番外篇 シンデレラは、まだ12時前
毎日がまるで崖っぷちの上で揺れ動くようで、落石や崩落が自分を追い詰めていた。
もしかして本当に、私は何か大きな過ちを犯してしまったのだろうか。上司のセクハラ、罵声、嘲笑。 同僚の無関心と排斥。補償はなく、終わらない残業。増え続ける業務は、少しずつ私を肉のミンチにしようとしている。気づけば、私は毎日「死にたい」と絶望に押しつぶされ、砕け散った心は修復不能に。外見にも痛みが現れ、疲れ果てた顔色、痩せ細った身体、力なき四肢。そんな身体がそのうちどこかで――線路の上に落ちるか、病床で汚水のように崩れるか、いや腐臭を放つ屍と化すかもしれないとすら思った。
幸いにも、まだ私は感覚を失ってはいなかった。こんな生活の中でも、自分は手を伸ばさなくては、突然降ってくる救命ロープ――それが首を締める凶器になる可能性もあるとわかっていた。
それは、ある日偶然マッチングアプリで見つけた広告だった。自分がいつダウンロードしたのかすら忘れていた。初めてキャリアに絶望したとき?それとも社会人になったばかりでまだ世の中に希望を抱いていたとき?最初は積極的に誰かと繋がろうとしていたのかもしれないが、やがてそのまま放置され、スマホの中で誰にも構われずに生えた野草のように忘れ去られていた。
広告には明らかに宣伝の意図があったが、他の広告よりずっと魅力的だった。条件はまるでおとぎ話のように美しく、見る者を夢境に誘う。彼の顔には加工の痕跡もなく、本物らしかった。文章はクリームケーキに糖蜜をたっぷりかけたように、透明で甘い。最高に甘い毒かもしれない。
* 彼氏のレンタル
* レンタル時間は雇用主次第
* 忙しくても安定した仕事
* 食事と心のケアを提供し、必ず癒してみせる
* 前払い一括、もし不満があれば金額を返還+慰謝料支給
まるで童話のユニコーンのように、現実とはかけ離れていた。あまりにも美しすぎる内容に、私はついチャットボタンを押してしまった。数通のメッセージの後、彼から電話がかかってきた。
待ち合わせは、駅近くの安くてスイーツが美味しいカフェだった。ただ、私にはその味も香りもまったく入ってこなかった。ドアを開けると、風鈴が風に揺れて鳴り、小さな少女が舞台で歌っているかのようだった。人工的な冷房と男歌手の声が私に降りかかる。にもかかわらず、私はまるでハイヒールを履いたまま足元がおぼつかないように、次の瞬間には崖から転げ落ちてしまいそうだった。
彼は手を挙げ、席に案内してくれた。疲れきった私は視線を上げ、その顔を見た。彼の端正な容貌は、まるで極限まで磨かれた黄金像のようだった。ライトに照らされて輝く金髪は、朝露に濡れた葉のように瑞々しく、手入れの行き届いた肌は滑らかで、一際大きな黒目が可愛らしく光り、唇には艶があった。ファッション雑誌に出てくるような今時の装いに、まるで日差しのような温かく穏やかな笑顔。私はその目に小さな光を宿しているのを感じた。
彼は私を見つめ、私が自分のことではないと思ったはずなのに、呼び寄せてくれた。流れるような口調に、私はすっかり疑いを晴らした。つい本心を吐き出し、物静かなカフェで抑えきれずに泣いた。彼の声はまるで果実酒のように穏やかで心地よく、一言一言が心臓を打った。私はもう、一人ではなかった。
彼が契約書を取り出した。奇妙な新興宗教の経典や保険契約ではなくてほっとした。「これ見せてください。わからないことがあれば、聞いてください。」
契約書の文面は、アプリに載っていたものとほぼ同じだった。
・12時前に解散すること
・火・水曜の午前5時半~23時のみ相談・同行可能
・個人のプライバシーは保護される
・小さな文字も曖昧な表現もなく、料金も意外に良心的だった
私は思わず聞いた。「どうしてこの仕事を?」
彼の答えは意外だった。「別に特別な理由じゃないですけど、たまには寂しい人の心を癒したくなってですね」。
他の男なら口先だけかもしれないが、この人は違った。責任と使命感を感じさせる。にもかかわらず、背後に何か得体の知れないものがある気もした。そうして私たちは、この契約を交わした。
最初の日、仕事を終えた私は心身共にボロボロで、ふらふらと家に戻ってきた。すると、あの人はすでに家で食事を用意して待っていた。料理は一般的な家庭の夕食で、特別豪華というわけではなかったが、それだけで彼女の心は十分に癒された。
「ご飯を食べ終わったら、お風呂に入っていいよ。お湯はもう沸かしてあるから。」そんな言葉をかけられるのは、私にとって初めてのことだった。信じられない思いだった。
温かい夕食を口に運びながら、私は思わず、これまでの苦しみを彼にぶちまけていた。彼は黙って耳を傾け、私の話が終わると、感情に寄り添うように優しく助言をくれた。「そんなにつらいなら、辞めてもいいんだよ。君なら、どこに行ってもきっと活躍できると僕は思うよ。」
それは彼女自身も、頭のどこかで何度も考えたことだった。しかし長年会社に搾取され続け、すっかり自信を失っていた彼女には、そこから一歩踏み出す勇気がなかった。それでも、彼の言葉は心の奥深くに残った。
食事を終え、風呂に入り、二人で少しニュースを見ていた。ニュースキャスターの真面目な口調さえも、彼の存在のせいでなかなか頭に入ってこなかった。満はずっと、冬の日差しのような温かく穏やかな笑みを浮かべていた。彼女の落ち着かない様子に気づいた彼は、そっと彼女の腰に手を回し、蜂蜜のように甘くやさしい声で囁いた。「どうしたの?」
その一言で、彼女の顔は真っ赤に染まり、心拍数が跳ね上がる。体温もどんどん上がっていく。この誘惑するために生まれてきたような顔に、彼女は完全に敗北していた。言い訳すらできず、しどろもどろになっていた。
彼のすべてが、自分のためではなく他人のためにあるように感じられた。
「ねえ……セックスに興味ある?」彼の問いかけに、私は一瞬呆然とした。すぐに顔が真っ赤になり、慌てたように答えた。
「えっ、わたし……えっと……そ、そういうサービスもあるんですか……?」
「ごめん、先にこれを見せるべきだったね。」
そう言って、彼はカバンから健康診断の結果を取り出した。彼女は困惑しながら目を通したが、結果はすべて正常だった。
その細やかさと気遣いに、彼女は少し怖くなり、この出来事すべてが夢ではないかという気さえしてきた。
彼は付け加えた。「この仕事をきちんと続けるために、毎年検査を受けてるんだ。行為に入る前も、必ず十分な対策をしているよ。でも……もし君がまだ不安なら――」
「追加料金が必要なんですか?」
「えっ?」
まるでお互いを溶かし合うかのように、二人は強く抱きしめ合い、身体は汗と熱気でぐっしょりと濡れ、荒い息遣いが止まらなかった。私は、自分の身体も内臓もすべてが濡れているように感じた。まるで、徐々に溶けていく蝋燭のようだった。
久しぶりに感じた快楽は、夜風にそっとなでられる波のように、急かさず、やさしく心に染み込んでいく。その柔らかくてゆっくりとした態度に、彼女は長い間忘れていた幸せを思い出した。たとえ以前の恋人と別れていなくても、あのような、まるで海の母に抱きしめられるような安らぎを感じることは、きっとできなかっただろう。
私はようやく気づいた。あの男は、愛し合うときでさえ、いつも自分のためにだけ行動していたのだと。自分の快楽を最優先にし、私を自然と無視していた。そして彼が私を忘れていたように、私自身も自分を忘れていた。自分の喜びを一度も優先したことがなかったからこそ、痛みは波のように絶えず押し寄せ、せっかく砂浜に描いた絵もすぐにかき消されてしまったのだ。
香水の入った、美しく高級感のある瓶がついに割れた。透明で、濃密な香りを含んだ液体が、ゆっくりと中からこぼれ出していく。
その瞬間、私の中に押し込められていた悔しさや悲しみがすべてあふれ出し、まるで静かでやさしい小雨のように降り注ぎ、安らかで穏やかな時間が流れた。
濡れて熱を帯びた自分の身体には、もはやどんな液体が付着しているのかも分からなかった。ただ、魂が抜け出たかのように、軽やかで心地よく、ずっと背負ってきた重荷がすべて消えてしまったようだった。
満は私をさらに強く抱きしめ、やさしく私の傷跡を舐めた。
行為そのものは、実はわずか30分ほどのことだった。満は“賢者タイム”に入り、スマホを少し操作してから、口を開いた。
「ごめんね。12時までには帰らなきゃいけないんだ。」
たしかに契約にもそう書かれていた。「ううん、大丈夫……でも、どうしてそこまで時間にこだわるの?終電が心配なら、もっと早く帰ってもいいのに。」
「もうちょっとだけ、一緒にいたいんだ。」彼はどこか寂しげに笑った。私は、やっぱり彼は他の男とは違うんだな、と思った。
それでも彼女は言った。「早く帰ってもいいんだよ。今帰れば、少しでも休めるでしょ?明日も仕事なんだし、無理しないで。」
「大丈夫。もう何年もこうしてきたから、慣れてるよ。」
その言葉を聞いて、私は少しプレッシャーを感じた。
満君の仕事は、私が想像していたよりもずっと多忙なのかもしれない。
もし今夜、彼を無理に引き留めたら、彼は明日の朝も早く帰らなければならない。
それでは本末転倒だと思い、私は彼を送り出すことにした。時刻は11時15分ごろだった。
高層ビルの下へと姿を消していく彼を、私は名残惜しそうに見送った。そして小さく呟いた。「まるで……シンデレラみたいね……」
――それから二人の関係は、さらに親密になっていった。
私のほうから積極的に満をデートに誘うようになり、仕事を早退したり、休みを取ったりすることにもまったく躊躇しなくなった。
なぜなら、私はもう知っていた。自分には、いつでも頼れる確かな腕があることを。
周囲の噂話や、冷たい視線、心ない言葉も、私にはただの風の音にしか聞こえなくなっていた。
今の私は、会社を辞めるための準備を進めているところだった。
満君は時折、新しい服やコスメを一緒に選んでくれた。まるで新しい自分になっていくような気がして、私は心の重荷をどんどん脱ぎ捨てていった。
私は鮮やかで明るい色が好きだった。カップルでお揃いの服を着るのが好きだった。甘いものが好きで、動物園に行くのも好きだった。――そしで満君は、そんな私にすべて付き合ってくれた。
まるで12時になる前なら、どんな願いも叶えてくれる魔法のように。
彼と一緒にいると、時間の流れを忘れてしまう。
だが、契約の終了日が刻一刻と迫っていた。
ある夜のこと。
満君はまた、私のために豪華で美味しい料理を作ってくれた。家事も彼女が動く前にすべて済ませていた。洗い物をそのままにしてくつろいでいると、満君はふとした気まぐれで、私の髪を編み始めた。
ドラマの感情豊かなセリフがテレビから流れる中、私は思わず口にした。「満君って……なんだか、シンデレラみたいね。」
満君は一瞬きょとんとしたが、すぐにその意味を察したようだった。「12時前に帰らなきゃいけないから?」
「それだけじゃなくて……」
「満さんって、お料理も上手だし、家事もいろいろ工夫があって、やってると楽しくなるし……なんだか、すごくシンデレラっぽいって思っちゃって。」私はそう言いながら、少し落ち着かない様子で身体をもじもじと揺らした。
そのとき、私はふと見た。満の目が、一瞬きらっと嬉しそうに輝いたのだ。まるで、長い間なくしていたお気に入りのおもちゃをやっと見つけた子供のように。
どうしてそこまで嬉しそうにするのか、不思議に思うほどだったが、満君はただ嬉しそうな声で言った。「確かに、シンデレラでみたいだね。」
予想外の本音が垣間見えたことに、私は少し驚いて「う、うん」と慌てて頷いた。
「僕、男だけど、小さい頃から『シンデレラ』っていうおとぎ話がすごく好きだったんだ。妹も一緒になって、よく読んでたよ。」かれの喜びは、そのまま編み込みの手つきをも軽やかにしていた。
「妹さんがいるんの?」
「うん。」
だが、意外なことに満君はその家族の話をそれ以上しようとはしなかった。
代わりに、誰かの夢に迷い込んだような、曖昧でふわふわとした口調になり――まるで空中に浮かぶ幾重もの空気の層のように――こう呟いた。「もし私が、本当におとぎ話の中のシンデレラみたいに、魔法のガラスの靴を脱いで……贵女が見ている私じゃなくなったら……贵女は、どうするずまりが?」
「うん……」
「もし私が、ガラスの靴を脱いで――性格が冷たくて傲慢で、甘いものがまったく好きじゃなくて、カラフルなシャツよりも真っ黒なスーツを好んで、外に出るよりも家に引きこもるのが好きで、猫よりも犬が好きな人間だったら……貴女は、どうする?」
「え……」その問いは、まるで朝霧が森を包み込むように、ぼんやりと捉えどころがなかった。
けれど彼は、それ以上この話を深めようとはせず、冷たく話題を断ち切った。「もう行かないと。髪、編み終わったらすぐ出るね。」
私は、それ以上引き止めることもできず、ただ小さくうなずくしかなかった。
やがて私は、ついにあのブラック企業を辞める決意を果たした。どれだけ理不尽な扱いを受けようとも、部長から「この業界でやっていけると思うなよ」と吐き捨てられようとも、耳を貸すことはなかった。
もすでに次の道が見えていた。そして、その前に少しだけ――心と身体を休める時間が必要だった。
そして、契約の期限が訪れた。
とうとう、12時になったのだ。
魔法は、ついに消えてしまった。
「満君、私……」悲しみのはずの別れの瞬間、満はどこか満足そうに微笑んでいた。それは決して、仕事が終わってホッとしたという安堵の笑みではなかった。
手を強く引かれながらも、彼は荷物をまとめる手を止めることなく、静かにこう言った。
「美香さんとの契約は、ここで終わりだよ。今の美香さんなら、もう私がいなくても大丈夫だ。だから、私はもう行かなくちゃ。」
「どうして……そんなの、あんまりだよ……!」
「全部、契約通りでしょ?」
私は、胸の奥深くにしまい込んでいた悲しみをこらえきれず、涙となってあふれ出した。「私、もう……あなたのこと……」そう言いかけたまま、まるでお気に入りのぬいぐるみを抱きしめる子どものように、彼にしがみついた。絶対に離さないとばかりに。
「ごめんね。私みたいな人間は……いや、美香さんなら、きっと私よりもっと素敵な人に出会えるよ。
私は所詮、お金で繋がれていた存在。このままだと、きっと色んなことがめちゃくちゃになってしまう。」彼はそう言って、そっと彼女の涙を拭い、そして最後に、彼女の額に優しくキスを落とした。
まるで秋の風が木々に静かに別れを告げるように。
「さようなら。」
その一言は、まるで魔法の呪文のようだった。
シンデレラの魔法は解けて、すべてが元に戻る――そんな瞬間だった。
彼がどうやって去っていったのか、私は覚えていない。彼のすべては、彼の言う通り幻のような魔法で、消えてしまえば何も残らなかった。
秋風が大木を揺らし、葉を一枚ずつ散らしていく。それは、静かで、もの悲しく、美しい別れだった。
今の私は、新しい職場で働いている。
同僚も上司も皆優しく、給料も役職も申し分ない。
職場の雰囲気もよく、たしかに忙しい日々ではあるが、あの頃のように絶望の淵に追い込まれることはもうない。
「このエスプレッソ、よかったらどうぞ。」
ホカホカと湯気を立てたエスプレッソが、自分のデスクにそっと置かれた。顔を上げると、以前一緒に入社した男性の同僚だった。
「ありがとう。じゃあ、今度は私が何か奢らせてね。」
「いえいえ、そんな……実はちょっと聞きたいことがあって。どうしてもわからないところがあって……」
彼は少し照れくさそうに言った。
「そんなの、お安い御用よ! さあ、今すぐ解決しちゃいましょ!」
窓の外は秋風が寂しく吹いていたが、室内は温かな空気に包まれていた。
スターバックスには、温もりを求めた人々がぎっしりと詰めかけていた。誰もが手に温かい飲み物を持ち、笑顔で語らい、吐く息さえも幸福そうに見えた。
その中の長椅子に、黒いスーツを着たどこか物静かでクールな男性が、ひとり腰掛けていた。
美味しそうにエスプレッソを味わうその顔は、湯気でほんのり赤く染まり、まるでオーブンでじっくり焼かれたチーズドリアのように、香ばしくも美しかった。
鐘が、十二回、静かに響いた。
満は相手の女性によって、自分の一人称や相手の呼び方を使い分けている。




