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京都百梅路地恋路  作者: 八谷紬
春まけて記憶のカレー
8/12

-8-

 気づけば夕方六時を回っていた。

 眠っていたのだろう、身体が重い。目をこすると畳の向こう側を小さな蜘蛛が歩いているのが見える。

 灯子は身体を起こし、その蜘蛛をそっとティッシュで包み、座敷の奥の庭に逃がしてやる。

 四月も半分が過ぎ、もうすぐゴールデンウィークがくる。まだ春だと思いたいけれど、もうすぐ夏のような日々が来てしまうのだろう。

 そのまま縁側に座り、心地よい夕方の風を浴びる。

 手水鉢の横に、タンポポの綿毛が揺れていた。

 帰ってきて半月、こうやってずっとのんびりしていた。

 のんびりしたいと帰ってきたのだからそれでいいはずだ。立ちっぱなしで足腰ぱんぱんにして、クレームを受けたりめんどくさい人間関係が発生したり、仕事がうまくいかずに悩む日々とはさよならしてきたのだ。

 でもいつか貯金は尽きる。それにそれ以上に、すこしずつ虚しさにも似た侘びしさと焦りが生まれてくるようになっていた。

 なんにもないの最高、なんて思えたのはそれこそはじめの三日だけ。

「なにかしなきゃだよなあ」

 と灯子は庭から狭い空を眺め、呟いた。

 かといってなにがしたいかもわからないから困る。

 犬の鳴き声が遠くから聞こえてくる。

 ふう、と息を吐いて立ち上がった。

 とりあえず、あのカレー皿を洗って返さねばと灯子は流し台へと向かう。食べてすぐ洗うべきだったのはわかっている。しばしお湯にひたすことにして、コーヒーを飲むべくやかんを火にかけた。

 インスタントの粉をマグカップに入れながら、ただ皿を返すわけにもいかないよな、と思い至る。

 いただいた皿になにか別のものを入れて返すお移りを考えてみたものの、料理なんてしないので入れれるものがない。市販品でもいいかもしれないが、千景の好みがまったくわからなかった。

 かといって気を遣わせてしまうようなものもやめたほうがいいだろう。

 やかんが沸騰し、高い音を鳴らす。

 大層ではなく、もらってもなんとかなるもの。

 普通に難しいわ、と湯を注ぎながら灯子は笑った。

「……麗に電話するか」

 よくわかんないし、年が離れていても千景は男だ。ならば男のことは男に相談しようと、灯子は親友の顔を思い浮かべていた。


  ◇


「いらっしゃい。久しぶりね」

 帰ってきたというに会ってもくれなかった親友は、五年前よりパワーアップしていた。

 美しいというよりももはや眩しい。栗色の髪は豊かに巻かれほどよく緩くひとつにくくられている。目元は陰影をつけるぐらいのメイクだが、リップは彼に一番似合う朱色。肌は艶があってきれいだし、爪の先まで抜かりない。

 家業であるフラワーショップを継いだ麗、本名鬼瓦一徹は身体も性自認も男性である。ただ自分の思う『きれいなもの』が好きだから、結果女性のような格好をしていた。

 近頃はジェンダーレスな格好も見かけるようになったが、麗は中学のときからすこしずつ化粧を始めるようになったので、奇異の目で見られることも多かった。

 灯子はまっさきに相談された相手でもあった。元々気さくにしゃべれる仲だったし、灯子自身化粧が好きだというのもあったのだろう。

 休日に一緒にメイクを練習して、たまに遊びに出ていたりした。じろじろ見られても、灯子は気にしなかった。ただ彼がなりたい自分になれるよう、麗という名前を贈った。

 今でも新規の客は驚くらしいが、近所や常連のひとたちは彼を彼として受け入れている。

 そのフラワーショップを尋ね、たくさんの花に囲まれて仕事をしていた麗を見て、灯子はため息をついた。

「さすがに老けたねとか言いたかったけど、全然老けてない」

「そりゃそうよ、お金かけてメンテしてるんだから。ていうか灯子、あんたはもう」

 麗がじとっと灯子の全身を見てくる。

「身体たるみまくってるんじゃないの。ってそれよりもなにその肌荒れは」

「え、そんな荒れてないって」

「嘘おっしゃい。化粧でごまかしたってあたしの目はごまかされないわ……はあ、せっかくの顔が台無しじゃないの」

 近寄ってきた麗に両頬をむぎゅっと挟まれた。ははは、と灯子は笑ったものの、そのせいで声が変になる。

 久しぶりの麗に、心が軽くなる。いくら小言を言われてもつらくないのは、彼が年齢や性別などの生まれもったものを理由にはしないからだ。

 花屋という仕事柄、手が荒れて困るわと言っていたのに、麗の手はすべすべでもっちりしていた。

 彼に比べたらたしかに自分はたるみまくりの荒れまくりかもしれない、と灯子も納得する。それでも仕事を辞め京都に帰ってきてから肌荒れが落ち着いてきたのは事実だ。多少腰回りがもたついたのも。

「で、お花でしょ」

 ぱっと手を離した麗が、この話はもうおしまい、といった感じで切り替えた。こういうこざっぱりしているところも灯子が好きなポイントだ。

 昨夜、千景へのお返しをなににすべきかと相談した灯子に、麗はあっさりと「お花にしなさいよ」と答えた。

「千代さんにちゃんとお花活けてるんでしょ? お花代ってバカにならないのよ。遠慮されても千代さんにって言えるし、ちいさな花瓶なら大仰にならずにいいじゃないの」

 そう言われると確かにと思い、灯子は麗の店へとやってきたのだった。

 ランチも誘ってみたのだが、それは忙しいからまた今度ねと断られている。

「はい。あんたのことだから決めてもないだろうと思って、勝手に包んでおいたわよ」

「さすが、できるひとは違う」

「灯子はオンオフの差が激しすぎるのよ」

 麗が見せてくれたのは白と淡いピンクのカーネーションの花束だった。大きさもあの花瓶にちょうどいい。

「ありがとう。すごくいい」

 灯子が礼を伝えると、麗の目がふっとやさしくなった。

「良かったわね、千代さんに挨拶できて」

 麗も千代とは親しくしていた。灯子の家によく来ていたのもあって、一緒に過ごしたこともある。

「……うん」

「にしてもお孫さんねえ……お葬式のときにお見かけしてるけど、細っこくて心配しかなかったわ」

「たしかに。まあでも落ち着いてはいるみたいよ」

「だといいけど。人間、見た目と心は相反することもあるから」

 それはそうだ、と灯子も頷いた。

 協定を結んだという話は、麗にもしてはいなかった。とくに話す必要もないだろうと、そこは省いて経緯を説明してある。

「まあこれも千代さんの縁だと思って、お孫さんのこと気にかけてあげなさいな」

「がんばります」

「あ、でも」

 花束代を支払おうとすると、不意に麗がまじめな顔になる。

「いくら飢えてても、学生に手を出したらアウトよ」

「は?」

 コバルトブルーのネイルが施された人差し指がきゅっ、と灯子の顔を指す。

「いやいや麗、私をなんだと思って」

「冗談よ。あ、お花代はいらないわ。新しい道を選んだあなたへの餞よ」

「え、ありがとう。いやていうか年下苦手なの知ってるでしょ」

「ええ、あなたのトラウマのことならなんだって。懐かしいわねえ」

「もう忘れてよ……それにいくらなんでも向こうだってこんな年上嫌だって。二十歳だよ」

「あら。若いからこそ飛び越えられるものがあるのよ」

 そう言いながら麗がにやにやと笑い出したところで、店に客が入ってきた。いらっしゃいませ、と麗は客の名を呼んだので常連さんなのだろう。

「また今度、話聞かせてね」

 麗が小声で言いながらウィンクしてきたので、灯子はもう笑うしかなかった。


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