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京都百梅路地恋路  作者: 八谷紬
春まけて記憶のカレー
4/12

-4-

 こういうことは早くやってしまったほうがいい。

 灯子はその週末の昼過ぎ、千代の好物だった和菓子を手に、隣である清宮家のインターフォンを鳴らした。

 とくに仲良くなるための計画はない。

 弔問、というのは考えたものの、弔電と香典はすでに贈っている。それに突然訪ねるのも失礼だろうとやめにした。

 そのかわり、改めて挨拶と千代に世話になったことを話し、食べきれないんでとか言ってお菓子をお裾分けしたらいいだろうと思っていた。

 あれこれ悩んでいてもはじまらない。そのうち珠紀にはせっつかれるだろうし、とりあえず動きましたよという形だけでもと行動にうつした。

 数秒遅れて「はい」という返事が聞こえる。

「こんにちは、突然すみません、隣の龍見です」

 丁寧に、しかし過度な愛想を振りまくこともせず灯子が言うと「少々お待ちください」とインターフォンが切られた。

「なにか」

 すぐに玄関戸がしずかに開けられ、千景が現れる。

 細いな、と灯子は思った。声も体格も、その顔立ちの線もすべてが細い。

 かといって存在感が薄いわけではない。長い前髪が目元を隠していてもその造作が整っているのはよくわかる。背も高く、手足が長い。流行というよりもスタンダードなファッションを着こなしていて、同世代にもモテそうだ。

 ただその表情が、無に等しかった。

 いや、少々うざったそうな空気は身にまとっていた。

「すみません」ともう一度軽く言いながら、これは回りくどい説明をするのはダメだなと判断する。

「先日は挨拶もおざなりにすみませんでした。私、十年ほど前まで隣に住んでいまして。そのとき千代さんには大変にお世話になりました」

 そこまで一気に言って、控えめな笑顔を灯子は作った。

「大家さんにお聞きしたのですが、千代さんのお孫さん、でしょうか」

 念のため尋ねた、というていで話すと千景はすこしだけ間を空けてから、

「はい」

 とだけ答えた。

 文句や苦言を言われないだけましだと灯子は前向きに捉えることにする。

 ちらりと、千景の目が珠紀の家へと向いた。

 しかしすぐにその視線は灯子に戻ってくる。

「……先月まで住んでいた母に変わり、しばらく私が暮らす予定です。ご迷惑かけることもあるとは思いますが、どうぞよろしくお願いします。よかったら、これ」

 視線が動いただけでとくになにも言わなかったので、灯子はここが引き際だなと挨拶を済ませる。和菓子をそっと差し出すと、千景がふうと小さく息を吐いたのが聞こえてきた。

 灯子が視線を上げる。すると千景は首の後ろをゆっくりとさすっていた。

 これはミスったぞ。と灯子は感じた。

 あきらかに迷惑そう。あきらかに嫌そう。

 それでもチャレンジはしたのだから、珠紀にはいいわけができる。

 そもそも十も年の離れた隣人なんて興味ないに違いない。こうやって改めて挨拶に来られただけでうざったかっただろう。

「……あなたが灯子さん、ですか」

 年齢をいいわけにしたくはないが、あとせめて五歳ぐらい若ければ違っただろうか、と灯子が考えていると突如名を呼ばれた。

「え、あ、はい。灯子です」

 驚いて間抜けな声が出てしまった。

 千景は首元の手を下ろしたものの、和菓子は受け取ろうとしてくれない。差し出した手前さげれるわけにもいかず灯子の手はちゅうぶらりんなままだ。

「祖母からお名前は聞いています。あと……」

 そう言うと千景は再び珠紀の家をちらりと見やる。

「……よろしければ、祖母に直接渡していただけませんか」

 なにか言いかけた気配があって灯子は気になったが、それよりもその申し出にぽかんとしてしまった。

 千景は身体を斜めに引き、どうぞと家の中へとうながしている。

 どういうこっちゃ。というのが正直な感想だった。思い出しても最初から彼はずっとうざったそうな雰囲気をかもしだしていた。

 なのになぜ招き入れる。

 灯子は差し出していた菓子の包み紙に目を落とした。これが千代の好物だということに千景が気づいたのかもしれない。そして世話になったと言っている。だから祖母に直接と言ってくれたのか。

 よくわからない。わからないけれど、こういう申し出を断るのは失礼なのでは、とここまで数秒で灯子は考えをめぐらせた。

「ありがとうございます」

 灯子はちいさく頭を下げ、玄関土間へと足を踏み入れた。戸が静かに閉められる。

 ほんとうのところ、葬式に参列できなかったぶん、お線香をあげて手を合わせたい気持ちは十二分にあったのでありがたさもあった。

 玄関土間はすこしひんやりしていたものの、カレーの匂いが漂っている。

 路地に並ぶ家は、大きさはどこもそう変わらない。一列三室型といわれるもので、建物を縦に貫く通り庭に沿って、三つの部屋が奥に向かって一列に並んでいた。通り庭は土間になっており、手前が玄関、奥はキッチン、そして裏の庭に抜け、そこにトイレと風呂が設えてあった。

 灯子の記憶にある千代の家は自分の家と間取りも一緒だったが、それは変わらないようだ。

 懐かしさに目を細めてしまう。実家ではないけれど、灯子にとってはここも家だった。

 しかしあの頃より物はだいぶ減っていて、さっぱりとした佇まいになっている。

 玄関土間の左に表の間と呼ばれる客室がある。灯子はてっきりそこに上がるものだとばかり思っていたが、通されたのは一番奥の座敷だった。

 中の間も座敷も、とてもすっきりと片づいていた。

 千代は家事が得意で、毎日掃除も欠かさないひとだった。しかし生活感には溢れた家で、いい意味でごちゃっとした雰囲気があり、灯子はそれもお気に入りだった。かわいかってんと買ってきたどこぞのお土産の人形やら、趣味の編み物で作った小物やら、カラフルでこまこましたものがあちこちに飾られていたのをすぐに思い出せる。 

 でも今は、そういったものはほとんどなくなっていた。

 灯子は一抹の寂しさを覚えつつも、それとは別に大学生の一人暮らしとは思えない殺風景さに、落ち着かなさも感じていた。

 いや、整理整頓や掃除が得意な大学生だってもちろんいるだろう。むしろ掃除も片づけもはりきってやらない灯子は見習うべきかもしれない。

 それでもどこかがらんどうとしてしまった空気がここにはある。

 そのなかにかすかに漂うカレーの香りが、違和感を覚えさせる。

「お茶を淹れてきます」

 静かだった室内に千景の声が響き、灯子ははっと我に返った。

「あ、おかまいなく」

 と言ったものの、すでにその姿は台所へと消えている。

 座敷には庭からの光がやわらかく降りそそいでいた。

 その庭に向かうように、座敷の手前側に文机が置いてある。

 そこに、千代の写真が飾られていた。

 遺影といった感じではなく、小さな白い写真立てである。

 文机にはほかにお茶の入った湯飲みと蝋燭立て、線香立てと小さな花瓶が置いてあるのみ。位牌やおりんは置かれていない。灯子が視線を文机の下に向けると、マッチの箱と線香が置かれていた。

 正面に正座し、和菓子を写真の横に置く。

 文机は、埃一つ落ちていなかった。

 花瓶には淡い黄色のスターチスが活けられている。

 マッチを擦り、ろうそくに灯した。

 千代は笑顔だった。

 いつ撮ったものなのだろうか。灯子が最後に会ったのは五年前だが、それよりは後な気がした。お花見に行ったのだろうか、桜の木を背に笑っている。

 灯子は線香を立て、手を合わせた。

 言いたいことはたくさんあったような気がするものの、なにひとつとして言葉にはならなかった。

 けして裕福ではないどころか、クラスメイトに馬鹿にされるぐらいの貧乏暮らしだった幼いころ。それでも貧しい気持ちにならなかったのは路地に住む人たちのおかげで、なかでも千代には一番明るさをもらっていたと灯子は思っている。

 母が仕事でいないときは妹とふたりいつも千代の家で夕飯をごちそうになっていた。母があまり料理が得意でなかったこともあり、灯子にとっては千代のご飯が家の味でもあった。

 なにがあっても否定しないで頷いて共感してくれた千代。もちろんそのあとで諭されるのだが、それでも何度悲しさや悔しさをぶちまけてきただろうか。

 いつだって笑顔で、あたたかかった。

 感謝の気持ちを忘れたことはない。誕生日には必ずプレゼントを贈っていたし、機会があればいつも感謝の意は口にしていた。

 それでも、まだまだ返せていないものがたくさんある。

 仕事が忙しいとお見舞いにも行かなかった。

「ごめんなさい」

 ようやくでた言葉は、それだけだった。

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