2.目指すは平凡な生活
外に出ると、空はもう暗くなっていた。
空気は澄んでいて、大きく息を吸い込んだ後、清々しい気持ちで歩き出す。
まずはどうしよう。国を出なきゃいけないなら海か。
船着き場の運行表を見てから行先を決めようか。
ノープランのまま、勢いで屋敷前に待機しているフリーの馬車を拾う。
「乗せてもらえるかしら」
好みの異性とパーティを抜け出していく貴族たち相手に商売をしているのだ。
一人で声を掛けてきた私に不審な目を向けてくるものの、貴族相手の対応を心得ているのだろう、余計なことは聞いてこなかった。
「どちらまで」
「とりあえず海へ向かってほしいの」
支払いは右耳のピアスについていた宝石一つで話が付いた。
むしろ海までの運賃には多すぎるくらいの代物だが、旅立ちの第一歩にケチがつくのも嫌でおつりは請求しなかった。
――きっと元剣道部だから剣の上達が早かったんだな。
馬車の中、砂利道を揺られながら考える。
記憶によれば、前世では剣道で全国優勝経験がある。
弓道も空手も、そこそこに強かった。
現世では確か、剣を持ったのは三歳頃だ。
親がドン引きしていたのをおぼろげに覚えている。
どうやら根っからの体育会系らしい。
武道ばかり習っていたからといって、別に暴力的で荒くれモノだったわけではない。
ただ、いつも胸には闘志が燻っていて、それは今の生でも同じだった。
我ながら強い女だったと思う。
だからといって反逆者扱いされるほどのものかと、改めてため息が出る。
きっとマリーはあの後もうまくやるのだろう。
弱くて従順で愚かなフリの出来る、賢い女性だったから。
それに少し身分差はあるが、マリーだって貴族の出だ。あの場を去った私はそれこそ暗殺犯に仕立て上げられるだろうし、それを密告したという立場のマリーは褒め称えられることだろう。
彼女の本当の目的が何だったのかはわからないが、それこそ国家転覆を考えるような人間ではないはずだ。
彼女なら私より上手くクリストフを操縦して、国の運営を軌道に乗せられるかもしれない。
まぁなんにせよ、もうこの国を出る私には関係のないことだ。
私がいないくらいで滅ぶ国ならいっそ滅んでしまえ。
本気で思ってもいないことを考えて、そう考えても許される立場になったことに少し笑う。
それよりこれからどうしよう。
記憶の混乱があったとは言え、こんなに考えなしに行動するのは初めてだ。
もちろんそれを不安に思う気持ちもあるけれど、期待の方が強かった。
なにより開放感がある。
ずっと窮屈に思っていたのだと、今更気付いて馬鹿みたいだ。
あの生活だって目標や生き甲斐はあったけれど、私が私のまま生きるにはつらい世界だった。
貴族だからもちろん衣食住に不自由はなかったし、むしろ高位貴族の長女である私はとても恵まれているのだと理解もしていた。
それでもいつも逃げ出したかった。
前世では庶民も庶民、むしろわりと貧乏寄りだったから、転生してもセレブ生活と言うものが性に合わなかったのかもしれない。
父子家庭だったから、傍から見れば恵まれているなんてとても思えないだろう。
けれど父との仲は良かったし、やりたいことをやらせてくれて、褒めてくれる親だった。
現世とは正反対だ。
「ふふ」
思わず笑いがこぼれる。
それは不思議と自嘲的なものではなく、愉快なものだった。
たぶん、今確かに存在しているこの世界よりも、今日思い出したばかりの前世の記憶の方が圧倒的に温かくて幸福なものだとわかって、おかしいのだ。
うん、私はあれを目指そう。
貧乏でも、全部揃っていなくても、楽しく明るい家庭を。
決意を胸に、馬車の窓から揺れる夜空を見上げた。
数時間で馬車は森を抜けた。
もう完全に日が沈んで真っ暗だったが、潮騒が聞こえて、すぐそこが海だとわかった。
港からは少し離れた場所だ。
そこで降ろしてもらうよう伝えると、御者は少し不審げな顔をした。
貴族の御令嬢がこんな何もないところでたった一人、一体何をする気なのか。
その表情から疑問はありありと読み取れたけれど、答えてあげる理由もないので笑顔で黙殺した。
馬車が去るのを見送ってから歩き出す。
月が雲に隠れているせいで正確な時間はわからないが、船が出る夜明けまではまだ遠い。
御者の話だと、この近くに小さな宿が一軒あるらしい。
幸いなことに今日のパーティの主役だったから、貴金属は山ほど身に着けている。
ピアスだけで上質な宝石はあと五個あるし、それだけでも一般国民からすれば一財産だ。
蛇蝎のごとく嫌われてはいたけれど、見栄や体面を気にする両親だったから、ドレスも最上級だ。
全てを売れば、しばらくはお金に困らない生活を送れる。
生粋の貴族令嬢ならいざ知らず、別世界とは言え庶民経験があるせいか、将来への展望は割と明るかった。