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京都百梅路地恋路  作者: 八谷紬
春まけて記憶のカレー
10/12

-10-

 まだ夕刻。空は明るい。路地は誰もいないのか、やけにしずかだった。

 昔とはすこし違うその光景に灯子が思わずしんみりしていると、千景が路地へと入ってくる。ちょうど帰宅したところなのか、大きめの鞄と買い物袋らしいものを持っていた。

「……こんにちは」

 灯子が路地のどまんなかに立っていることが不思議だったのか、千景はすこしだけ怪訝な表情を見せた。

「……こんにちは。今帰り?」

「はい……龍見さんは」

 灯子は大家の家を指す。

「珠紀さんのところにいた」

 ああ、と千景がうなずく。そしてすぐに思案顔へと変わった。

「ああ、えっと、別になにか報告したとかじゃなくて、たんに一緒にお茶してただけ」

「仲いいんですね」

「まあ子どものころからここにいるからね。あ、そんなことより」

 そんなことよりってなんよ、と珠紀に言われそうな気がして、灯子は思わず口の端で笑ってしまった。

「カレーのことなんだけど」

 そのひとことで、千景はなにをさしてるかわかってくれたらしい。はい、とちいさくうなずいた。

「作り方は私も知らない。でも、作ってた千代さんの姿は覚えてるんだ。だからもしよかったら、台所を見せてほしいなと」

「台所、ですか」

「もちろん余計なお世話だっていうんなら、これ以上はなにも言わない。でももし再現したいなら……といっても私も確実なことはなにも言えないかもなんだけど」

 見たところでなにも思いつくことがないかもしれない。もし思い出してもすでに千景が知っている可能性もある。

 それでもよければ、と灯子は申し出た。

 千景はしばらくなにも言わなかったが、やがて「わかりました」と丁寧に口にした。

 仲のいいふりをしてほしい。

 そう言われたとはいえ、あくまでふりであって、仲良くしてくれとは言われなかった。

 だからいくら彼が祖母の味を再現したくとも、この提案は断られるかもしれないと灯子は思っていた。

 でも千景は、玄関の鍵を開け「どうぞ」と招き入れてくれる。

 つまりそれだけ、彼にとっては大事なことなのだ。

「おじゃまします」

 と灯子は家と千代に挨拶し、これはちょっとがんばりたいぞ、と自分に気合いをいれていた。

 通り庭に設えてあるキッチンシンクは灯子の家のものとなにも変わらなかった。最新でないどころか少々古いデザインで、給湯器がついている。珠紀がそろそろIHにしようかなと計画しているらしいものの、年内に変わりそうにはなかった。

 流し台の下に、開き戸がついている。シンクの横には電子レンジが乗せられた冷蔵庫とちいさな棚。その上に炊飯器が乗っている。

 水回りも、コンロもとても丁寧に磨かれていた。自分の家との違いに灯子は感心のため息をついてしまう。流しには生ゴミ用のコーナーなどもなく、水切りカゴにはマグカップがひとつ伏せられているだけ。千代が使っていたころも片づいてはいたが、玉葱や唐辛子が吊されていたり、菜箸やおたまが置かれていたり、生活感があった。

 買い物袋の中身を片づけた千景が、どうですか、と言わんばかりに灯子を見る。

「調味料とか入れてる場所って変わらない?」

 灯子の記憶では、コンロ下が調味料、シンク下が鍋やボウルなどの調理器具がしまっている場所だった。

「はい。調味料も同じものを使ってます。開けてもかまいません」

 開けたらそれはきれいに並んだ景色があるのだろうな、と灯子は想像した。灯子は料理をしていないので家のシンク下もほぼ開けていなかった。でも料理や掃除が得意でなかった母なのできれいとはいえないことはわかっている。

 灯子は中の間の入り口に立って、千代の姿を思い出した。

 材料をすべて切ってから、千代は手際よく炒めていた。金色の大きな鍋で挽き肉、玉葱、大根、しめじの順で追加しながら炒めてゆく。塩や胡椒をそこで振っていた記憶はない。大蒜や生姜などの香味野菜も使っていなかった。玉葱を飴色になるまで、もやっていなかった。

 ある程度炒めたら、やかんに汲んだ水を注ぐ。

 それから開き戸を開け、なにかを入れる。

「えーっと、そう、砂糖」

 まず思い出したのは、プラスチックの容器だ。蓋を開けてスプーンで入れている。

「で、醤油」

 次に出てきたのはメジャーな醤油のボトル。計量カップなども使わず直接鍋に注ぎいれる。

 しかし千景の反応はいまいちだった。そこまでは知っているのか試したのかもしれない。

 灯子はすこしだけ焦る気持ちを抑えて、ほかにもなにか入れていたはず、と思い出す。

 千代がコンロ下に醤油をしまい、別の調味料を取り出す。大きくて、すこし重そうで。茶色の――

「あ、わかった。日本酒」

 つい声が大きくなってしまい、灯子ははにかんだ。

「日本酒、ですか」

「そう。たぶん一升瓶じゃない?」

 千景がおもむろにコンロ下の棚を開け、茶色の瓶を取り出した。

「これですか」

「そう、それそれ。たしかおばちゃ……千代さんは、料理には料理酒を使うよりほんもののお酒を使ったほうがおいしいって」

「ああ、そうです。みりんも、みりん風調味料ではなく少々高くてもみりんを、と」

「そうそう。うわあ、なつかしいなあ」

 料理が好きで得意だった千代には、そういうこだわりがあったことを思い出す。砂糖もおなかにいいらしいからと白砂糖ではなくてんさい糖を使っていた。道具は馴染んだものが一番、と古くなっても壊れない限りはずっと同じものを使っていた。

 そんな些細な思い出がよみがえってきて、わびしさのようなものが灯子の胸にひろがってゆく。思わず鼻を鳴らしてしまい、ばれないようにあえて笑ってみせた。

「でもさすがに、分量まではわからない」

 そんな灯子を見ていたのか、千景の瞳もまた哀しみに彩られているような気配を見せていた。でもそれは灯子の思い過ごしかもしれないし、勝手な幻想かもしれない。

「いえ、充分です」

 応える声は細くてもはっきりしていたし、揺れてもいない。一升瓶を大事そうにしまい、千景がこちらに向き直る。

「とりあえず……どばどばっと入れてたとは思うんだけど」

「どばどばとですか」

「うん……そのあとお酒の香りが広がったような気もするし、隠し味程度ではないのかも」

 日本酒を入れることにどんな効果があるのか、灯子は知らない。ビーフシチューに赤ワインというのは知識程度に知っていたが、カレーに日本酒というのは聞いたことがなかった。

「砂糖と醤油は思いついたんです。でも日本酒は試していなかったので、助かりました」

 千景がほんのすこし笑った気がした。

 その笑顔がうれしくて、灯子もすこし笑ってしまう。

 仕事をやめてから、こんな気持ちになったことはなかった。仕事をするのは自分のためだったけれど、客がよろこぶ姿を見たい自分のためにがんばってきた。ありがとう、助かりました、そう言われるたびにがんばってよかった、私の知識と技術は無駄じゃなかったとうれしい気持ちになれた。

 その仕事をやめて、のんびりしたいと思いつつもどうしてか生まれてくる焦燥感が、今すこしだけ消えた気がする。

 また試してみます、という千景のことばに頷いて灯子はお暇することにした。もう一度かつての千代の、今は千景の台所を眺め、私もすこし掃除をしようと心に決める。

「あ、そうだ」

 玄関を出ようとしたところで立ち止まり、千景に向き直る。

「灯子でいいよ」

「え?」

「呼び方。龍見って名字、いかついからさ」

 名字がきらいなわけではない。

 ただかしこまって龍見さんと呼ばれるのはむずがゆかった。関係性の薄いひとならいいけれど、協力して仲のいいふりをするような間柄なら、気楽に呼んでほしい。

 灯子、という名は好きだ。ほぼ記憶にない実父が残してくれた大切な名前。明かりを灯せるような子になってほしいという願い。

 千景はすこしだけ考えるそぶりを見せたものの「わかりました」とはうなずいてくれなかった。

 まあこの間までただの隣人で、年も離れてるししゃあないか。

 灯子はそう思いながら「じゃあ」と清宮家を後にした。


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