4.やさしくさらって
「ぎゃ あ あ あ あっ、」
元貴族のお嬢様らしからぬ無様な悲鳴を上げるのを許してほしい。
だってしょうがない。大男の肩に担がれたまま全力疾走だ。
「ひぇっ」
急な浮遊感に息が止まる。
あの崖を飛び降りたのだ、と気付いたのは目の前に一瞬流れた土の壁のせいではなく、
「げうっ」
着地の衝撃で腹に男の肩が食い込んでえづいたせいだ。
思わず白目を剥きそうになる。
「あ、わり」
至極軽い口調で言って男が再び走り出す。
女とは言え、人一人を担いで足元が不安定な岩場を走っているとは思えないスピードだった。
どこに向かっているかなんて考えている余裕はなかった。
どうやら私は拉致とか誘拐とか、そういう状況の真っ只中にいるらしい。
案じるべきは行き着く場所ではなく己の身体、主に命と貞操だ。
「あの、ねぇ、私を誘拐してもいいことありません!」
「へぇ、それはそれは」
誘拐の利点をなくすための主張に、特に興味もなさそうに、足も緩めず男が返す。
「見た目確かにお金持ちっぽいですけどね?! 今日勘当されたばかりで身代金なんて払ってもらえません!」
「マジか。なら余計都合がいいな」
「どうしてそうなるんです!?」
「探す人間皆無ってことだろ」
必死に悲惨な現状を伝えるが、男の機嫌は変わらず、それどころか歌でも歌いだしそうな勢いだ。
逃げようともがいてもビクともしない。
「か、身体が目的ですの!? だったらあの、未経験なので楽しませる技もありませんわ!」
「ぶはっ」
海賊を自称するこの男から、あの手この手で少しでも興味をなくそうという無駄なあがきに、男が盛大に噴き出す。
「ばっかおま、そんなこと言ったら余計男喜ばすだけだろが」
走りながら男が大笑いする。
言われてみればそうだ、と思わず言葉に詰まって赤面する。
だって王宮では、いかに自分がモテて、どこの誰に誘われただの、何人と寝たかだののマウント合戦だらけだった。
そうして女性だけのサロンでは、自分の性技がどれだけ優れているかの披露に終始していた。
そしてそれをありがたがる男の話ばかりをうんざりするほど聞かされていたから、貞淑が美徳なんて表側だけの話で、テクがあればあるほど男は喜ぶのだと、変な洗脳を受けていたようだ。
けれど前世の常識に照らし合わせてみれば、基本的に男と言うものは処女性を喜ぶものだ。
こちらの世界だって、王宮内が乱れて腐って爛れていただけで、市井の常識は前世のものとそう変わらないはず。
「今のは取り消します! 私本当は悪女で毎日とっかえひっかえしててそれがバレて婚約者にも捨てられるほどの女で病気も持っていてだからあの、」
「親分なんスかそのやべー女」
唐突に第三者の引き気味の声が聞こえて、自称海賊の足がようやく止まる。
ストンとその場に下ろされ、くるっと身体を回されもう一人の男に対面させられる。
「攫ってきた」
「はぁ?」
思いっきり顔をしかめたその男は、頭からつま先まで無遠慮に私を眺めた後に、「まぁなんでもいいけど」とすぐに興味を失って海賊へ視線を戻した。
「もう戻るんでいいすか?」
「ああ。これも連れてく」
浜に引き上げた小さな船を、海に出しながら男が振り返る。
顔には思い切り「めんどくさい」と書かれていた。
「うえぇ……荷物増やさないでくださいよ漕ぐのしんどい」
「ちょっと手伝ってやるからいいだろ」
「ちょっとかよ」
二人のやりとりに呆気に取られている間に、勝手に話が進んでいく。
私の意志はどこへ。
文句を言おうとして気付く。逃げるなら今だ。
そう判断して足に力を込めた瞬間、ガシッと腕を掴まれ蒼褪める。
「逃がさねーよ」
にっこり笑って短く一言。
有無を言わさぬ迫力があった。
一縷の希望に縋って、助けを求めるように子分に視線を向けると、肩を竦めて「諦めろ」と言いたげに首を振られた。
抵抗も虚しく、強引に手漕ぎボートに乗せられるとすぐに海に出た。
縛られなかっただけマシかもしれないが、二の腕を掴む手の力は強く、生半可な抵抗では抜け出すことも出来そうにない。
今すぐ殺される心配はなさそうだが、だからと言って良い未来も想像できず、最悪の事態に備えてこっそり身構える。
それにしてもこの二人は本当に海賊なのだろうか。
油断なく二人を観察しながら考える。
少なくとも、まっとうな人間ではありえない。
今乗せられている小舟は港からは見えない位置に泊めてあり、どう見ても密航者の振る舞いだ。
そのうえ私は拉致されていて、現在進行形で犯罪が行われている。
だというのに月夜の船上にはなんとも間延びした空気が流れていて、警戒心を保つのが難しい。
なんだこれ。なんだこの状況。
ぎーこぎーこと呑気に響くオールの音に危機感は徐々に薄れ、肩の力を抜いてそっとため息をついた。
子分はなんの目印もない夜の海を、迷いもなく進めていく。
たまに自称海賊の方を振り返っては「手伝わないんかい」と責める目をしているが、自称海賊は素知らぬ顔だ。
それを見て、子分は明らかにイラついた表情をしている。彼は口数は多くないが、表情にすべて出るタイプらしい。
「……あの、どこへ向かっているんですか」
恐る恐る問いかける。
私はこれからどこで何をされるのだろう。
その辺も含めてきちんと説明して欲しい。
「うん? うーん」
自称海賊はもったいぶるように考え込んで、にやりと笑った。
この男には妙な迫力と、仄見える獰猛さはある。
「いいところ」
含むように言って、それ以上は教えてくれなかった。
しばらく沈黙が続く。
目的地へ着くまでに、逃げ出すチャンスはあるだろうか。
現世では泳いだことはないが、前世の魂が泳ぎ方を覚えているかもしれない。
「見えてきたな」
どう対処すべきか思い悩んでいると、どこか一点を見つめて海賊がボソッと呟いた。
つられるように視線の先を追う。
遥か前方に、黒々とした船影が見えた。
あれがこの男たちの海賊船か。
ごくりと喉が鳴る。
ある程度の予測は出来ていたが、いざそれを目の前にすると身体が竦んだ。
徐々に近付いていく。
派手な装飾は何もない。
全体的に黒く、月が隠れれば闇夜に紛れてしまいそうだ。
船首には、映画や漫画で見たような象徴的な像はなかった。
帆は畳まれていて見えないが、あれを広げたらドクロのマークが出てくるのだろうか。
太陽の下で見たらまた違って見えるのかもしれないが、どうやら海賊船と言う単語から連想される船とはやや趣が違うようだ。
だが、一般的な漁船や客船とは明らかに雰囲気が異なる。
目を凝らせば砲門らしきものも見える。
余計な装飾がないということは、それらは不要で他の物に特化しているということだ。
様々なものが削ぎ落されたその船は、どこか洗練された美しさのようなものを感じた。
「……あれが、あなたたちの、」
「そう。俺達の船だ」
どこか陶然とした私の問いかけに、男が誇らしげに応える。
船頭を務める男の唇にも、微かに笑みが浮かんでいた。