20.見惚れるほどの
「結局血まみれじゃねぇか」
全員の手当てを終え、船内に戻ろうと一息ついたのを見計らってウィルが声を掛けてきた。
その声は呆れ成分を多く含んでいるようだった。
「せっかく汚れねーように気ぃつかってやったのによ」
汚れないようにというのは、決して服や手だけのことを言っているのではないはずだ。
私自身がお綺麗でいられるように、彼なりの配慮をしてくれていたのはわかっている。
でも、それは絶対に口にしないのだろう。
「船長はご自分で手当てしてくださいね」
わかっていて、ツンと顔を逸らしてわざと冷たく言う。
気恥ずかしさを誤魔化すためだ。我ながら子供じみていると思う。
「冷てーの」
それでもウィルは苦笑するだけだ。
自分との器の違いを感じてがっくりきてしまう。
「ま、大した怪我してねぇからいいけどよ」
疲れたように言って、ドカッと甲板に腰を下ろす。
見た感じ、確かに深い傷はなさそうだ。やはりこの人も、船長なだけあって相当な手練れなのだろう。
「それ貸してくれ」
私が持っている救急キットを指さして言う。
「本当に自分でやる気?」
「そう言ったのはレーナだろが。まったく船長の扱いひどすぎねぇ?」
「だって意地悪ばかり言うから……」
キットを渡して正面にしゃがみ込みながら、唇を尖らせていじけてみせる。
「んむっ」
腕の消毒をしていたウィルが、それに気付いてきゅっと唇をつまんできた。
「何すんのよ!」
「いやガキみてぇなツラしてたから」
「失礼ね!」
ぺちんと手を叩き落とすと、痛がった様子もなくカラカラと笑った。
「どっちがガキよまったく……」
「わりぃわりぃ」
ちっとも悪くなさそうに謝って、自分の手当てに戻る。
戦闘も怪我も日常茶飯事なのだろう。慣れた手つきで包帯を巻いていくのを、居心地悪く見守る。
「……肩の傷、手、届くの?」
「んぁ? んなとこ怪我してたか?」
「気付いてなかったの? 鈍すぎない?」
眉を顰めて言うと、ウィルが「冗談だよ」と笑って私の頬をつついた。
「……手伝ってあげようと思ったけどやっぱやめた」
頬を押さえながら恨めし気な目で睨んで言う。
「あーすまんすまん今のなし! 手伝ってください!」
慌てて謝りながら思い切り下手に出られて、思わず笑ってしまう。
両手を合わせて拝むように頭を下げながら、ちらりと上目遣いに私の機嫌を伺う仕草がなんだかかわいかった。
どうやら私に役目をくれるつもりらしい。
「しょうがない。やってあげるわ」
冗談めかしてふんぞり返った偉そうな態度で言ってみせる。
ウィルは「ありがたき幸せ」なんて大袈裟に言って恭しく礼をした。
「うしろ向いて」
「はいよ」
「シャツ脱いで」
「えっち……いてっ」
素早く怪我のない右肩を無言でバシッと叩く。
「船長への敬意はどこにあるんだよ……」
ぶつぶつ言うウィルを無視してガーゼや包帯を出しながら、脱ぎ終わるのを待つ。
「ほらよ。あと頼んだ」
露わになった背中に、思わず感嘆のため息をこぼしそうになる。
惚れぼれしてしまうほど鍛え抜かれた背中だ。
まるで美術館に展示される彫刻のような肉体美が目の前にあった。
無意識にそっと触れる。
全体的に、今までの戦闘の多さを物語るような傷跡が沢山ついていた。
けれどそれは彼の身体の美しさを損なうものではなく、それがあるからこそこんなにも心を揺さぶるのだ。
「……おまえ俺のことをエロい目で見ているな?」
「えっ、あ! ごめんなさい!」
指摘されて慌てて手を離す。
危うく撫でまわすところだった。これじゃ痴女だ。
バレていたなんて恥ずかしい。急速に顔に熱が集まっていく。
「え、マジで?」
いやなんで言った本人が戸惑うの。
もしかしてからかうつもりだったの?
気付いてさらに赤くなる。
これじゃ自白損だ。無駄に恥をかいてしまったじゃないか。
最悪だ。
赤くなった頬を押さえている私に、ウィルが顔だけ振り向いて声を上げて笑った。
「おまえ顔真っ赤」
「うるさい知ってる」
「普通男の背中見ただけでそんななるか?」
「ほっといてよ免疫ないのよ」
「ったくこれだから処女は」
「処女で何か悪いことあるんですかー」
「別にないですー」
子供みたいに言い合いながら、ようやく手当てに取り掛かる。
まだ顔は熱いままだ。
そのうえ処置のためとは言え、触れるたびにウィルの背中に触れる指先が熱を持った。
「まーそこらの金持ち連中のたるんだ身体ばっか見てりゃしょうがねぇか」
「だからお金持ちの人の身体だって見たことないんだってば」
「マジかよ。もっと色々見て男見る目養っとけよ」
「どうやって見るのよ。裸見せてくださいお願いしますって?」
「変態じゃねぇか」
「ホントよ。ウィルって最低」
「俺はそんなこと言ってねぇ!」
「ほら終わったわ。早く服着てよ変態」
手早く処置を終えて、目に毒なものをしまってもらおうと脱いだシャツを押し付ける。
ウィルは「変態じゃねぇし」とかなんとかぶつくさ言って、片腕を袖に通したところで動きを止める。
「……お子様のレーナにこの逞しい背中に抱き着くチャンスをやろうか」
「え、いいの? やったぁ」
ウィルは完全に私をからかう気満々の口調だったが、反射的にそう答える。
だってこんな機会二度とない。
正直この身体にもっと触れてみたいと思っていたのだ。
予想外だったのか、ウィルが面食らった顔で再び振り返る。
「おまえマジで言ってんの……?」
「あ、ちょっと恥ずかしいから前向いててよ」
「いや、俺冗談で言ったんだけど……」
「ええ? ダメなの?」
「ダメってわけじゃねーけど……」
「じゃ前向いててってば。いくよ?」
「いやもうわけわかんねー女だな」
ぼやきながらも視線を前に戻してくれたのを見計らって、思い切ってぺたりと背中に抱きつく。
ウィルが自称した通りに逞しいその背中にくっつくと、なんだか身体中がざわざわと騒めく感じがした。
もっと密着できるように腹に手を巻き付けると、手の平を伝う腹筋の感触にさらに胸がざわついた。
「……あーこれは……ちょっといい……」
「ちょっとかよ。てかいいのかよ」
「うんごめん……うそついた……かなりいい……」
「おまえ結構オープンなスケベだな……」
「いやだから処女なんですけど」
「関係ねぇよ処女でもスケベはスケベ」
「……何やってんのお頭たち」
唐突に声を掛けられて、ちらりと見上げると、何とも言えない微妙な顔をしたアランが立っていた。
処置を終えたのだろう、私たちに気付いたアランが、少し引き気味で私たちを見下ろしている。
「おうアラン。何やってんのか俺にもよくわからん」
ウィルがどこかヤケクソ気味に答える。
だから仕方なく私がきちんと現状の説明をすることにする。
「男の人の身体を堪能させてもらってるの」
「ばかおまえその言い方やめろ」
うっとり目を閉じながら質問に答えると、ウィルが焦ったように遮るのが面白かった。
抱き着きながら言い合っていると、アランが羨ましそうな目をした。
「えーいいな。オレももっと鍛えとけばよかった」
わかる。この肉体美いいよね。
私も男だったらこれくらいになりたかった。
ボディビルダーとかの観賞用の筋肉じゃなくて、なんかこう、いかにも実用的ですって感じの。
「やめとけ。痴女に襲われるぞ」
「失礼ね、アランは良い子だからこんなはしたないことしないわ」
「どういう意味だこのやろう」
「ウィルはこういうこと慣れてるでしょ。爛れた生活送ってそうだもの」
「まぁそうだね。陸に上がるととっかえひっかえ」
「アランてめぇ余計なこと言うな」
「だと思った。いやらしいわぁ」
「そのいやらしい男にいつまで抱きついてんだ。そろそろ離れろ視線が痛い」
ぱちりと目を開けてウィルの身体から離れる。そうして周囲を見渡せば、作業の手を止めた船員たちが私たちを見ていた。
「あらやだ」
「アホ」
今更恥ずかしくなって、誤魔化すように周囲に愛想笑いする私に、ウィルが呆れた口調で言う。
そうして素早くシャツを着込んだ。
「レーナ、次は俺に抱き着くかい?」
すかさずアルが寄ってきて、私の目の前に片膝をついて両手を広げる。
どこか芝居がかった仕草で、ニコニコと期待に満ちた目をしている。
ありがたい申し出だけど、苦笑して首を振った。
「ううん、やめとくわありがとう」
「そう? 俺はいつでも大歓迎だけど」
「初めてのことで舞い上がっちゃったけど。次からは本当に好きな人とだけにしとくわ」
「それは残念。じゃあ早く俺を好きになってね」
「賢明な判断だな。あっちこっちでやってたら完全に痴女で捕まる」
「馬鹿な事やってないでさっさとメシにしようぜ。腹減ったわ」
いつの間にかシレっと戻ってきていたエミリオが、いかにも疲れたといった顔で言う。
確かにもうだいぶ遅い時間だ。
今から食事の準備をするとなると、みんな空腹で倒れかねない。
「誰かさんの手当てのせいで厨房に行くのが遅れててすみません」
少しも詫びる気持ちのないまま澄ました顔で言うと、ウィルが豪快に笑った。
「どっかの変態のせいで晩飯食いっぱぐれちまう。みんな手分けして手伝うぞ!」
「うーっす」
「もちろん手伝わせていただきますとも」
「誰が変態よ」
「別にレーナとは言ってないだろ」
「船長いいなぁ」
「レーナ、オレも結構鍛えてるから抱き着きたくなったらいつでも言って」
「俺も!」
みんなで軽口を言い合いながら、ゾロゾロと連れだって厨房へ向かう。
なんだかまた少しみんなとの距離が縮まった気がして嬉しかった。
食堂に入ると、テーブルにはすでに料理が用意されていて驚く。
「レーナが頑張ってたから、俺らはこっちを頑張っといたよ」
丁度配膳を終えたテオが、私たちに気付いてにっこり笑う。
どうやら応急処置と自分の持ち場の片付けを終えた船員から順に食堂にきて、夕飯の準備をしてくれていたらしい。
「ありがとう! すごく嬉しい!」
私は感激して、テオを初めとする夕飯お手伝い組に心からお礼を言った。
そうして席について、全く美味しくない夕飯をみんなで涙を堪えながら食べた。