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京都百梅路地恋路  作者: 八谷紬
春まけて記憶のカレー
9/12

-9-

 花屋を出て、寄り道せずに路地へと帰る。お花ははやく渡したほうがいい。家に入ってカレーのお皿を持って、灯子は隣の家のインターフォンを押した。

 千景は家にいたらしく、すぐに玄関を開けてくれる。

 今日の千景も、ちゃんとしていた。隙なく整っている。

 そしてやはり「お気遣いは結構です」と言い放った。

「いや、仲良くしようって言ったばかりでしょう」

 灯子が小声で苦言を呈す。

 千景の顔にぐっと力が入った。

「はい、千代さんにあげて」

 あらためて花束を渡すと、今度は受け取ってくれた。

「ありがとうございます」

「カレーも、すごくおいしかった。ありがとう」

「え……あ、よかったです」

 しかし表情は曇ってしまった。

 あれ、と灯子は首をひねる。この流れでどうしてその表情なのか。

 誉めたつもりなんだけど……と思っていると、千景が灯子の顔を見て察したのか「ああ」と苦笑いのようなものを浮かべた。

「再現、できないんです」

「再現?」

「はい。祖母の味を」

 祖母の味。そのことばを灯子は繰り返した。

 たしかに昨日いただいたカレーは清宮のおばちゃんの味とはすこし違った。それでも十分においしくて懐かしい味だった。

 彼はそれでも満足ができないのか。

「すごく、おいしかったけど」

 繰り返しになる。こういうとき、語彙力のなさがかなしい。

「でもなにかが足りないんです」

「おばあさんに教えてもらったりは?」

「……してないです」

 すればよかった、とつぶやいた気がした。

 千景と千代がどれだけ一緒の時間を過ごせたのか、灯子は知らない。でもその表情を見れば、彼は納得がいっていないのだというのは想像がつく。

「でも、それでも作れるだけすごいと思う」

 灯子のことばに千景があきらめたように笑った。

 その顔がどうにもせつなくて、灯子もそれ以上なにも言えなくなってしまった。

「お花、ありがとうございます」と千景は言って、玄関戸がしずかに閉じられる。

 灯子はしばらくその前にたたずんでしまった。

 おいしいのに。私はしあわせな気持ちになったのに。

 どうしてそこまで祖母の味にこだわるのだろう。

 よくわからない感情のため息をひとつつき、灯子も自分の家へと入った。


   ◇


「千景君、おばあちゃん子なんよ」

 数日後、珠紀の家でお茶をしていると、珠紀がそう教えてくれた。

「プライベートなことは詳しく話せへんけどね。ちいさいころからたまに千代さんのとこに遊びに来たりして。夏休みなんかは、ずうっとここで過ごしてたんよ」

「え、そうなんですか」

 灯子は必死に記憶をたぐりよせた。清宮のおばちゃんの家にちいさい子が遊びにきていただろうか。もしそれなら弟は一緒に遊んだりしなかっただろうか。

「今も昔も、あんまし誰かと遊んだりするような子違ったしな」

 珠紀がそう教えてくれる。夏休みもずっと過ごすようになったのは十歳ころからだったらしい。それなら灯子はもうほぼ路地には帰ってきていないころだった。

「じゃあ見かけたことないのかも」

「せやね。然君は知ってたと思うけども、仲良しって感じはなかったんちゃうかなあ」

 珠紀が思い出すように目を伏せる。

「いつ会っても私にも笑顔は見せてくれへんかったし、しずかやったし。でもな、千代さんのご飯食べてるときだけは、ええ顔してはってん」

 ああ、そうなんだ、と灯子は息をついた。

「おばあちゃんのご飯、好きだったんですね」

「彼は彼でいろいろ事情があるんよ。だから……そやなあ、千代さんのご飯、大事やったんやろね」

 その事情をもちろん灯子は知らないし、本人のいないところで珠紀に聞くものでもないだろう。

「じゃあ再現したいのは、単にまた食べたいから、なのかなあ」

「そうかもしらんし、違うかもしらん」

「いや珠紀さん、それなにも言ってないのと一緒」

 珠紀の返しに灯子が苦笑いを浮かべると、彼女は「そんなもんやろ」とお茶をすすりながら言った。

「他人の心のなかなんてわかるわけない」

「それは……たしかに」

「自分の心だってはっきりしいひんことあるやろ」

「そりゃあもちろん」

 むしろはっきりしてるならどんなに楽か。意志や決意ははっきりしても、感情が揺らいだままのことなんてざらにある。

 でもな、と珠紀は続けた。

「千景君はこだわりたいところなんよ」

 珠紀のことばに、灯子ははっとしてから、そうですねと頷いた。

 彼がどういう意図であれ、祖母のカレーを再現したいというのは本心で、大事なのだろう。

 そう思えば理由なんて些末なものかもしれない。

「灯子ちゃんは知らんの? 千代さんのご飯、よう食べてたやん」

「味は覚えてますけど、作り方はいっさい……」

 カレーに限らずごちそうになった回数も品も多い。それでも灯子は一度も作り方やレシピを教えてもらったことはなかった。いつも担当は皿洗いだった。

 ただ清宮のおばちゃんが台所に立っていた姿は覚えている。いつも白い割烹着を着ていた。かわいらしいものが好きなひとだったが、これだけは真っ白が好きなん、と言っていた。

 カレーを作る姿も見たことがある気がする。大きな金色の鍋いっぱいに作っていた。大根をかつらむきしながら「皮は刻んでぽん酢に漬けとけばお漬け物になるさかい」と言っていた。

 レシピは知らないけれど、予想以上にその姿は思い出せた。記憶力はたいしてないのに、灯子にとってもその思い出は大切なものなのかもしれない。

「私も知らんしなあ……千代さん、ご飯作るのじょうずやったさかい、なにか秘伝のレシピでもあるんやろか」

 珠紀さんが庭のほうを見つめながらこぼす。灯子もつられて視線を向ける。彼女の家の庭は、灯子のそれより広く苔むした石灯籠がたたずんでいた。

「台所見たらなにか思いつくかも」

 あの背中を見ていた。休みの日に昼過ぎからずっと清宮のおばちゃんの家にいて、台所に立つ姿を見ていた。「手伝う?」と聞いた灯子に千代は「灯子ちゃんはゆっくりしとき」と笑ってくれる。あの日、なにがあったんだっけ――それは思い出せないのに、なぜか玉葱を刻む音や挽き肉を炒める匂いはよみがえってくる。

「台所?」

「清宮のおばちゃんが料理していた姿は思い出せるので……カレー作ってたときにどこからなにを取り出してたとか」

 珠紀が目をぱちぱちとさせる。しかしすぐに「ほんなら」と手を叩いた。

「今すぐいってらっしゃい」

「え、今すぐですか?」

「そうや。善は急げって言うやろ」

「いやいや、そんなだって千景君いるかもわからないですし」

「おらんかったら今度にしたらええ。とりあえずピンポンしてみたらええやん」

 それはそうなのだが、確信もないただの思いつきでいいのだろうか、と灯子が迷っていると珠紀がほらほらと追い立てるように急かしてくる。

 結局そのまま、追い出されるように灯子は珠紀の家を出た。


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