立夏月光の正体
興陽はその場を後にし、自分のエアコンが効いた部屋でオンライン配信を見ることにした。彼の颯爽とした後ろ姿を見送りながら、月光は胸の内にくすぶる怒りを抑えられなかった。 落ちた六日の安否を案じ、次の敵の正体に苛立っていたのだ。
黒羽雨水が先ほど手鏡を渡してくれたおかげで、六日の様子を見ることができた。鏡の中では、六日が暗闇の中で意識を失い、目覚める気配すらなかった。
月光の表情はさらに険しくなり、手鏡をしまうと、次の敵を迎えるべく覚悟を決めた。
一方、海棠もまた、不安と後悔に苛まれていた。
手のひらは汗ばみ、頭の中はまるでジェットコースターのように駆け巡る。
もし自分がもっと慎重に動いていれば、六日は牢に囚われることもなかったのではないか?
その思いが頭を離れず、彼女は不安げに指を絡める。その姿は、まるで身を守るために甲羅にこもる亀のようだった。
そんな彼女の様子に気づいたリリアンが、そっと肩に手を置く。
重々しい鐘の音が響き渡り、司会者が陽気に次の対戦相手を発表した。
今回の東側の選手もまた、月光だった。
司会者は相変わらず大げさな言葉を並べて月光を飾り立てていたが、月光にとってはどうでもよかった。
彼が気にしていたのは目の前の対戦相手——それは、早沢にも引けを取らない屈強な男だった。
一瞬、二人はどことなく似ているようにも見えた。
月光は警戒しながら剣を構えた。
すると、壮漢は突然、彼に問いかけた。
「貴方、水泥ってどんなものだと思う?」
「……は?」
「水泥は、強固な建造物を作るための重要な一部だ。もし水泥がなかったら、現代人は今でも牛糞や土で家を作って、風雨や日差しに耐えなければならなかったかもしれない。だから俺は、水泥こそ偉大な発明だと思ってるんだ。」
「私はクレーン派だから、貴方が何を言おうが関係ない。」 月光は急に戦う気をなくした。
「わかってる。ただ、水泥とは何なのか、水泥がなぜ存在するのか、水泥がなぜ偉大なのかを、貴方に伝えたかっただけだ。」 壮漢は真剣な表情で語った。
「まさか戦うだけで伝道者に遭遇するとはですな……。」 月光は顔をしかめた。
「普段は20世紀太陽人広場で、水泥の偉大さについて演説してるんだ。興味があれば聞きに来てくれ。」 壮漢は月光にポスターを差し出した。それは特大の文字が書かれたビラで、デザイナーが三原色を駆使して目立たせていた。
そこには、謎の自信に満ちた壮漢の写真がプリントされており、見る者に困惑をもたらす出来栄えだった。デザイナーなら沈黙し、クライアントなら満足する、そんなデザインだった。
「はい、そこは今後絶対に避けることにするですがら。」 月光は賢明な選択をした。
「それでは、我々の戦いを始めよう!私の名は早沢泥炭子!早沢穰治の次兄だ!よろしく頼む!」
泥炭子はまるで相撲力士のような構えをとり、スポーツマンシップ溢れる声とプロ選手のような威厳を持って宣言した。
観客席の熱気は、またしても謎の盛り上がりを見せる。観客の大半は、純粋に見世物を楽しみに来ているだけだった。
その中で、一つの声が響いた。 「自らを『水泥偉大神教党』党首と名乗る兄なんて、俺にはいない!」
声の主も興奮していたが、群衆の熱狂には到底及ばず、むなしくかき消された。
月光はその声を気にも留めず、攻撃を開始した。
「意味不明なものがまた出てきた……。」 海棠は先ほどからツッコミすらできなくなっていた。 そもそも、今何が起きているのか、彼女にはまったく理解できなかった。 悪魔?魔闘会?わけのわからない言葉ばかりだ。
当事者であるはずの大暑ですら、何もわかっていないような表情をしていた。 突然の出来事に対して、彼はただひたすら肯定し、称賛し、共感を示すだけ。 まるで人間味のないGoogleアシスタントのようだった。
月光は剣を振り上げ、雷撃を放とうとした——しかし、足が動かない。
気づいた時には、彼の足はすでに水泥で固められていた。
まるで壷の中の亀、翼があろうとも飛べない。
「いつの間に……?」 月光は驚愕した。
泥炭子は相撲の押し出しのような動作を繰り返していた。 月光は足元の水泥を砕き、なんとか拘束を逃れた。
だが、その手は今度は前ではなく、下へ向けられていた。
すると、瞬く間に水泥がまるで波しぶきのように舞い上がった。 逆流する鯉のごとく、泥炭子の水泥は勢いを増していく。
これはマズい……! 月光はすぐさま飛び上がり、回避した。
だが、水泥は狂犬のように月光を追いかけ、獣のように彼を飲み込もうとする。 泥炭子は興奮しながらさらに押し出しの動作を続けた。
すると、水泥はまるで昇龍のように形を変え、無数の泥の龍が月光を追いかける。 まるで「天狗が月を食らう」かのような光景だった。
このまま避け続けるのは無理ですがら……!
月光は雷撃を放つ。
数体の水泥龍は砕け散った——だが、すぐに新たな龍が次々と生まれてくる。 それはまるで、雨後の筍のごとく無限に湧き出し、キリがなかった。
その時——水泥の龍は突然凝固した。 驚いていた月光は、やがて勝ち誇ったように笑みを浮かべた。反撃の準備をしようとした——しかし、次の瞬間には己が牢獄の中にいることに気づいた。
凝固した水泥の龍が、まるで鉄格子のように彼を閉じ込めていたのだ。 月光は飛び上がり、この檻から脱出しようとした。
だが、すでに彼の翼には水泥がこびりついており、体がどんどん重くなっていく。 そして、彼の体は徐々に落下し始めた。
心の奥底から込み上げる嫌悪感。 乾ききった水泥の地面を見下ろし、彼は悟った——このままでは、血をもって大地に口づけることになる、と。
落下する彼の姿は、迷い傷ついた大雁のように見えた。 その様子を見つめながら、泥炭子は誇らしげに言った。
「私はこの能力で、数多の悪魔を倒してきた。だが、これは私だけの力じゃない。すべては水泥のおかげさ。もし水泥がなければ、私はこんなに見事な攻撃を繰り出すことはできなかった。水泥——それは私の心の友であり、この世界の礎——」
泥炭子がなおも水泥への感謝に浸っているその隙に—— 月光は重力を利用し、一気に加速して急降下した! その勢いのまま、月光の剣が泥炭子の両腕を斬り落とす!
泥炭子は血を噴き出しながら、自らの腕を呆然と見つめた。
一方、月光は水泥の重みに耐えながら、必死に体を支え、歓喜の声を上げた。
「貴方の手の動きを見ていないとでも思っですだか? 相撲の構えで水泥を操ってるんでしょう? そんなのバレバレですがら! 大声で笑ってやです!」
「……あんなに得意げにして、知能指数はゼロか。」 海棠は六日の見る目に不安を覚え始めていた。
「悪魔は再生できるって言っても、これくらいの傷なら回復に二時間はかかる。つまり、その間に貴方を倒せば私の勝ちですがら!」 月光は自信満々に断言した。
だが、泥炭子は気にする様子もなく、薄く笑った。 「確かに、理論上はそうなるな。」
——不吉な予感が月光を襲った。
彼は泥炭子の腕をじっくりと観察する。
すると——
「……何ですと?!」
月光の目の前で、泥炭子の腕は驚異的な速度で再生していった。 あっという間に、新しい両腕が生え、彼は再び戦闘態勢に入った。
観客席も騒然となり、多くの者が月光と同じ驚きを露わにした。
「念のために言っておくが——私の体の他の部分を奪っても無駄だぜ。」
司会者が興奮気味に叫んだ。 「おおっと! 早沢泥炭子の腕が驚異的なスピードで再生した! これは一体どういうことなんだ?!」
興陽はその光景を興味深そうに眺め、星児が不思議そうに尋ねた。 「これは……?」
興陽は説明した。 「この男、今までに何度も腕を失ったことがあるんだろうな。だからこそ、身体が異常なまでに素早く再生するようになったんだ。自分で斬ったのか、それとも誰かに斬られたのかは分からないが……。ま、こんな戦い方をしていれば、必然的にこうなるだろうな。あの様子を見る限り、もう慣れきっているみたいだ。」
画面の中で、泥炭子は再び攻撃を仕掛けた。 月光は次第に追い詰められていく。
「くそっ……!」 彼は必死に冷静さを保とうとした。
(このままじゃ、埒が明かない……。)
腕を斬り落としても無駄。 ならば——
月光は考えを巡らせ、ふと自分の翼に目を向けた。 そこには、まだ固まりきっていない水泥がこびりついていた。
突然、月光がニヤリと不敵な笑みを浮かべた。 泥炭子は彼の狡猾な思惑に気づくことなく、引き続き水泥を操り続ける。
その姿はまるで熟練の指揮者のようだった。 元の水泥の形は、まるで枯山水庭園のように幽玄で寂しげな佇まいを見せていた。 しかし、泥炭子の指揮によって、それは生き物のように動き始めた。
その幻想的な美しさ—— 彼はまるで真夏の太陽の下で舞う踊り子のように、輝かしい存在に見えた。
一方、月光は——暴れ狂う牛と化していた。 挑発されたかのように、一直線に水泥へと突進する。
理性を失い、ただひたすら暴走する獣。 彼は水泥を無秩序に破壊しながら、その身を水泥に塗れさせていった。
泥炭子は冷静に水泥を操り、月光の行く手を阻む。 (こいつ……何を企んでいる?)
「……彼は諦めたのか?」 海棠が困惑した様子で尋ねる。
「いや……きっと何か考えがあるはずだ。」 そう答えたのは、りりアンだった。
「どうしてそんなことが分かる?」
「直感よ。ただ、あの男は簡単に諦めるような人間じゃないって気がする。」
「……そうか?」 海棠は再び戦いへと目を向けた。
「……私の意見を無視したわね?」 りりアンはため息をつく。
月光はなおも暴走を続け、着実に泥炭子へと近づいていく。 泥炭子は動じることなく水泥を操り、月光を押し返す。
——しかし、その水泥は月光の剣によって切り裂かれ、泥炭子自身に降りかかった。
それでも、泥炭子は冷静だった。 指を軽く動かすと、水泥が一斉に波のように押し寄せ、月光を飲み込もうとする。
だが——
月光は瞬時にその場から飛び退き、その波は泥炭子自身へと降り注いだ。
「……!」
彼の全身が水泥に包まれ、動きを封じられる。 それでも、泥炭子は微塵も怯むことなく、戦意を保っていた。
(私は水泥の王だ……こんなもの、恐れる必要はない……!)
しかし——
水泥が完全に固まり、彼の動きは著しく鈍くなった。
普段なら一秒で動かせる体が、今回は三秒もかかる。
——その三秒が、戦局を決定づけた。
月光はその隙を逃さず、一気に間合いを詰めた。
そして——
「——終わりです!」
剣が一直線に振り下ろされ、泥炭子の心臓を貫いた。
瞬く間に血が溢れ出し、泥炭子は大きく口を開けて血を吐いた。
(……この傷は……すぐに再生する……!)
確かに、彼の肉体は瞬時に再生した。
——だが、心臓は剣によって封じられていた。
「ならば、そのまま封じ続ければいいです!」
月光は剣をさらに深く押し込み、泥炭子の心臓の鼓動を止めた。
もし心臓を無理に動かそうとすれば、激痛が走る。 そして——それは、彼の再生能力を無力化する唯一の方法だった。
観客席がどよめく。
海棠も驚きの表情を浮かべ、大暑はただ興奮した面持ちで戦いの結末を見届けていた。
「これは……どうすればいいんだ……?」 司会者は困惑し、言葉を詰まらせる。
その時——
「……勝者と認めてやれ。」
場内に響いたのは、落ち着き払った声だった。
「泥炭子の心臓は止まっているんだからな。」
司会者はその言葉に頷き、ついに勝者を宣言した。
「勝者——立夏月光!」
——観客席から、激しいブーイングが巻き起こる。
しかし——
スポットライトが月光を照らした瞬間、その光の下で彼は神々しいまでに輝いていた。
その姿は、まるで女神の戦士。
スポットライトを浴びた彼の存在は、夜空に瞬く星のようだった。
どれほど不満を抱こうとも、この瞬間——彼は間違いなく、最も輝く存在だった。
——やがて、一人、また一人と拍手を送る者が現れる。
そして、ついには観客全員が彼に喝采を贈った。
新たな星の誕生。
この瞬間、月光は名実ともに大会の中心へと躍り出た。
——悪魔の宴を巻き込む嵐の中心へと。
彼に注目する者はますます増え、支持者、興味を抱く者、敵対者——すべてが彼へと向けられる。
月光は手鏡を取り出し、六日の無事を確認した。
「……無事ですか.....」
その事実に、彼の心の重荷が少しだけ軽くなる。
その様子を、冬森立秋が陰から見つめ、満足げに微笑んでいた。
一方、黒羽雨水は数え切れぬほどのぬいぐるみたちとともに、この不可思議な結末を確認し、何かの誤りがないかを注意深く精査していた——。
興陽はテレビの前で静かに拍手を送った。 この正体不明の新たな覇者に、彼はますます興味を抱くようになった。
「……どうやら、この大会はさらに面白くなりそうだな。」
彼の言葉を聞いた星児は、複雑な表情を浮かべた。 彼の視線は定まらず、まるで目を動かすことで、この居心地の悪い状況から抜け出せるとでも思っているかのようだった。
——立夏月光とは、一体何者なのか?
そして——自分自身は、一体何なのか?
彼の脳裏に、かつて黒羽雨水と交わした言葉が蘇る。
「お前は人間だ。しかし……その気配はまるで悪魔のようだ。」
怯えたようにぬいぐるみが彼の足にしがみつき、何も言えずに震えている。
「お前の戦いへの渇望、闘争を求める姿……それはまさに悪魔そのものだ。」
黒羽雨水は、冷ややかにそう告げた。
「とにかく、私についてこい。いずれ、お前の力が必要になる時が来る——」




