63.運命の選択
すっきりした目覚めの朝だった。
自室の丸窓から見える空はまだ薄暗く、どうやら朝食当番でもないのに無駄に早起きをしてしまったらしい。
二度寝するには頭が冴えていて、軽く柔軟体操をしてから外の空気を吸いに部屋を出た。
みんなまだ寝ているのか船内は静まり返っていて、足音を忍ばせて甲板へ向かう。
ドアを開けると外気は少し温んで、春の訪れを感じさせた。
今日は風が少し強くて、肩まで伸びた髪が煽られて絡まりそうだ。
ざっくりひとつにまとめて結ぶ。
ふと、高い音が聞こえて振り返る。
口笛みたいな音だ。
何度か繰り返される音を辿るように、船尾へ向かう。
そこにはウィルがいて、大きな鳥が舞い降りてくるところだった。
ウィルの腕にとまったその鳥は、餌をもらってご機嫌な様子だ。
餌を飲み下す間に鳥の足元からウィルが何かを取って、頭を一撫でしてやると空へと放った。
少し離れたところから観察していると、鳥の足についていたらしい紙を広げて真剣な顔でそれを見始めた。
「おはよう」
びっくりさせないように声を掛けると、ウィルは気付いていたのか「ああ」とだけ言って紙面から目を離さなかった。
「手紙?」
「ああ、まぁ」
「今の鳥が持ってきたの?」
「そうだ。利口だろ」
ようやく視線を上げたウィルが、私が隣に行くよりも早く紙片を握りつぶした。
覗き込むつもりはなかったが、あまり読まれたくない内容だったのかもしれない。
「あれはウィルの鳥なの?」
「ああ。俺に似て賢い」
自慢げに言うけれど、どこか様子がおかしい。
視線が合わないし、なんだか複雑な表情を浮かべている。
「何かあったの」
率直に問うと、ウィルの目がようやく私を見て、少し悲し気に細められた。
「メシのあとに話す」
そういって何かを誤魔化すように私の腰を抱き寄せてキスをした。
「……何か良くないことなのね」
「んなこたねぇよ」
口端を吊り上げてもう一度キスをする。
これで上手く笑えているつもりなのだろうか。
ウィルの口づけは繰り返すごとに深くなっていく。
そういう関係になってから半年以上経つが、船の中で軽いキス以上のことをしたのなんて数えるほどだ。
何か不安なことがあったのだろうか。
問いただしたかったが、あとで話すというのならそれを待ってあげよう。
そう決めて、考えるのをやめてウィルの口づけに応えることにした。
* * *
「みんな聞け」
朝食を終えて、ウィルが立ち上がる。
約束通りきちんと話すつもりらしい。
食堂内はまだざわついていたが、ウィルに視線が集まる。
「良い知らせだ」
にやりと笑ってウィルが言う。
「狸が狐を食らいつくした」
抽象的なセリフに、息を呑むような沈黙が落ちる。
ついで食堂内がドッと沸いて、熱狂に包まれた。
笑ったり、歓声を上げたり、隣の仲間と抱き合ったり。
泣いている者までいた。
その様子を見て満足したのか、ウィルがどさっと椅子に腰を下ろした。
「狸って、この前言っていたウィルを逃がしてくれた人のこと?」
「ああ。その狸爺が軍部の中枢に陣取った。腐った連中は近々一掃されるらしい」
「本当に!? すごいことじゃない!」
「革命が起きたようだな」
それは腐敗した海軍に見切りをつけた彼にとって悲願なのではないか。
なのにどうしてあまり嬉しそうではないのだろう。
それを問うより先に、ウィルがスプーンでグラスを鳴らした。
その音に食堂内が落ち着き始めたのを見計らって、再び口を開く。
「軍に戻りたい奴は戻してくれるらしい」
その言葉にシンと静まり返る。
「戻りたいやつは正直に申し出ろ。もちろん止めない。これは裏切りではないことを肝に銘じろ」
それはここに残る人間にも言っているのだろう。
何人かが遠慮がちに手を挙げて、その中にはミゲルもいた。私の隣に座るアランが戸惑ったようにそれを見て、不安そうに私の手を握った。
なんと言っていいのかわからず、無言でそれを握り返す。
「わかった。爺に伝える。戻ってからの生活は心配しなくていい。奴がなんとかしてくれる。散々捨て駒やってきてやったんだからそれくらいは優遇してくれるだろう」
食堂内に責める空気はもちろんない。
むしろ次会った時は敵同士だななんて笑い合っている。
この先、敵と味方に分かれるというのに和やかに話が進むのがこの船らしい。
残るにしても戻るにしても、希望通りの結果だからか皆一様に表情は明るい。
海軍内の膿を出して正義が取り戻されるのだから当然といえば当然だ。
周辺国随一の軍事力を誇る海軍の内乱だ。国内はこれから騒がしくなるだろう。その混乱に乗じて紛れ込めば、行方不明者を戻すのはそう難しいことではないかもしれない。
ウィルの顔をそっと窺い見る。
満足そうな笑みを浮かべてはいたが、やはりどこか空々しい。
戻りたいのだろうか、と思う。
それなのに死んだことになっているから、戻れなくてつらいのかもしれない。
さすがに大罪の汚名を着せられて死刑になった人間を戻せるほどの魔法はないはずだ。
ウィルはこれからも海賊としてここにいる。
それにホッとしてしまう自分が嫌だった。
「もうひとつ良い知らせがある」
再びウィルに視線が集まるが、彼はなぜか私をじっと見ていた。
「レジーナ」
なぜ今その名を呼ぶのか。
船員たちが怪訝な顔をしている。
それはそうだ。彼らにとっては初めて聞く名前なのだから。
「アーヴァイン家から捜索願が出てる」
「え?」
予想外過ぎてきょとんとしてしまう。
捜索願いもなにも、追放を言い渡されて自主的に出てきたのだ。
「レジーナ・アーヴァイン……?」
食堂内が別の意味でざわつき始める。
船員たちのほとんどがこの国出身の海軍兵だったというのなら、私の名前はそれなりに知られているだろう。
けれど正体が明かされてしまったことよりも、ウィルの表情が気になった。
どこか達観したような、諦めの滲んだ顔をしていた。
「……それで?」
冷静に続きを促す。船員たちは事情を聞くことも出来ず可哀そうなことをしているが、今はウィルの話を聞く方が大事だった。
「おまえをハメた女と王子様はうまくいかなかったらしい」
「そう」
無感動に返す。
二人のその後の事情などどうでも良かった。
ウィルがこの後何を言うのかだけが重要だ。
「今なら戻れるんじゃないのか」
それは故郷にという意味なのか、王妃候補の座にという意味なのか。
そんなことすらどうでもいい。
表情という表情が消えていく自覚があった。
おそらく今私は能面のような顔をしているだろう。
「仮にそうだとして」
平坦な声だ。身の内側で荒れ狂う感情など一切ないみたいな。
ウィルは私の心情を読みかねて、なんとも言えない顔をしていた。
「だから何って感じだわ」
鼻で笑いながら吐き捨てる。
本当にどうでもいい。戻るかどうかなんて考えるまでもない。論点はそこではないのだ。
「だからなにっておまえ……」
「私が戻りたいって言ったらそうするつもりだったの?」
眉根を寄せて困惑するウィルに、薄い笑みで問う。
その表情の変化に戸惑いながら、それでもウィルは口を開いた。
「……おまえが望むなら」
言われた瞬間、頭のどこかでブチっとなにかが切れる音がした。
「本気でおっしゃっているならぶち殺しますわよ」
たおやかな口調で微笑みながら言うと、話についていけてなかった船員たちがいっせいに噴き出した。




