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どれだけそうしていたのか、いつの間にか千景がお茶を用意して控えていた。
すみません、と座敷に置かれたテーブルに向き直る。
「ありがとうございます」
丁寧に頭を下げ、千景が言った。
千景が淹れてくれたお茶は、熱すぎず渋すぎず、ちょうどよいものだった。指先まで所作が美しく、灯子は思わず観察してしまう。
相変わらず、表情はとくにこれといってなにもなかった。
それでもその相貌にやつれた感じはない。身なりも部屋も不摂生をしている気配はまるでなく、座っている姿も背筋が伸びていて揺らがない。
大学二回生と聞いていたが、随分と老成した感じがあった。
だからこそ珠紀は心配しているのだろうか、と灯子はぼんやりと考える。
近しいひとの死への捉え方は人それぞれで、日々悲しみに暮れて生きていくのが正解ではない。それに見た目で判断するものでもないし、部外者がおいそれと踏み込んでいい領域でもないだろう。
それでも灯子は漠然とこの子はきちんと泣けただろうか、と思っていた。実際涙を流したかどうかの話ではなく。
灯子が泣いたのは、その知らせを母に聞いてから一週間は経ったころだったと思う。受け止めきれなかったのか、ただやらなきゃいけないことを淡々とやっていた覚えがある。ある日仕事で嫌なことがあってふてくされて、誰もいない部屋に帰ってふと昔を思い出した。こういうときに清宮のおばちゃんならなんて言ってくれるかなと。
そのときようやく実感したのだ。もう二度と話ができないのだと。
彼にはそんなことがあったのだろうか、と灯子は考え、いやいらぬお節介だろうと振り払った。
それよりも今この場をどうするかが先だ。お茶はいただいたものの、無言のまま時が進む。
「京都の大学に通われてるんですか」
とりあえず差し障りのないことを、と灯子が口を開く。
「はい」
「大学ではなにを」
「薬学部です」
「そうなんですか」
しかし全く会話は弾まなかった。マナーは良さそうなのに、こういうときの気遣いはできないのか、と思わずつっこみたくなる。
とはいえ、年上でほぼ初対面の人間相手、しかたがないのもわかる。むしろ接客業だった灯子が頑張るべきなのか、もしくははやくお暇すべきなのかもしれない。
ごちそうさまでしたと辞することにしよう、と決めたとき、またしても息をちいさく吐く音が灯子の耳に届く。
「……大家さんの差し金でしょうか」
伏せ目がちに、千景が言った。
意外な台詞に灯子は思わず目を瞬かせた。
同時にどうしてそんな考えに至ったのかと考える。そういえば向かいの伊勢谷はダメだと言っていたが、もしや彼が同じことをして失敗していたのだろうか。
そうなるとハードルがぐっと上がる。
千景の目がすっと灯子を見据えた。
前髪の影に隠れながらも、きれいな瞳なのがよくわかる。
「正解です」
どうすべきか考える前に、口が動いていた。
隠したってしゃあない、という思いがある。
まさか素直に答えると思っていなかったのか、今度は千景のほうが目をぱちぱちとさせていた。
ようやく見えた揺らぎに灯子ははじめて安堵感のようものを抱いた。
「大家の珠紀さんに、お願いがあるんよ、って言われまして」
「お願い、ですか」
「そう。あのひとのお願いは命令に近いけど。でもだから嫌々やってるってわけではなく、自分なりにどうすべきか考えた結果、動いているわけです」
相手は年下だとわかっていても、急に馴れ馴れしく喋るのも憚られ、灯子はなるべく丁寧に話し続けることにする。
千景は最初こそ面食らった表情を見せたものの、すぐにそれをしまっていた。しかし身体全体からめんどくさそうな雰囲気を醸し出してはいる。
「僕は」とため息混じりに言った。
「一人がいいんです。他人は必要ないですし、誰かと馴れあう気はありません」
こざっぱりとした言い方だった。
それは灯子からすると、なかなかに好感触でもあった。曖昧に濁されたり、その場しのぎで適当なことを言われるより、はっきりと宣言される方が心地よい。
「それがあなたのスタンスなら、それでいいんじゃない」
そのせいか、灯子もさらっと話ができる。
「人の生き方ってそれこそ人の数ほどあるでしょうし。正解もない。自分が好きなように生きるのが一番。無理して自滅するパターンだけは回避したほうがいいと私は思います」
そう言いながら灯子は先月までの自分を考えていた。他人の生き方になぜか口を出してくる人間に何度も出くわし、そのたびに不快な思いをしてきた。
だからそういうのは心底嫌いだ。
他人の生き方に口出すなんて、絶対にしたくない。
千景はまたしても意外だったのか、きょとんとしてしまっていた。しかも今度はしばらくそのままである。
庭に雀が飛んできた。その鳴き声にはっとしたように、千景が「すみません」と口にする。
「実は、僕も大家さんから言われていることがありまして」
「……珠紀さんに?」
「はい。隣の灯子ちゃんと仲良くしいや、と」
続いたことばに灯子はそういうことか、と内心呆れかえりながら笑ってしまった。玄関で名前を聞かれたのはそれもあってのことなんだなと思い出す。
同時に、自分みたいになにかお礼を提示されたのだろうかともすこし気になってしまう。
「珠紀さんらしいといえばらしいけれど……まあ、無理はしなくていいし、私からうまいこと言っておくから」
「だめなんです」
え、と灯子は口を止める。
千景を見ると、うんざりといった顔をしていた。
「命令を聞かないと、面倒なことが起こるんです」
「面倒」
「はい」
おや、と灯子は首を傾げた。
物心ついたときから路地暮らす灯子は、幾度も珠紀のお願いを聞いてきた。今回ほど無茶なことはあまりなかったものの、やらなかったら罰、みたいなことは皆無に等しい。いつも「ありがとう、お駄賃な」と言いながらちまっとしたものをくれるのが珠紀だった。いや、ちょっと渋ったときに「ほんならこないだ灯子ちゃんがうっかり消火バケツに蹴躓いてびしょぬれになってたこと、みんなと話してしまおかなあ」とか言われたことならあった。でもその程度だ。
なのに千景は実行しなければうんざりするほど『面倒なことが起きる』らしい。
しかし考えたところで珠紀の思惑はわからない。
「そこでご相談があるのですか」
千景の目がすっと灯子を捉えた。




