7.仕事しかしたくない
メリルは家の外に出ると、川に向かった。桶で水をすくい、頭から被った。
腰まであるシルクのような長い髪は濡れそぼり、身につけていた薄衣は肌に張りついていく。都市で流通し始めた異国の香油で、髪を洗う。これをすると頭がスッキリして気持ちいい。
体を拭き、髪を乾かして、化粧はせずに長い髪は、鏡を見ながらひとりで結い上げた。体臭をごまかす香水はつけない。
ふぅと、息を吐いて、一階にある自分の部屋に戻る。玄関とは別に裏口が、メリルの部屋にはあった。
部屋に入ると、視界の端にロジェが描いたメリルの肖像画が見えた。布がかかったそれを指をつまんで、ちらっと見る。メリルは唇に力をいれて、頬を赤くした。
(美人に描きすぎよ……)
ロジェは「そのまんまだろ?」と不思議そうにしていたが、彼の目には、こんな風に自分が見えているのかと思うと気恥ずかしくて、頭が沸騰しそうになってしまう。
しかし同時に、どうせ他の女性もそうやって口説いているのよね、という訳のわからないモヤモヤが爆発して、メリルは真顔で返事をしなかった。
ロジェはロジェで、最高の一品だと思って彼女に捧げた絵の反応が薄くて、ショックで固まっていた。
言葉にならないほどのダメージをくらい、思わず余所行きの爽やかさ満点の笑顔になったものだ。
それをみたメリルは、ロジェが絵を軽い気持ちで描いたものだと思い込んだ。ロジェの恋心は、伝わらず、ふたりの関係は進展の気配さえ見えない。
こじれた二人の恋愛は、なかなか進展しないが、メリルはロジェの絵を大切に飾っていた。
額縁に入れて、埃が被らないように布もかけている。時々、ちら見しては、顔を赤らめていた。
(顔が熱いわ。……ロジェが待っているのに、こんな顔じゃダメよね……)
メリルは冷たい水で顔を洗い、顔の火照りを落ち着かせた。
ロジェの絵を元に型紙を作り初めて、一ヶ月が経った。約半分の作業時間で、ここまで仕上げたが、それでもかなり時間が経ってしまっていた。
その間、ロジェは暇をもてあまし、メリルの身の回りの世話をしてくれるようになった。
ロジェの部屋は、画材道具で散らかっているのに、料理も掃除も丁寧にやってくれる。
「俺の部屋はぐちゃぐちゃでも、生活スペースは綺麗にする」
というのが、ロジェの主張だ。キリリと引き締まった顔で言われたが、メリルは「りすの巣作りみたいね」と思った。
実際、ロジェは料理が上手だった。
おかしな状況だったが、メリルは彼に甘えていた。仕事に集中できるので、とても楽だったのだ。
部屋から出ると、ロジェが朝食の準備をしていた。最初は笑ってしまった花柄のエプロン姿も、今ではすっかり見慣れたものになっている。
「おはよう。……なんか、メリル、顔が赤くないか?」
「そう……? そんなことないと思うわよ……」
あなたが描いた肖像画を見て恥ずかしくなっていました――とは、言えない。メリルはロジェから目をそらして、椅子に座った。
ロジェはじっとメリルを見つめる。
テーブルにはトマトが一個まるまる皿の上に置いてある。種と中身がくりぬかれて、代わりに炒めた玉ねぎと挽き肉が詰め込まれ、オーブンで焼かれたものだ。
バターの香りが立ち上ぼって食欲がそそられる。――はずなのに、今日はどういうわけか食欲がわかない。
(せっかくロジェが作ってくれたものなんだし……)
メリルは食事前の祈りを捧げ、フォークを掴む。柔らかくなったトマトを潰して、一口サイズに切り分け、料理を口に運んだ。
ロジェはメリルの様子をじっと見つめながら、対面に座る。ロジェはテーブルに肘を立てながら、メリルに声をかけた。
「今日は、生地を染色するんだったよな」
「うん。型紙はできた。色の調合も終わった。後は、染めるだけなんだけど……」
「捺染職人を工場に呼ぶって言ってたよな?」
「えぇ、手紙を出したんだけど、来てくれるかしら……工場が止まって、もう一ヶ月になるし……みんな、違う仕事を持っているかもしれないわ……」
「なんだよ。ずいぶんと弱気だな」
「弱気にもなるわ。型紙と色作りにずいぶんと時間がかかっちゃったし……」
「工場を稼働するときは、ぜひとも呼んでくれって言ってた人たちなんだろ? 信じて待っていればいいじゃないか」
「……そうなんだけどね」
「おいおい、どうした? 熱でもあるんじゃないか? 目も潤んでいるし、顔だって赤いし」
ロジェはメリルに手を伸ばした。ロジェの手がメリルの首に触れる。触られているのに、嫌ではない。いつもなら、手を振り払うはずなのに。
(おかしいな……でも、手が冷たくて気持ちいいわ……)
メリルがボーッとしていると、ロジェが叫んだ。
「おまっ?! ちょっ! 体が熱すぎるだろうッ! 熱あるだろう! 寝ろ! 今すぐ横になれ!!!」
ロジェは大慌てで椅子から立ち上がり、メリルを横抱きにしようとする。だが、顔がしんどそうだ。
「え? ちょっと……自分で歩けるわよ」
「今ぐらい格好つけさせろ。くっそ、腕力がねぇなあ!」
ロジェはよたよたと危なげにメリルを運ぶ。メリルはポカンとしたまま、されるがままになっている。
(今、暴れたら落とされるかも……)
メリルは熱で回らない頭で、必死な形相のロジェを見上げていた。
ロジェはなんとかメリルを部屋に運ぶと、ベッドに座らせた。
一仕事終えたみたいに、大きくため息をついて、メリルが履いていた靴を脱がせ、ベッドの横に揃えた。
無表情でいるメリルの肩を軽く押して、ベッドに横たわらせる。手早くシーツをかけた。
ロジェの行動を見て、メリルは亡き母を思い出した。
「ロジェ……お母様みたい……」
気の抜けた一言、ロジェはがっくりと肩を落とす。
「……眼中にない次は、ママン扱いかよ……」
ロジェは嘆息し、床に膝をつけた。横向きで寝ているメリルと視線を合わせる。
「寝とけ。疲れが出たんだよ」
「……そうかな……」
「一ヶ月間、こんつめて作業していたんだ。もう無理すんな」
ロジェから見ると、メリルの集中は異様だった。眠れないと言っては、作業台に向かって型紙を作っていた。ほっとくと食事も忘れるので、心配になったものだ。
「桶に水汲んでくる。あとは、薬かな……」
ロジェはぶつぶつ言いながら、部屋から出ていってしまった。その後ろ姿を見ながら、メリルはほうと息を吐く。
(薬……あれ、苦いのよね……)
思いだして口の中まで苦くなる。メリルはごろんと仰向けになった。
(ロジェに甘えっぱなしね……)
それが妙に心地よくなっている。このまま、ロジェと暮らしてもいいんじゃないか、と思えるほど。
(……弱っているわね……)
体がだるくて、思考がまとまらない。
目を閉じて、考えることを放棄した。
ロジェへの思いに名をつけるよりも、メリルにはすべきことがある。今は、仕事のことしか考えたくはなかった。
この生地作りに、自分の人生がかかっているのだ。
余所見している暇などない。
そのまま微睡んでいると、部屋のドアが開かれる音がした。控えめな、相手を起こさないように気づかった音。
薄く目を開くと、心配そうに自分を覗くロジェの端正な顔が見えた。
(無駄に、いい顔……パーツの配置がいいのよね……)
均整がとれているというのは、ロジェの顔のことを言うのだろう。女性顔負けの長い睫も、すっと通った鼻筋も、中性的な輪郭のラインも、人の目を惹き付ける要素が揃っている。
そんな男が、かいがいしく自分を介抱している。
意識しない方が無理だった。
(恋、してる場合じゃないのに……)
メリルは目を閉じて、名前をつけた感情を胸にしまいこんだ。