30. 大切なものは消えません
マリー公爵令嬢は、絶望の淵にいた。
ウィリアム王子との関係を疑われて、乙女検査などというおぞましいものを強要されている。
ウィリアム王子に連絡を取れば、トリア国との関係が悪化するとヤニス枢機卿に密かに脅されていた。
ロワール公爵は奥歯を噛み締めながら、ヤニス枢機卿のいやらしい笑みを見ていた。
「……示談にいたしましょう。ガブリエル殿下の廃嫡の訴えを取り下げれば、こちらも乙女検査をしないとお約束します。今がちょうどよい落としどころでしょう」
ヤニス枢機卿はそう言うが、実質、マリー公爵令嬢は裁判に負けたことになる。
二重婚約は審議中だが、証明書はそもそも教会が管理しているもの。
発言権の強いヤニス枢機卿がいる限り、真実が明るみにでるには、何年かかるのか。
その長い年月を娘に耐えろというのは、ロワール公爵にはできなかった。
嫌でも条件を飲んで、娘には領地で穏やかに過ごしてもらおう。
もう娘は充分、戦った。
ロワール公爵は鉛を飲んだような重たい心で、示談書にサインを書こうとした。
「そうそう」と、ヤニス枢機卿は、ニヤニヤしながら話し出す。
「婚約破棄しても、娘を公妾にしようなどと思わないことですな。……殿下は、マリー嬢に興味がありません」
その一言に、ロワール公爵の手が止まった。
「今……なんと……言った」
「え?……だから、公妾にするなと……」
「貴様あ! マリーをどこまで侮辱するのだ!!!」
ロワール公爵は激怒し、帯刀していた剣を抜いた。
「ひぃぃぃっ!」
剣が虚空を切る。
ヤニス枢機卿は畏れ、尻餅を付きながらロワール公爵に言う。
「神に遣える私に! わ、私に! け、けけけんを向けるなど! 由々しき事態ですぞ……!」
「それがどうした……」
ロワール公爵は烈火の如く怒りを顕にした。
「娘をここまで愚弄され、おめおめと生きているなど、ヴァルハラにいる妻に顔向けできぬわ!」
「……ひ、ひぃぃっ」
今にも切りかかろうとするロワール公爵を、マリー公爵令嬢が後ろから抱きしめて止めた。
「お父様、おやめください……おやめください!……死罪になってしまいます……!」
マリー公爵令嬢は震える声で哀願した。聖職者殺しは、極刑だ。
「お願いです……お願いでございます……わたくしを置いていかないでください……」
すすり泣く娘の声に、ロワール公爵は苦痛に耐えるに奥歯を噛み締めた。
天を仰ぎ、体を震わせながら、ロワール公爵は剣を下ろした。
ヤニス枢機卿が転がるように出ていく。
「軍人めが! 儂に剣を向けるなど、ただではおかんぞ!」
ヤニス枢機卿は宮廷警察に訴え出た。
その結果、ロワール公爵は裁判が終わるまで、監獄に行くこととなってしまった。
「マリーよ……すまぬ……ガブリエル殿下との婚約は間違いだった……すまぬ……」
投獄をされる前、ロワール公爵はマリー公爵令嬢にそう言っていた。
何もできない痛みに耐えるような。振り絞るような声だった。
ヤニス枢機卿の暴言は謹慎処分だけだった。
マリー公爵令嬢の周りには弁護士しかいなくなってしまった。マリー公爵令嬢は涙も出なくなり、呟くように言った。
「裁判なんか……しなければ、よかった……」
最初は、そのつもりだった。
メリルに励まされ、小さな夢を胸に描いた。
領地にいる戦争功労者の人の助けになりたかったのだ。
四肢が不自由になってしまった人には、功労金が出るが、お金があればいいというわけではない。
――私はこれから、どうすればいいのでしょう……
失くなった片腕を見つめ、呟く人がいた。
切ない横顔を見て、何かしたかった。できることはないか考えたかった。
そうマリー公爵令嬢が考えるのは、亡き公爵夫人の言葉が大きい。
マリー公爵令嬢の母は、明るく快活な人だった。
貴族とは何か?と問いかけると、母は強い眼差しで言った。
――貴族とは戦う者たちのことよ。私たちは人民を戦地に送る。戦う人たちのために、私たちは戦わなければならない。そのための財力、環境を神に与えられたの。マリー、人のために戦いなさい。私たち貴族はそのためにある。
ロワール公爵夫人は、最前で戦う夫を支え続け、病に倒れ、儚くなったのだ。
マリー公爵令嬢も母のようになりたかった。
でも、母のように強くはなれない。
「……お母様……わたくしは何も成し遂げられない者です……」
大切な人が次々といなくなり、マリー公爵令嬢の心は折れてしまった。
「マリー様、心を強くもってください」
そばにいた老齢の弁護士が彼女を励ます。その声すら遠く、マリー公爵令嬢は顔をあげることができなかった。
無表情でただ判決を待つマリー公爵令嬢の元に、汗をかきながら駆けつける者がいた。
「マリー様!!!」
メリルとロジェだ。
メリルは額に汗をかきながら転がるようにマリー公爵令嬢の元にやってきた。
トリアから帰国したその足で、食事もとらずにウィリアム王子の手紙を届けたい一心で、ここまできた。
メリルは肩を上下させながら、ウィリアム王子からの手紙を差し出す。
「マリー様。ウィリアム殿下に会ってきました。マリー様の力になってくれると約束してくださいました!」
メリルの笑顔を見て、弁護士は希望で目を見開いた。
「……まことか……」
「はい。ウィリアム殿下からの手紙を預かっています。こちらです」
メリルから手紙を受け取った老齢の弁護士は、中身を確認した。ウィリアムの直筆で書かれた手紙は一文だけだった。
――あなたの涙を止めに参ります
老齢の弁護士はその一文を見て、目頭を熱くした。
「マリー様。ウィリアム殿下が助けになってくれます。これで、裁判は――」
「――いけないわ……」
マリー公爵令嬢は瞠目した。
「ウィリアム様まで消えてしまう……嫌……嫌ぁぁ……!」
マリー公爵令嬢は蒼白し、悲痛な声をだす。
シャルル王子を亡くし、母を亡くし、ガブリエル王太子も父も遠くにいる。大切な人は、自分を置いていってしまう。
ウィリアム王子とのささやかな思い出まで無くしたら、一体、何が自分に残るのだろう。
無くす恐怖に震え、マリー公爵令嬢は拒絶の言葉を繰り返した。
「マリー様……」
「いけない……来てはいけません……ウィリアム様まで消えてしまう……」
メリルはマリー公爵令嬢の言葉を聞いて、彼女を抱きしめた。震えるマリー公爵令嬢を真綿でくるむように抱きしめる。
「マリー様……」
優しく声をかけ、マリー公爵令嬢の震えがおさまるのを待つ。
メリルには、無くす恐怖は痛いほどわかった。目の前が真っ暗になる感覚は、自分も経験したことだ。
でも、ロジェが慰めてくれた。だから、メリルは立ち直れた。
「マリー様……」
虚ろなマリー公爵令嬢が顔をあげた。
「ウィリアム殿下は、消えません……マリー様の大切なものは消えません」
メリルは微笑を浮かべた。
「どうか、信じてください。ウィリアム殿下は来ます」
ウィリアム王子の目を見たとき、彼のことを信じられると思った。確証はないものだ。ただの直感。
向こうの王家がウィリアム王子を止めたら、彼は来ないだろう。
(それでも、信じるわ。ウィリアム殿下は誠実な方よ)
マリー公爵令嬢はうつむき、小さく頷いた。
メリルの願いは叶うことになる。
ウィリアム王子は来訪を事前に告げ、春風のように爽やかな笑顔でこの国に降り立った。
宮廷内は混乱を極めたが、ルイーズ姫とポワソン宰相が来賓として出迎えた。
ウィリアム王子は礼をもって、二人に接し、マリー公爵令嬢の元に向かったのだった。
ポワソン宰相の指示の元、ウィリアム王子の警護は厳重で、ヤニス枢機卿は手が出せなかった。
「おのれ、ポワソンめ! 儂が謹慎中に出し抜きよって!」
まさか本人が乗り込んでくるとは、予想外だ。しかし、まだ切り札はある。
「……二重婚約の罪がある限り、公爵家は傷を負う。……ははっ……はははは……ロワールめ。儂に刃を向けるから、こうなるのだ。軍人は、戦争だけしていればよい」
前々から国民の人気取りのようなことをするロワール一族が嫌いなヤニス枢機卿は、ふんと鼻を鳴らした。
そんなヤニス枢機卿の元に、密会を求める人がいた。
公妾キュキュロン夫人だ。
キュキュロン夫人は肌が透ける扇情的なドレスを身につけ、ヤニス枢機卿の部屋を訪れた。
ヤニス枢機卿は鼻の下と伸ばして、キュキュロン夫人を部屋に向かいいれた。
「閣下、ごきげんよう。昔を思い出して、体の火照りがおさまないのです。お相手をしてくださいますか……?」
妖艶な人に潤む眼差しでねだられたら、断れる男などいるだろうか。――いや、あまり、いない。
ヤニス枢機卿は、天にも昇る気持ちになっていた。
「キュキュロンではないか……可愛がってほしいのか」
キュキュロン夫人は薄衣を脱ぎ、魅惑的な体を晒した。一糸まとわぬ姿を見たヤニス枢機卿は、ごくりと唾を飲み干す。
「陛下がへたくそで、満たされませんの。可愛がってくださいませ」
「これこれ、国王陛下に対してそんなことを言うものではないぞ」
「ふふ。本当のことですわ。……わたくし、陛下相手では体が冷たくなりますのよ――」
キュキュロン夫人はヤニス枢機卿の部屋を出た後、使いをださせた。
「あのハゲに伝えなさい――二重婚約のからくりはね――」
キュキュロン夫人の言葉を書き終えた使いは闇に紛れて消えていった。
それを見届けて、キュキュロン夫人は艶やかに笑った。
「フィナーレは美しくなきゃ嫌よ。あなたにそれが、できるかしらね」
薄くなったポワソン宰相の禿げ頭を思い出して、キュキュロン夫人は呟いた。




