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京都百梅路地恋路  作者: 八谷紬
春まけて記憶のカレー
11/12

-11-

 土曜日。天気は朝からとてもよく、風の心地よい日だった。

 灯子は朝から家中の窓を開け放ち、今日もやるぞと気合いを入れる。

 毎日すこしずつでも、と灯子は片づけと掃除をするようになっていた。玄関、中の間と進み、今日はいよいよ台所に手をつける。

 玄関土間の続き、通り庭に設えられた台所は吹き抜けになっていて高窓から光が降り注ぐのでとても明るい。灯子が帰ってくるまではそこそこ使われていたであろうここも、今では主がいない。

 まずは不要なものを捨てるところからはじめよう。

 意を決して灯子はコンロの下の開き戸に手をかける。

 めちゃめちゃ汚かったらどうしよう、と不安だったものの、予想していたよりはましな状態で調味料が収まっていた。

 とはいえ、ストックのつもりだったのか重複していたり、油がこぼれた跡があったり、やらなきゃいけないことはたくさんある。これが終わったら隣の棚があるし、ガスコンロや流しも磨きたい。

 整理整頓も掃除も得意ではなかった。

 それでもやりだしたら無心になれる。

 不要なものが減り、収まるところにものが収まり、すこしずつきれいになっていくのは気持ちもよかった。

 これで収入が得られるわけじゃない。

 でも自分のなかのなにかは得られる気がする。

 掃除を始めて二時間が経ったころ、チャイムが鳴った。

 インターフォンは後ろの中の間についている。一応確認するかと思いつつも、玄関を見やると人影はちょうど千景ぐらいの大きさだった。

「はあい」

 確信したわけではないものの、灯子はモニターを確認せずにその場で返事をした。

「隣の清宮です」

 やっぱり、と思いながら灯子はゴム手袋を外し、玄関の鍵を開ける。

 そこには大きなお鍋を持った千景が経っていた。

 カレーのいい香りが灯子の鼻をくすぐる。

「確認していただけたら、と思いまして」

 その整った顔が、すこしだけ不安そうな色をたずさえていた。

 灯子はひそかに笑ってしまう。

 おかしいわけじゃない。ただ安堵に似たものが、灯子をほほえませていた。

「できた?」

「……たぶん」

「ていうか私が確認でだいじょうぶ? 嘘つくかもしれないし、覚えてないかもしれないよ?」

 ほんとうは割と自信があった。清宮のおばちゃんのカレーは彼女の作ってくれたメニューのなかでも一番といっていいぐらいに大好きなものだ。

 でもそれを信じてくれるかどうかはわからない。

 千景は鍋を両手で持ったまま、灯子の目をじっと見つめるように顔を向けてくる。

「ほかにいないですし」

「おっとそうきたか」

 灯子が苦笑を浮かべると、千景がほんのすこし目を伏せた。

「それに、龍見さんはそういうの苦手そうだなと」

「……そういうの?」

「お世辞とか、お愛想とか」

「あー、おべんちゃらね。うん、ないない。無理」

「自分ではっきり言うひと、めずらしいですよね」

「そう? あ、でも仕事は別。仕事は愛想が大事だから」

 ああ、と千景がうなずいた。

「それは、わかる気がします」

 意外な返答だった。失礼ながらも愛想とは無縁そうに灯子には見えていた。

「……一応、僕だってアルバイトとはいえ仕事してますから」

「あ、そうか。っていうか、え、バイトでは愛想いいの、ていうかなんのバイトを」

「さらっと失礼なこと言いますね。これでも接客業です」

 おっとこれは予想してなかった答えだぞ、と灯子のなかの好奇心が湧いてくる。千景が接客業をしている姿は想像すらできない。

「接客業……なにかの店員か……え、ちょっと見たい……」

「そんなことより、カレーです」

 どこで働いてるの、という質問は遮られてしまった。見た目のいい千景が愛想よく働いている姿を想像しようとしたがむずかしい。純粋に興味があったものの、下心があると思われてもいやなので、それ以上は追求しないことにした。

「ちゃんとご飯も炊いてきましたから」

 そう言って千景が鍋をはい、と灯子に差し出す。言われるがままに受け取ると「取ってきますので」と千景は玄関を出ていった。

 準備のよさに笑ってしまう。実際、まだ米は買ってなかったので彼の行動は正解だ。

 磨いたばかりのコンロに鍋を乗せ、カレー用のお皿を取りだしていると炊飯器を持った千景が戻ってきた。

 その炊飯器を空いていたスペースに置く。蓋を開けると、炊き立ての甘い白米の香りがふんわりと広がった。

 さっき洗ったばかりのしゃもじを渡す。

 途中とはいえ掃除しておいてよかったな、と胸をなでおろす。

 千景はごはんを丁寧に装い、今度は鍋の蓋を開ける。

 鍋にはたっぷりのカレーが入っていた。挽き肉、玉葱、大根、しめじ。スパイスの香りは控えめだけれど、一気にお腹のすく匂いが灯子のところにもやってくる。

 カレー皿とスプーンは二つずつ用意した。

 しかし千景は一皿しかよそわなかった。

「千景君は?」

 もうすぐお昼になる。食べないのと問うてみたものの、彼はどうぞと皿を出すだけだった。

 まあとりあえず、と灯子は中の間に千景を通した。彼はおじゃましますと靴を脱ぎ、ゆっくりと部屋に入る。

 ちいさなちゃぶ台に向き合って座ると、灯子はすこしだけ気恥ずかしさのようなものを覚えた。中の間は三畳しかないため距離も近く感じてしまう。しかし広い座敷はまだ片づけが済んでないししかたがない。

「いただきます」

 手を合わせてからスプーンですくう。直前まで火にかけていたのだろう、カレーはまだ湯気がでるほどだった。

「……あ」

 口に入れて咀嚼して。灯子のなかになつかしい味がひろがる。

 清宮のおばちゃんのカレーはかなりの甘口だった。さらさら系ではなく、ルーはもったりとしている。それでいてしつこくなく、合い挽き肉のおかげか旨みもある。

「うわー……なつかしい……」

 正直な気持ちが口から漏れてしまう。

 しかもこれを千景が試行錯誤して再現したかと思うと、おいしさと極まってあたたかいものが胸に広がってゆく。

「しあわせそうに食べるんですね」

 おいしさとなつかしさを噛みしめていると、千景がそう言って笑った気がした。

「おいしいとしあわせは繋がってるからね」

 二口目を飲み込んでから灯子が言うと、千景の笑顔が消えた。

 むしろ俯いてもいないのに、影がさっとさしたように見えてしまう。

「繋がってると、思ったんですけれど」

 つぶやいたような声にも、一抹のさみしさがあった。

 その姿を、灯子はどこかで見たことがあった。

 もちろん千景ではない。べつの人物だ。うまくいかないことがあって、ふてくされたような、さみしさのようなものを全身で発して。

『食べることは、受け入れることなんよ』

 そう言って清宮のおばちゃんが、目の前に大きな皿を置いた。山盛りの柴漬けチャーハン。

「千景君も、食べよう」

 考えるより先に、口が動いていた。

「え、いや、味見はしましたし」

「味見と食事は違うでしょ」

 そう言って灯子は立ち上がり、台所に降りてもうひとつの皿にカレーをよそった。

 たっぷり、盛った。


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