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京都百梅路地恋路  作者: 八谷紬
春まけて記憶のカレー
3/12

-3-

 二人が適任と言うのは、きっと弟である(ぜん)のことがあったからだろうと容易に想像がつく。母の再婚相手の連れ子だった然は灯子と十歳ちがい。彼が十五のときにその父が病死し、思春期まっただなかで少々荒れ気味だった然の面倒を見るため、灯子は辞職も覚悟で休職し京都に帰ってきたことがある。そのときは千代にも世話になり、然もなんとか落ち着いて灯子はまた復職できた。

 とはいえ、それは血が繋がっていなくとも十年ほど家族として過ごした相手だからこそできたことでもある。

 なんのつながりもない、年の離れたただのご近所さんというだけでは、珠紀が言う『仲良く』すら難易度が高い。

 そもそも灯子には、他人と馴れ合いを好まずひとりで過ごすことが好きだという気持ちがわかるところもあった。ゆえに向こうが困っていないのにわざわざお節介を焼くのも、とも思う。

「灯子ちゃん、べつにかまへんやろと思うてるやろ」

 珠紀が新しいお茶を淹れてくれる。まったく口をつけていなかったことに気づき、灯子は冷めてしまったお茶をぐいっと飲み干した。

「私かて、若い子に年寄りが言うのもかなんやろし、いらんお節介焼いてもなと思って様子見てたんよ」

「ひとりが好きなひともいますしね」

「そやね。でもな、ちょっとだけ、千代さんが言うてたこともわかってきてん」

 灯子の目の前に温かいお茶が置かれる。そっと手を添えると熱が指先にじんわりと伝わってきた。

「路地に馴染もうとしないんはええんよ。誰に迷惑かけるでもなし、しずかにうまいこと暮らしてるわ。ただな、身にまとう空気みたいなんが……うーん、うまく言えへんわ」

 一度見かけたきりの灯子にはうまくつかめない話だった。

 ただたしかに、戻ってきて半月、隣の騒音などに悩まされたことはない。玄関の開け閉めすらしずかだ。家の前もきれいに掃除されているし、ゴミ出しのルールを守っていないということもない。

「とにかく、灯子ちゃん、声だけでもかけてみて」

「だけでもって……とりあえず気にはかけるように……ってそれじゃ許されないんですよね」

「当たり前やろ。気にかけるだけなら誰でもできる」

「私よりほら、お向かいの伊勢谷(いせや)さんでしたっけ、彼の方が同性でいいんじゃ」

 話ながら灯子は向かいに住む男性のことを思い出した。

 柔和そうな雰囲気で四十代ぐらい、それ相応に年はとっているがそれゆえの色気がある男性だった。

「伊勢谷さんはあかん」

 しかし珠紀が即座に却下する。

「え、なんでですか」

 何度か見かけて挨拶しただけとはいえ、悪い印象は抱いていなかった。

「なんででもあかん」

 問答無用だった。

 なにがあるのか気になったものの、珠紀の表情が怖かったので灯子はそれ以上追求するのはやめにする。

 お茶を一口飲む。

「仲良くって、具体的になにをしたら」

「そんなん自分の頭で考えて」

「ええー……珠紀さん、相変わらず無茶言う」

「ああでも、なにもただでとは言わんよ」

 妥協点を探すのも無理か……とそろそろ諦めはじめていた矢先、予想外のことばが聞こえてきて、灯子ははたと動きをとめてしまった。

「いや……えっと見返りあるのとか怖すぎなんでよけい嫌です」

「見返りとか品がないわ。そんなんちゃうし。こっちがお願いしてるんやから、相応のお礼をと思ってるだけやないの」

 その相応のお礼とやらが怖いんです、と不安が膨らむ。

 珠紀はお願いをするときには、たとえ子ども相手でも礼を忘れないひとだった。

 しかしそれはいつもこちらが承知したあとに「ありがとう」と提示してくるものだった。

「ただでとは言わんよ」などと前もって言ってきたことはない。

「家賃半額」

 これは相当めんどくさい案件なのでは……と灯子が身構えていると、予想の斜め上どころか明後日の方向から提案が振ってきた。

「……はい?」

「だから、家賃を半額にするって言うてるやろ」

 いやいやいや! と灯子の頭のなかにある警報の鐘がガンガン鳴らされる。灯子が考えうるお礼のレベルをとうに越えていた。

「灯子ちゃん、仕事辞めてゆっくりしてるみたいやし、お家賃半分になったら、うれしいかなあ思て」

 うろたえる灯子に、珠紀は策士よろしくたっぷりとした余裕を持って笑いかけた。伊達に女一人でこの路地を長年しきってきただけの貫禄がある。

「いやさすがに……」

 そう言いかけて、灯子は珠紀を見た。

 灯子だって千代には返しても返しきれない恩がある。彼女の最期の頼みだといえば、できる限りのことはしたいと思うだろう。

 それは自分の収入が半減したとしても、だろうか。

 弟のときは、仕事がなくなってもいいと思った。それよりも家族だった。とくに然は血の繋がらない姉である自分に真っ先に懐き、頼ってくれた相手でもあった。

 そこまで考えて、ああそうかと思い当たる。

「珠紀さんにとったら、家族、ですよね」

 常日頃、彼女が口にしていたことだった。

 珠紀は六十になるが一度も結婚はしたことがないという。甥姪などの親族はいるが、子どもはいない。

『私にとったら路地のみんなが子どもみたいなもんなんよ』

 なにかあるたびに、いやなにもなくてもそう言っていた。灯子も小さいころからずっとかわいがってもらっている。

 店子は珠紀にとって家族も同然。千代はとくに仲のよかった相手でもある。

「……あんまり、期待しないでくださいよ」

 最初から珠紀のお願いを断る術がないことはわかっていたものの、ようやく自分の落としどころを見つけて、灯子は珠紀に承知の意を伝えた。

「灯子ちゃんならわかってくれると思てたわ」

「言っときますけど、けして家賃半額に負けたわけでは」

「ほんならお礼違うのにしてもええ?」

「いや、いただきます」

「ふふ、灯子ちゃんのそうゆうとこ好きやわあ」

 悔しいのは家賃半額が正直とてつもなくありがたいことだ。貯蓄があるとはいえ、無職で一軒家の家賃は厳しい。

珠紀からの申し出は、灯子にとったら助かる以上のものだった。

 このあたりも、さすがの大家なのかもしれない。

「安心し、千景君はええ子やから」

「それって、大人から見たええ子なんですよね」 

 灯子が返すと、珠紀は湯気の昇るお茶を一口飲んで、

「ほんま、灯子ちゃんに頼んで正解やわ」

 うふふ、と笑みをこぼしていた。


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