みが海棠の脳に走った。最後に話したのは、髪を染めて後ろに撫でつけた少女だった。「家にも居場所ないらしいじゃん?あんまり調子に乗らないでよね。」などと言いながら、口元には嘲笑が浮かび、目つきには悪意に満ちた笑みが宿っていた。
海棠は黙ってスケッチブックをぎゅっと握りしめた。昨日のように、彼女たちがそれをビリビリに破いて、ぐちゃぐちゃに踏みつけるのではと恐れていたのだ。彼女自身は彼女たちを恐れていない。ただ、彼女のスケッチブックだけが、彼女たちを恐れていた。この三人の少女たちは、小学校の頃から海棠を知っており、いつも一人で寡黙だった海棠を、話すこともできない「はけ口」として利用してきた。
「またその黙ってる態度かよ……いい子ぶってるじゃねぇよ!」と先頭の少女が吐き捨てるように言い、二人の取り巻きを従えて海棠のスケッチブックを奪おうと、彼女の手をこじ開けようとした。海棠は必死に腕に力を込めて、それを阻止しようとした。「まだそんなに強がってんのか……」少女が手を高く上げ、海棠を平手打ちしようとしたその瞬間だった。
――「もういい加減にしたら?」
冷たくも威厳を帯びた声が背後から響いた。その場の空気が一瞬で凍りついた。振り向くと、黒曜石のような瞳に、雪の日に梁に凍りついた氷柱のように白い肌、長い髪が揺れていた。彼女の姿は、春の陽気を一瞬で吹き飛ばす寒冷前線のようで、周囲に自然と恐れを生んだ。
「六月六日、あんたには関係ないでしょ?」先頭の少女は声を荒げたが、それが虚勢だというのは誰の目にも明らかだった。海棠も、その理由を知っていた。
六月六日――名前からして異彩を放つ、そして群衆の中でも群を抜く存在。成績優秀、運動万能、教師たちの寵愛を一身に受ける彼女に手を出すということは、後ろに控える影響力のある大人たちを敵に回すということ。それに、ある日ベンツで迎えに来た彼女の姿は、周囲に「触れてはならない人間」と深く印象づけた。彼女に怪我でもさせれば、下手をすれば一家が潰れることすらあり得る。
六日が何かを言おうとしたその時、まるで不動明王のように厳つい男が現れ、彼女の名を呼んだ。「生活指導先生。」
「彼ってすごく怖いって有名なんだよ。とにかく、行こ行こ。」数人の女子生徒がひそひそと囁き合い、空気を読んでその場を立ち去った。こうして、海棠は間一髪で難を逃れた。
もともと石炭のように顔を真っ黒にしていた生活指導主任は、六月六日という優等生を見ると、たちまち顔をほころばせた。にこやかに近づくと、また何か賞を取ったのだと褒めちぎり始めた。
だが、おどおどしていた海棠に目を向けた瞬間、その笑顔はぴたりと止まり、再び厳しい表情に戻る。「絵は上手だけどな、もっと勉強にも気を配らないとダメだぞ。数学の先生が言ってたぞ、お前の宿題の答え、全部間違ってるってな。数学、もっと頑張れ。」
「うーん……」海棠は気のない返事をした。
「返事は“はい”でしょ。」
「はい……」海棠は渋々答えた。
(生活指導主任なんて、うちのクラスじゃないくせに、なんで私の数学まで口出しするの? あの数学の先生も、私のこと見下してるくせに、わざわざ他の先生に言わなくたって……)と、心の中で不満が渦巻いていた。
その横で六月六日は、ただ黙って海棠の様子を見つめていた。二人の視線がふと重なるが、六日はすぐにそらした。
六月六日もまた、ひとりで行動するタイプだったが、彼女の孤独はどこか澄んでいて、まるで「水清ければ魚棲まず」のような、近寄りがたい静けさがあった。一方の海棠は、心に沈殿する苦しみを背負った孤独。似ているようでいて、まるで違う。
六日は無口ながらも、誰とでもそれなりに会話ができ、クラスの中でもそこそこ人気がある存在だった。反対に、海棠はまるで道路に空いた穴のように、みんなに意識的に避けられている気がしていた。
教室へ戻る途中、海棠はふと、以前六日と少しだけ話したことを思い出した。でも、それはただの挨拶程度で、それ以上の関係には発展しなかった。まるで風が水面をなでただけの、小さな波紋のように、すぐに消えていった。
――けれど、運命とは不思議なものだ。
海棠と六日が、同じ日に掃除当番になったのだ。
それを知った瞬間、海棠は不安でたまらず、穴があったら入りたい気持ちになった。今までの掃除当番では、他のメンバーは責任感がなく、いつも彼女に押し付けてきた。だがそれはそれで、余計な会話をせずに済むから、むしろ楽だった。
けれど、六日と一緒となれば、どうしてもコミュニケーションが必要になる。社交が極度に苦手な海棠にとって、それは何より恐ろしいことだった。
そして、とうとうその日がやってきた。
しかし、予想に反して二人の間に気まずさはなかった。
六日は淡々と役割を分担し、それぞれ黙々と掃除を始めた。言葉はほとんどなかったが、作業はスムーズに進み、思ったよりも早く終わった。
海棠は内心、ほっと胸をなでおろした。――こんな風に、静かに終えられるなら、それが一番だ。
ただ、彼女はこのあと、そうは思えなくなった。
六日が「日直日記は私が書くよ」と言ったあと、海棠は教室をあとにした。しかしその足取りはどこか落ち着かず、不安が胸をよぎる。六日を完全に手伝えなかったから――そうではない。何かを、何かとても大事なことを、忘れている気がしたのだ。
……そしてついに、それが何だったのか思い出した。
授業が始まりそうで慌てていた彼女は、描きかけの原稿をカバンに入れ損ねて、教室の引き出しに突っ込んだままだったのだ。
「あ゛っ……!!!」
その瞬間、彼女は竜巻のような勢いで踵を返した。自分の名誉を取り戻すべく、全力疾走で駆け出した。
「誰にも見られちゃダメ!!!」
誰もいない放課後の校舎に、海棠の絶叫が響き渡る。たとえそれが、品行方正で他人のことに深入りしない六日であっても、万が一ということがあるもしバレたら──間違いなく、もっと酷くいじめられる。
顔を上げて学校に来ることさえできなくなるかもしれない。
**BL同人漫画を描いていることがバレるなんて、服を脱がされて、街中を逆立ちで歩かされるのと同じこと!**
教室に戻るまでの数分間は、まるで数年のように長く感じられた。そして、教室のドアを勢いよく開けた彼女の目に飛び込んできたのは──
六日が、例の原稿の束を手に取り、何やら丁寧に揃えている姿だった。
海棠の血の気が引いた。心臓がひゅっと冷え込む。
ぎこちない足取りで近づきながら、彼女は苦しげに問いかけた。
「……全部、見た……の?」
「……全部は見てないよ。」
六日の手元にあるのは、ちょうど**二人の男が裸で抱き合って、前戯に入ろうとするシーン**の原稿だった。
今までへの字に閉ざされていた六日の口が、ようやく開いた。しかしその言葉は、海棠にとって新たな絶望の鐘だった。
「さっき、風が吹いて……この紙たち、机から飛び出しちゃったんだ。」六日は丁寧に、しかし確実に海棠の命運を握るその原稿を、本人に差し出した。石のように固まっていた海棠は、しばらくの間呆然と立ち尽くしていたが──
突然、**ヒュッと窓から跳び出して、校舎の外の花壇へと落ちていった**。
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幸いなことに、ここは二階だった。
だから海棠は**派手にすっ転んだだけで、大きな怪我はしなかった。**
六日は、あまりにもオーバーな反応を見せた海棠に呆気に取られたまま、その場に立ち尽くしていた。
任務を終えた海棠は、顔を保つためなのか、**文字通り命懸けの勢いで逃げ出していった。**
六日はぽかんと口を開けたまま、彼女の後ろ姿を見送った。
――終わった。
もともと低かった自分のクラス内ランクが、あの原稿の露見で**さらに地の底へと落ちた。**
明日から学校に来る必要も、もうないだろう。
**なんて素晴らしく、最悪な一日だろう!**
夕日に照らされながら、海棠の目からこぼれた悔し涙は、まるで宙に浮かぶ真珠のようにきらめいていた。
美術のことなど何も分かっていないのに、なぜか美術教師になってしまった下田先生が、堂々と告げた。
「今日の課題は――**ペアでの肖像スケッチ**。二人一組で、お互いの顔を描いてください!」生徒たちはすぐにペアを組み、椅子を寄せ合い、楽しげに準備を始める。
当然のように、**海棠はひとりだった。**
どこからかクスクスと笑い声が聞こえた気がしたそれが自分に向けられたものかは分からないけれど、彼女の中に黒い感情がじわじわと湧き上がる。
(何なんだよ……肖像画くらい自分で描けるしていうか、絵を描くって本来ひとりで完結できる作業だろ?下田は何考えてんだ?)
実は、海棠は絵がうまい。
けれど、性格が孤立気味で、クラスの中には理不尽な態度を取る生徒も少なくなく、結果として今の状況が生まれた。
混乱した思考がぐるぐると彼女の中を巡っていたそのとき――
六日が、静かに彼女の元へとやって来た。
そして、優しく声をかけた。
「……いっしょにやらない?」
「……えっ?」海棠は、自分の耳を疑った。
六月六日は、どうやら他の誰かの誘いを断ってまで、**自分とペアを組もうとしている。**
断ることなんて、できるわけもなく――いや、そもそも断る理由なんてあるはずもなく、海棠はその申し出を受け入れた。
薄くて線だらけのスケッチブックと、鉛筆の「サラサラ……」という音。それが、ふたりの唯一の会話だった。
海棠は、決して手を抜かない。彼女は時おり顔を上げ、六日の顔をじっと観察する。**青春ニキビひとつすら描き漏らさないように。**
それに比べて六日は――鉛筆を動かしはするが、どうにも手探りのようで、筆が進まない様子だった。
見かねた海棠は、思わず口を開いた。「こっち側は、こう描いたほうがいいよ……」
自分にアドバイスしてくれる海棠を見て、六日はほんの少し驚いたように彼女を見つめたその視線に気づいた海棠は、急に恥ずかしくなってしまい、焦って言い繕う。「い、いや、べつに、ただの……もしも、の話で……」
その様子があまりに可愛らしくて、六日はふっと笑った。まるで雨上がりに差し込む日差しのように、あるいは朝露のように、やわらかくて優しい笑みだった。
海棠はその笑顔に、**ぽかん**と目を見開いた。
六日は、ゆっくりとこう言った。「大丈夫。私、教えてもらうの、嫌いじゃないから。」
そう言いながら、彼は海棠の椅子を少し引き寄せて、座りやすいようにしてくれた。
――こうして、海棠と六日、ふたりの出会いは始まったのだった。




