5.じゃ、またね。
メリルが目を開くと、窓から陽光が差し込んでいた。いつの間にか寝てしまったようだ。メリルは寝ぼけたまま、くわっと大あくびをする。
「おはよ」
甘くささやくような声を聞いて、メリルの意識がはっきりしだす。見えたのは、金色の髪をひとつに結い上げたロジェだ。メリルはまばたきをする。
「……ロジェがイケメンに見える。夢?」
「夢じゃない! 風呂に入ってきたんだ!」
「あらそう。そっちの方が、いい男に見えるわね」
「えっ……そう、……か?」
「えぇ。それよりも、今、描いているデザインを見せて」
「起きてすぐ仕事かよ……まぁ、いいけど」
ロジェは嘆息して、紙をメリルに渡した。メリルが紙をじっと見ると、ロジェは肩をすくめて椅子から腰を持ち上げた。
ロジェが目の前から消えたのを視界の端で見て、メリルはこっそりため息をはく。
(ロジェが急にイケメンに見えてびっくりした……びっくりした……びっくりした……!)
頬に熱が帯びるのを感じる。冷静を装ってみたが、うまくできた気がしなかった。
ロジェはすっかり騙されているので、拍手を送りたくなるくらいの演技力ではあったのだが。
(ちょっと見ないうちに、色気ダダ漏れ男になっちゃって!……あれで夫人方にきゃあきゃあ言われているのよね。……なんか腹立つ……)
そうは思っても、富裕層が援助しなければ、画家は絵を描くことができない。
お金を出してもらうために、十八歳未満には言えないようなことを色々しているという噂だ。それは、メリルも理解している。腹は立つが、彼が画家を夢みる以上、仕方のないことだ。
(仕事しよ……)
もやもやを振り切るようにデザインを見る。
(きれいなデザイン……この細い線まで生地に表現できたらボネ夫人も満足するだろうな……)
「どう?」
「うきゃあっ!」
不意に背中から声をかけられ、メリルの背筋はびくびくっと震えた。ぷっと、笑う声が聞こえて、メリルは目を据わらせる。
「……いきなり声をかけないでよ」
「悪い悪い。これ、朝食な」
メリルの肩から腕がのびて、テーブルの上に皿が置かれた。チーズとハム。たっぷりバターが塗られたブレッドが一口サイズに切り分けてある。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「ねぇ、いいデザインね」
「お。合格点をもらえたか?」
「うん。いい。素敵よ。この子供たちの表情、いいわ。線が美しいわね。このまま生地にしたい」
メリルはデザインを見ながら、うっとりと微笑んだ。
この生地で、どんなものを作ろうか。
ハンカチにしてもいい。ブックカバーにしてもいい。生地でプレゼントを包めば、特別な贈り物に見えるだろう。
「いい。いいわ! 工場に行って、さっそく生地を作り――むぐっ」
興奮したまま振り返ると、口の中にチーズをほおりこまれた。もごもごと口を動かすメリルを見て、ロジェはくつくつ喉を震わす。
「工場に行くなら腹ごしらえしとけよ」
チーズを食べきったメリルは、ぷいっとそっぽを向いた。
「それもそうね。いただくわ」
ロジェの笑い声を背後で聞きながら、メリルは皿にあるバゲットを手にとり齧る。
ロジェの顔が、いつも以上に優しく甘く見えてしまい、メリルは気恥ずかしくなりながら無言で食事をした。
メリルはロジェにデザイン料の交渉をした。後々、問題にならないよう、お金はきっちり出そうと思っていた。
しかしロジェは「まだ成功するか分からないものだし、金は先でいい」と言ってきた。
その代わり、アトリエを引き払うから、メリルの工場に住まわせてくれと嘆願してきた。
「マダムとさよならしてから、金が無くてさ。ここ、家賃が高いんだよな。メリルの所に行ってもいいか? 工場の隅とか、空いている部屋、ない?」
メリルはぎょっとした。
「……そんなに困窮していたの?」
「俺は今、金がない」
「えっ、お金は払うわよ? 絵で身を立てるのは、ロジェの夢じゃない」
「人をよいしょして肖像画を描くのは、もうこりごりだ。それよりも、メリルを手伝う方が楽しい」
「そう……なの?」
「好きなように描けるしなー。それに、デザインは何枚も必要だろ?」
ロジェの言う通り、小物を作るためには、デザインパターンが数点はいる。メリルは逡巡した後、了承した。
「わたしの家に寝泊まりすればいいわ。部屋は空けるから――」
「――ちょっと、待て」
話を遮られ、メリルはこてんと首をかたむける。ロジェは苦笑いとも照れ笑いとも言える複雑な顔をしながら、メリルに尋ねた。
「それは俺と一緒に住むってことになるけど、分かってる?」
「分かってるって?」
「いや、だから……ひとつ屋根の下で、寝たり食事をするわけだ。それは、もう、さ……」
もごもごと口を動かして言いよどむロジェに、メリルはズバッと言った。
「今と変わらないでしょ?」
なにか問題が?と、言いたげな表情をされ、ロジェはテーブルに頭を打ち付けた。ゴンッと大きな音が鳴り響き、頭をつけたままロジェは叫んだ。
「そうでしたねッ!」
メリルはぎょっとする。
「……ロジェ、どうしたの? 大丈夫?」
「……あまりに脈がなさすぎて、打ちのめされてんだ……気にするな……」
メリルはこてんと首をひねる。
よく分からないが、鞄から財布を取り出し、札を三枚、テーブルの上に置いた。
「これ、手付け金ね。画材道具は全部、持ってきなさい。じゃあ、部屋、空けておくから」
今度はロジェが慌てる番だ。
ぎょっとして、札を握りしめる。
「金はいいって!」
「お金ないんでしょ? 荷馬車代にしなさいって」
そう言って、メリルは身支度をした。祖父母がデザインした大きな袋に、ロジェの描いた紙を大切に入れると、じゃ、と手をあげた。
「こっちに来る日が決まったら、手紙を頂戴。デザイン、ありがとう。またね」
メリルは風のように歩きだして、アトリエから出ていく。早く工場に戻りたかった。
(この絵にどんな色をのせようかしら。思いきって二色だけの布ってのも、いいかも!)
メリルはご機嫌で朝の大通りを歩いていった。
道は人々でごった返していた。
「どいた、どいた!」
水売りは樽いっぱいに入った飲料水をリヤカーに乗せて走っている。水が買えない人びとは、広場にある給水場で、長蛇の列を作っていた。
都市の近くには運河があるが、水は汚い。飲んだらおなかを壊す。たちの悪い酔っぱらいは、川に落とせ。臭くて酔いが冷めるだろう、と言われるぐらい汚い川だ。
人が集まるのを見越して、焼きたてのパイを売る人もいる。パイ売りの脇を、汚物の入った壺を乗せたリヤカーを引く人が駆けていった。
最近、衛生面が見直されて、都市にトイレの普及が進んでいる。とはいえ、陶器の壺が各家庭に、ぽつんと置かれているのも多い。
汚物の入った壺を回収して、農家に売る仕事もある。
汚物は肥料になるのだ。
馬車は人を蹴散らす勢いで走っていて、馬を見た人びとは、押し合いへし合いしながら、脇にそれる。
都市には森のような広場があり、詩人や思想家は、木箱を講演台にして、熱心に王政批判をしていた。
活版印刷所は、こうこうと灯りがともっていた。
一文字、一文字、木彫りでてきた判子のようなもので職人たちは印刷していく。
スペルを間違えずに、ものの三秒で、一文字一文字、印刷されていき、できた印刷物は、新聞になって、売られていた。
人が集まる都市、リーパは、世界一、美しい場所と言われていた。
流行の最先端を知りたければ、都市リーパへ行け。ありとあらゆる美が集まったリーパは、中央に、どどんと王宮があった。
王族、王侯貴族が集まった宮殿は、外から見ると楽園のように、きらびやかであった。
乗り合い馬車に揺られながら、メリルは都市を後にした。
ぽつんと取り残されたロジェは、大きなため息をついた。
「……惚れた女に小遣いをもらうなんて、最悪だ……」
なけなしのプライドが木っ端微塵である。
ロジェはメリルからもらった札を握りしめると、その日のうちに荷物をまとめて、知り合いの荷馬車に自分で稼いだお金を握らせ、深夜、メリルの工場に向かう。
ドヤ顔で引っ越してきたロジェを見て、メリルは「あら、早かったわね」としか言わなかった。
「まだ部屋を片付けてないわよ」
「片付けなら、俺もする」
ロジェはそのまま、メリルの家に居座ることになった。