表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/36

5.じゃ、またね。

 メリルが目を開くと、窓から陽光が差し込んでいた。いつの間にか寝てしまったようだ。メリルは寝ぼけたまま、くわっと大あくびをする。


「おはよ」


 甘くささやくような声を聞いて、メリルの意識がはっきりしだす。見えたのは、金色の髪をひとつに結い上げたロジェだ。メリルはまばたきをする。


「……ロジェがイケメンに見える。夢?」


「夢じゃない! 風呂に入ってきたんだ!」


「あらそう。そっちの方が、いい男に見えるわね」


「えっ……そう、……か?」


「えぇ。それよりも、今、描いているデザインを見せて」


「起きてすぐ仕事かよ……まぁ、いいけど」


 ロジェは嘆息して、紙をメリルに渡した。メリルが紙をじっと見ると、ロジェは肩をすくめて椅子から腰を持ち上げた。

 ロジェが目の前から消えたのを視界の端で見て、メリルはこっそりため息をはく。


(ロジェが急にイケメンに見えてびっくりした……びっくりした……びっくりした……!)


 頬に熱が帯びるのを感じる。冷静を装ってみたが、うまくできた気がしなかった。

 ロジェはすっかり騙されているので、拍手を送りたくなるくらいの演技力ではあったのだが。


(ちょっと見ないうちに、色気ダダ漏れ男になっちゃって!……あれで夫人方にきゃあきゃあ言われているのよね。……なんか腹立つ……)


 そうは思っても、富裕層が援助しなければ、画家は絵を描くことができない。


 お金を出してもらうために、十八歳未満には言えないようなことを色々しているという噂だ。それは、メリルも理解している。腹は立つが、彼が画家を夢みる以上、仕方のないことだ。


(仕事しよ……)


 もやもやを振り切るようにデザインを見る。


(きれいなデザイン……この細い線まで生地に表現できたらボネ夫人も満足するだろうな……)


「どう?」


「うきゃあっ!」


 不意に背中から声をかけられ、メリルの背筋はびくびくっと震えた。ぷっと、笑う声が聞こえて、メリルは目を据わらせる。


「……いきなり声をかけないでよ」


「悪い悪い。これ、朝食な」


 メリルの肩から腕がのびて、テーブルの上に皿が置かれた。チーズとハム。たっぷりバターが塗られたブレッドが一口サイズに切り分けてある。


「ありがとう」


「どういたしまして」


「ねぇ、いいデザインね」


「お。合格点をもらえたか?」


「うん。いい。素敵よ。この子供たちの表情、いいわ。線が美しいわね。このまま生地にしたい」


 メリルはデザインを見ながら、うっとりと微笑んだ。


 この生地で、どんなものを作ろうか。

 ハンカチにしてもいい。ブックカバーにしてもいい。生地でプレゼントを包めば、特別な贈り物に見えるだろう。


「いい。いいわ! 工場に行って、さっそく生地を作り――むぐっ」


 興奮したまま振り返ると、口の中にチーズをほおりこまれた。もごもごと口を動かすメリルを見て、ロジェはくつくつ喉を震わす。


「工場に行くなら腹ごしらえしとけよ」


 チーズを食べきったメリルは、ぷいっとそっぽを向いた。


「それもそうね。いただくわ」


 ロジェの笑い声を背後で聞きながら、メリルは皿にあるバゲットを手にとり齧る。

 ロジェの顔が、いつも以上に優しく甘く見えてしまい、メリルは気恥ずかしくなりながら無言で食事をした。



 メリルはロジェにデザイン料の交渉をした。後々、問題にならないよう、お金はきっちり出そうと思っていた。

 しかしロジェは「まだ成功するか分からないものだし、金は先でいい」と言ってきた。


 その代わり、アトリエを引き払うから、メリルの工場に住まわせてくれと嘆願してきた。


「マダムとさよならしてから、金が無くてさ。ここ、家賃が高いんだよな。メリルの所に行ってもいいか? 工場の隅とか、空いている部屋、ない?」


 メリルはぎょっとした。


「……そんなに困窮していたの?」


「俺は今、金がない」


「えっ、お金は払うわよ? 絵で身を立てるのは、ロジェの夢じゃない」


「人をよいしょして肖像画を描くのは、もうこりごりだ。それよりも、メリルを手伝う方が楽しい」


「そう……なの?」


「好きなように描けるしなー。それに、デザインは何枚も必要だろ?」


 ロジェの言う通り、小物を作るためには、デザインパターンが数点はいる。メリルは逡巡した後、了承した。


「わたしの家に寝泊まりすればいいわ。部屋は空けるから――」


「――ちょっと、待て」


 話を遮られ、メリルはこてんと首をかたむける。ロジェは苦笑いとも照れ笑いとも言える複雑な顔をしながら、メリルに尋ねた。


「それは俺と一緒に住むってことになるけど、分かってる?」


「分かってるって?」


「いや、だから……ひとつ屋根の下で、寝たり食事をするわけだ。それは、もう、さ……」


 もごもごと口を動かして言いよどむロジェに、メリルはズバッと言った。


「今と変わらないでしょ?」


 なにか問題が?と、言いたげな表情をされ、ロジェはテーブルに頭を打ち付けた。ゴンッと大きな音が鳴り響き、頭をつけたままロジェは叫んだ。


「そうでしたねッ!」


 メリルはぎょっとする。


「……ロジェ、どうしたの? 大丈夫?」


「……あまりに脈がなさすぎて、打ちのめされてんだ……気にするな……」


 メリルはこてんと首をひねる。

 よく分からないが、鞄から財布を取り出し、札を三枚、テーブルの上に置いた。


「これ、手付け金ね。画材道具は全部、持ってきなさい。じゃあ、部屋、空けておくから」


 今度はロジェが慌てる番だ。

 ぎょっとして、札を握りしめる。


「金はいいって!」


「お金ないんでしょ? 荷馬車代にしなさいって」


 そう言って、メリルは身支度をした。祖父母がデザインした大きな袋に、ロジェの描いた紙を大切に入れると、じゃ、と手をあげた。


「こっちに来る日が決まったら、手紙を頂戴。デザイン、ありがとう。またね」


 メリルは風のように歩きだして、アトリエから出ていく。早く工場に戻りたかった。


(この絵にどんな色をのせようかしら。思いきって二色だけの布ってのも、いいかも!)


 メリルはご機嫌で朝の大通りを歩いていった。


 道は人々でごった返していた。


「どいた、どいた!」


 水売りは樽いっぱいに入った飲料水をリヤカーに乗せて走っている。水が買えない人びとは、広場にある給水場で、長蛇の列を作っていた。


 都市の近くには運河があるが、水は汚い。飲んだらおなかを壊す。たちの悪い酔っぱらいは、川に落とせ。臭くて酔いが冷めるだろう、と言われるぐらい汚い川だ。


 人が集まるのを見越して、焼きたてのパイを売る人もいる。パイ売りの脇を、汚物の入った壺を乗せたリヤカーを引く人が駆けていった。


 最近、衛生面が見直されて、都市にトイレの普及が進んでいる。とはいえ、陶器の壺が各家庭に、ぽつんと置かれているのも多い。


 汚物の入った壺を回収して、農家に売る仕事もある。

 汚物は肥料になるのだ。


 馬車は人を蹴散らす勢いで走っていて、馬を見た人びとは、押し合いへし合いしながら、脇にそれる。


 都市には森のような広場があり、詩人や思想家は、木箱を講演台にして、熱心に王政批判をしていた。


 活版印刷所は、こうこうと灯りがともっていた。

 一文字、一文字、木彫りでてきた判子のようなもので職人たちは印刷していく。

 スペルを間違えずに、ものの三秒で、一文字一文字、印刷されていき、できた印刷物は、新聞になって、売られていた。


 人が集まる都市、リーパは、世界一、美しい場所と言われていた。

 流行の最先端を知りたければ、都市リーパへ行け。ありとあらゆる美が集まったリーパは、中央に、どどんと王宮があった。

 王族、王侯貴族が集まった宮殿は、外から見ると楽園のように、きらびやかであった。


 乗り合い馬車に揺られながら、メリルは都市を後にした。



 ぽつんと取り残されたロジェは、大きなため息をついた。


「……惚れた女に小遣いをもらうなんて、最悪だ……」


 なけなしのプライドが木っ端微塵である。


 ロジェはメリルからもらった札を握りしめると、その日のうちに荷物をまとめて、知り合いの荷馬車に自分で稼いだお金を握らせ、深夜、メリルの工場に向かう。


 ドヤ顔で引っ越してきたロジェを見て、メリルは「あら、早かったわね」としか言わなかった。


「まだ部屋を片付けてないわよ」


「片付けなら、俺もする」


 ロジェはそのまま、メリルの家に居座ることになった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] Xのご紹介(「去年の今頃は~」のタグ)からお邪魔いたしました。 きらびやかなリーパの街をたくましくいきる市井の人々の描写にとてもわくわくしました。 時代設定が緻密で、場面が絵のように浮かび…
[良い点] 活気あるリーパの街の賑わいが目に浮かびました。 [一言] 手を組んだふたりが、どんなデザインを、どんな生地を、製品を生み出すのでしょう。楽しみです。
[良い点] 『それは、もう、さ……』 それはもう愛の告白としか! って言いたくなりますね! かんばれロジェ! 道のりは遠くないぞ!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ