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京都百梅路地恋路  作者: 八谷紬
春まけて記憶のカレー
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-1-

 ドレスはやぶれなかった。代わりに左足のヒールが折れ、灯子(とうこ)の右手にはウエディングブーケ、左手には靴が握られた。

 我慢の限界だった。

 しかし清々しいのは灯子とその上に広がる青空だけで、参列客の空気は気まずい。

龍見(たつみ)先輩、そろそろ本気でブーケ狙ったほうがいいんじゃないですかあ」と言ってきた新人後輩の顔はひきつっている。既婚者でおせっかいな友人がむりやり紹介してきた派手な年上男はそそくさと離れてゆく。「独りを楽しむのだっていいよね」と下心丸出しで言い寄ってきた上司は無関係を装っている。

 なにもかもが、うざかった。

 灯子はひとつ、息をつく。身勝手な行動で、慕ってくれた後輩の結婚式を台無しにした罪は重い。いくら新郎が灯子の元彼であったとしても、お祝いの場には違いない。

 今月参列した結婚式はこれで三つめ。懐はすでに痛かったが、あとでお詫びを兼ねてなにか贈り物を、と考えながら灯子は顔を上げた。

「灯子先輩さっすが! かっこいい!」

 ところがその視線の先、階段上の新婦は手を叩きながら喜んでいた。隣に立つ新郎はあきらかに灯子の行動にウケていて、隠すことなく笑っている。

 そのおかげで漂っていたいやな空気は薄まってゆき、参列者も各々になかったことにしようとするがごとく、新郎新婦へのお祝いへと気持ちを切り替えていっていた。

 後輩と元彼に助けられた灯子は、右の靴も脱ぎ、会場の隅にいた最年少の参列者に淡いピンクのブーケをプレゼントする。天使のようなふわふわなドレスを着た女の子は、灯子の予想以上に喜んでくれた。

 ストッキングの足で芝を踏みしめ、灯子はふたたび新郎新婦へと視線をやる。

 幸せそうに、うれしそうに、新郎新婦は階段を下りてきてみなに祝福されていた。

『もうすこし、守ってあげたいと思えるようなひとと結婚したいんだ』

 別れ際言われた台詞を灯子はふと思い出す。

 言った本人は今、照れた顔を見せながらも満面の笑みだ。つまりはそういうことなんだろう。

 おしあわせに。

 灯子はちいさく呟く。

 嫌みでも妬みでもない。心から、そう思う。

 ただあそこにあるのは、自分の幸せと違っただけだ。

『もっと頼って欲しい』

『一緒にいると自分が情けなくなる』

『すこしは甘えてこいよ』

 頭のなかに過去の男たちの台詞が浮かんできて、灯子は天を仰いだ。自分の見る目のなさを笑う。

 めんどくさい。

 その思いが灯子のなかで広がってゆき、やがてもういいか、という気持ちが生まれてきていた。


  ◇


 寝間気のまま庭に面した障子戸を開けると、ぽかぽかとした陽気が灯子を包んでいく。

 久しぶりの京都の春は、記憶のままそこにあって、ほんのすこし拍子抜けだった。

 ただひとつ違うのは、実家に帰ってきたというのに灯子一人きりということだ。先月まで暮らしていた母は灯子が帰ってくるのをこれ幸いとばかりに、三人目を妊娠中の妹が嫁いだ北九州へと行ってしまった。大学生の弟は大阪で一人暮らしをしている。

 せっかく実家に戻ってきても家族はおらず、灯子の暮らしは東京のときのそれとほぼ変わらなかった。

 べつに家族と仲良くしたかったわけではない。

 ただしばらくはゆっくりして、休暇というよりも癒しが欲しいなとは思っていた。外食やテイクアウト、コンビニやインスタントばかりの食事ともおさらばして、家庭料理というものを久しぶりに味わえるかもと(たとえ母の手料理がいまいちでも)期待していた。

 しかしそのあては見事にはずれ、変わったのは住まいが狭いアパートから懐かしい路地の一軒家になったことぐらいだった。

 その路地も、今は灯子がいたときとがらりと住人が変わっている。

『おはようおかえり』

 はやく帰ってきてね、待ってるからね。最近あまり聞かなくなったこの方言も、この路地ではよく聞こえていた。でも今は、子どももいないせいか静かなものだ。

 縁側に座り、朝ご飯用にと近所のパン屋で買ってきた四枚切り食パンをそのままかじる。

 狭い庭には、ちんまりとした侘助椿がその葉に光を浴びていた。

 もそもそと食パンを咀嚼しながら、灯子は昨日のランチを思い出す。

 灯子が帰ってきたことを知った高校のときの友人が誘ってくれたランチだった。灯子のほかに三人。久しぶり、さすがに老けたね、そりゃもう三十だもんね、なんて話ながらこじゃれたイタリアンのお店に入った。 

 でも話についていけたのはそこまで。

「うちの子の保育園ったらさ」

「このあいだ旦那がね」

「小学校の受験勉強が大変で」

 子どももおらず、結婚もしていないのは灯子だけ。

 気がつけば相槌だけで、デザートまで辿りついていた。

 彼女らに悪気があったわけではないだろうと灯子は思うようにしたものの、帰宅後は謎の疲労感でぐったりしてしまった。

 なんともいえない気分を抱えて、親友である(うらら)ならこの気持ちを共有できるんじゃないかと電話してみたものの、

「今あたし、忙しいのよ」

 とあっさり振られてしまったのも、哀愁を増長させる結果となった。

 ため息がこぼれる。

 気がつけば三枚目の食パンに手を伸ばしていて、さすがにと灯子は袋にしまいなおした。

 どこかで猫が鳴く。

 好きだった美容部員の仕事を辞めたことを、後悔はしていない。

 あの日、後輩の結婚式で意地を張ったことも、離れた恋人を追わずむしろ「なんで守られなきゃいけないんだ」と思いながら独り酒を煽ったことも、恥ずかしい過去でもなんでもなかった。

 立ちっぱなしで疲れた身体に、心に鞭打って必死に頑張ってきた日々を終わらせた。つらかったばかりじゃない。楽しいこともうれしいこともたくさんあった。それらもひっくるめて、灯子はこの春、すべてをおしまいにしてきた。

 自分で決めたことだったのに、それでもどうしてか虚しさに似た気持ちが生まれてしまって、しかもずっと居座り続けている。

 その居心地の悪さを灯子はどうしたらいいかわからないままにしていた。

「コーヒーでも飲むか」

 誰に言うでもなくひとり呟いて立ち上がると、玄関のチャイムが軽快に鳴り響いた。

「灯子ちゃん、おはよう。おるやろ」

 続いたよく通る声はこの路地の大家である珠紀(たまき)のものだった。

「はあい、今出ます」 

 灯子はとりあえず返事をして、テーブルの上に置きっぱなしだったヘアクリップで髪の毛を適当にまとめる。部屋着のままだったものの、そこまでみすぼらしくはなかったのでこのままでいいかと、玄関土間へと向かった。

「おはようございます」

 そう挨拶しながら玄関を開ける。やはり珠紀が立っていた。今日は練色の小紋を着ている。

「はい、おはよう。ちょっと話があるさかいに、着替えたらうち来てくれるやろか?」

 着替えたら、の部分がほんのすこし強調されていた気がして、灯子はしまったなと内心笑う。

 と同時に、珠紀に呼び出されるなんて嫌な予感しかしないと、身構えてしまう。

「え、なんですか」

 しかし珠紀は「ほな」と手をひらひら振って、軽快な足取りで路地の突き当たりにある家へと入って行ってしまった。

「相変わらず、勝手というか自由というか」

 思わずこぼす。

 珠紀は灯子が物心ついたときにはすでにもう大家だった。そのときからのつきあいなので、いろいろあったしいろいろ知っている。

 だからこそ行きたくはなかったし、行かないわけにもいかないことも、灯子は重々承知していた。

 しゃあない、ととりあえず着替えて顔を洗って、灯子は大家の家へと向かった。

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