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お願いがあるんよ。
一言目に珠紀がそう言うときは、命令に等しいことを灯子は長い路地生活で学んでいる。
そしていまだかつて一度も拒否できたことはない。
座敷に上がり、お茶をいただき、珠紀が佇まいを正したところでその一言目が発せられ、灯子はやっぱりと気づかれないように天を仰いだ。
「隣の清宮さんちの……千代さんのお孫さんには会うた?」
「え、お孫さんですか?」
珠紀が大家を務めるこの百梅路地には六軒の借家があった。
路地は京都では観光ガイドに載るような、昔ながらの町並みだ。碁盤の目状に道を張り巡らした京都では、その通りに囲まれた中央部分が空き地になってしまう。その空間に入るためにちいさな道を作り、家屋を建てた。
車の入れない細い道の両側に、ちいさな京町屋が並ぶ。その風景はレトロで懐かしくもあり、よく映画やドラマの撮影にも使われていた。
百梅路地も古くからあり、大家の一条家は今でこそ畳んでしまったが元は織物業を営んでいたそうだ。その職人たちを住まわすために、路地をつくったという。
灯子が住んでいるのは西側三軒の中央。隣の千代というのは、灯子が「清宮のおばちゃん」と呼んでお世話になりっぱなしだった女性だが、去年亡くなってしまった。
仕事がどうしても忙しかったとはいえ、葬式に参列できなかったことを灯子は今でも悔やんでいる。
「そう、千代さんのお孫さんが住んでるんよ」
「えらい若い男の子が住んでるなあとは思ってました」
「あんた、帰ってきて半月も経つんに知らんかったん」
「挨拶はしましたけど、それきりだったもので」
京都に帰ってきたその日、灯子はその青年と路地で会っていた。挨拶をと思った矢先、家から出てきたので少々焦ったことを覚えている。そのせいか、表札も見ていない。
高校生か大学生か、それぐらいに見えるきれいな顔立ちをした子だった。
『ああ、どうも……よろしくお願いします』
交わしたことばはそれぐらい。あとはご家族の方にもよろしくお伝えください、と言う灯子に『ひとりなので』と答えただけだ。
珠紀が頬に手をあてて、はあとこれみよがしにため息をついた。
「まあええわ。ほんでな、その千景君と仲良うしてほしいんよ」
「え……はあ?」
たとえせまい路地の店子同士とはいえ、そんなすぐに打ち解けるほどの、と灯子が思っていると、珠紀の口からとんでもないお願いが聞こえてきた。
思わず二度聞きする。
「すみません、珠紀さん今なんと?」
「せやから仲良うしてな、て」
なかよう。
その単語がもしや自分の知っているものとは違うのではないだろうかなどと、灯子は思わず考えてしまう。
千景というのが孫の名前なのは理解した。
しかしいったいなにがどこと繋がって、今の話になるのかがさっぱり理解できなかった。
「いやいやいや、ちょっと待ってください、なんで私が高校生ぐらいの子と」
「千景君は高校生ちゃうで。大学二回生」
「どっちにしたって年が離れてますって」
大学二回生ということは、ストレートで入学して今年二十歳。今年三十一を迎える灯子とはだいぶ年齢差がある。
「なにゆうてるの。べつに恋人同士になりなさいとかゆうてないやろ。いややわ、早とちりして」
混乱する灯子をからかうように、珠紀は余裕の笑みを浮かべてお茶をすすっていた。
「いやそういう話じゃないのはわかってますよ」
「そうなん? でも私はべつに十ぐらい離れててもええと思うけどな」
「え、いやまあ、それはそうですけども……ってだから」
ふふふと笑う珠紀の視線を灯子は必死でよそに向ける。
「そういう話じゃなくて、なんで私なんですか」
昔から珠紀に適ったことはない。それでもおいそれと引き受ける気にもならない。
「なんでて、だって灯子ちゃんがこの路地で二番目に若いさかい」
「ええー……」
まさかの理由に、灯子はことばを失った。せめてもうすこしそれらしいものがあるのではと思わなくもなかった。
百梅路地で灯子が二番目に若いのは事実だ。六軒ある借家もひとが住んでいるのは灯子の家である龍見家含め四軒。灯子が元から知っている顔はもう珠紀ひとりだけ。残りは四十前後の男性の一人と、五十代の夫婦だった。
路地の京町屋は大きくはないが狭過ぎるわけでもない。百梅路地は珠紀が定期的に手入れをし、住人の意向に合わせてリフォームしていたりする。
とはいえ、古い昔ながらの建物。風呂は庭に後付けだし、車も停められない。若い人や子ども連れには少々住みにくいのも頷ける。
だからといって若いを理由に指名されるのは、灯子としても納得がいかなかった。それに年も三十を越えたのなら十も十五も離れていても気にならないが、十代二十代の十歳上は世界が違いすぎるだろうと思わなくもない。
「待ってください、そもそも仲良くする理由ってなんですか」
「そんなん、お隣さんやん」
絞り出した抵抗もあっさりと切り捨てられ、灯子はますます脱力する。
このちいさな路地で、いくら他人とはいえいざこざは起こしたくないからある程度うまくやるのはわかる。
「いや珠紀さんが言う仲良くは、ご近所づきあいのことじゃないですよね」
「なんや、よおわかってるやないの」
さすがやわ、と珠紀がどこからか饅頭を出してきて、灯子の前に置いた。灯子が大好きなお店の黒糖まんじゅうだった。
「まあお隣さんやし、というのは半分」
珠紀はそう言いながら、自分のぶんの饅頭を割ってひとかけ口に入れた。
「千代さんに頼まれてん」
「清宮のおばちゃんに、ですか」
「そ。千景君が越してきたんは去年の春。千代さん、そのころはまだ元気やったし、しばらくは一緒に住んでたんよ」
そう語る珠紀の顔が、すこしだけもの悲しくなったように灯子には見えた。
聞けば孫の千景は京都の大学に進学したため、祖母の住むここに越してきたという。元は大阪に住んでいたらしい。
「お見舞いに行ったときな、千代さんが言いはったん。あの子は、人見知りが過ぎるゆうかどうも人を遠ざけるようになってしもて。もっと人に頼るってことを覚えてもらいたいんよ、って」
灯子はそのことばを清宮のおばちゃんの声で再生することができた。いつも朗らかで、丸っこくて、ほんわかということばがぴったりだった。灯子の喜怒哀楽にいつもつきあってくれて、それでいて誰も否定することのない、やさしい女性だった。
「つまり、周囲に馴染めないと」
「馴染めないやなくて馴染もうとしないのを心配しとった。ごめんやけどよろしくね、って言われたわ」
灯子の記憶では珠紀と千代はキャラクターこそ違えど仲がよく、一人暮らし同士助け合おな、と言い合っていた。
だからこそ、そう言った珠紀が「ごめんはよけいやわ」と唇を尖らせた気持ちもわかる。
あとな、と珠紀が続ける。
「灯子ちゃんがいてくれたらなあ、って」
「え?」
いきなり自分の名が出てきて、灯子は目を瞬かせた。
「せやから、灯子ちゃんに頼んでんの。まあ私も適任やと思うし」
珠紀はしんみりとしてしまった空気を取っ払うように、残りの饅頭を口のなかに放り込んでお茶をすする。
「……清宮のおばちゃんが」
「そや。え、なに疑うてんの?」
「いやいや、珠紀さん嘘だけはつかないですから」
「なんよ、嘘だけは、て」
拗ねた珠紀に灯子は笑ってすみませんと応じながら、清宮のおばちゃんのことを思い出していた。




