8
景色が流れていく。
高台から眼下に見える、高い太陽に照らされた田んぼに、ぽつぽつと赤や青の屋根の民家。それは、じきに広葉樹と針葉樹が混じり合う、緑鮮やかな森へと変わり、次は眼前間近に薄汚れた壁が現れ、
がたんっ――!
と、座席が揺れたと思いきや、また明るい日光に照らされた風景が開ける。
「…………」
ぼくは、沈黙していた。ただ、そこは決して静かではない。背筋がぞわぞわする猫なで声、脳が溶けるような、意味があるようで、意味がないようで、やっぱり意味がないだろう歌詞が左耳から入り、右耳から抜ける。
ぼくは、沈黙――いや、耐えていた。絶妙に音程を外した歌声の三重奏が、タイミングをずらして襲ってくる。あとどれくらいで目的地に着くのか、なぜぼくは耐えているのか、そういえば何をしに行くんだっけ、などと思い始めた頃。
ぼくの体は著しい精神汚染から逃れるため、無意識的に車の操作パネルに手が動き、『FM』のボタンを押下した。
刹那、その壊音は、喋り慣れているであろう、小気味いいテンポで話す男の声と、タイミングのいい切り返しの声を挟む、女のものに変わった。
「ふう……」
ようやく訪れた安寧の環境に、ぼくは大きく息をついた。
かと思いきや、隣に座る女の手によって、間髪入れず、再び切り替えられてしまう。
再来の毒音波。それに混じって、右手から女の声が聞こえた。
「アタシの車で、何を掛けようがアタシの自由だ。アンタは乗せて貰っている立場だということを忘れるな。そんなに嫌なら、耳栓でもしてろ」
と言われたので、おかまいなく、念のため持ってきていた耳栓を取り出して、手早く耳に装着しようとして、
がっ――と、右腕を掴まれた。「何で持ってるんだよ!」と右耳の間近で罵声を浴びせられる。
その音量に、頭の奥にぐわんと響くような耳鳴りを覚えながら、ぼくは思いっきり顔を顰めせて、車に乗り込んでから初めて口を開いた。
「……うるさいな。してもいいっていったのは五十川でしょ」
「ホントにするヤツがあるか。二間が言ったことを忘れたのか?」
その言葉に、ぼくは「はあぁぁぁぁ」とこれ見よがしに息を吐き、渋々、耳栓をしまう。
――仲良くしろとは言わないが、せめて最低限コミュニケーション出来るようにしてくれよ。
本日朝、車に乗り込んだぼくらを見送るがてら、彼から、再度念を押される形でそう言われた事を思い返しながら、今回の旅の道連れを見やった。
闇よりも暗い色の髪をボブ調にした女。ジーンズに無地のシャツという、ラフな格好は無頓着にも見えるが、無駄に背が高くスタイルがいい彼女には、それだけでキマって見えないこともない。
顔つきは可愛いというより美人、美人と言うより怖いという印象が先に来るような、勝気な性格が顔面に現れたようなものだ。だが、これはこれで同業者や、警察の間では『姐さん』と呼ばれ人気らしいとは志鳥ちゃんの弁。ぼくは認めないけど。
それより何より認めないのは、こんなヤンキー風情の癖に、ハードなアニメオタクというところだ。
部屋には足の踏み場もない程フィギュアが散乱する有様。電車では常に音漏れ激しいヘッドホンでアニソンを聞きながら移動し、車では同乗者にまでそれを強要する。はた迷惑甚だしいとはこのことだ。
「ああん? 何か今、アタシの悪口言っただろ」
「言ってないよ」
――付け加えて、無意味に勘が鋭いというところも腹立たしい。そのくせ、勘違いしやすいというオプション付き。
ぼくらの仲が決定的に悪くなったのは、二間さんがぼくに対して特別扱いするのが厚意ではなく好意――つまりラヴ的なものだと、この女に勘違いされたことが発端だ。
否定すればするほど、五十川は疑念を持ち、遂には尾行までされ、危うくぼくの正体、つまり性別がバレる寸前までいったのだ。結局、それは誤解ということで収まったのだが、ぼくの腹の虫が収まる訳もなく。
ちなみに――ぼくの本名は事務所の人間全てに周知のものとなっているが、性別に関しては二間さんだけにしか知らせていない。これといった理由があるわけではないが、男と知られている人間の前で女として振舞うのは、結構気持ち的に来るものがあるのだ。それに、秘密はどこから漏れるか分からない。あまり知らせていい話でもないだろう。
とにかく、その事件以降、ぼくらは顔を突き合わせる度に、口撃の応酬を繰り広げるようになったのだった。
「ちっ」
と、五十川は片手でハンドルに手を掛けて、気だるげに運転しながら、ぼくにわざわざ聞こえるよう舌打ちした。
「アンタの、その人によって露骨に態度を変えるところが一番気に食わねえ」
「その時々の相手によって、必要最低限の労力で振舞っているだけだよ」
「……つまり、そのスカした態度は、アタシに対する必要最低限ってことか?」
答えず、にこー、とぼくは笑った。大層生意気に映ったのだろう、五十川は横目でぼくを見、苛ついたように表情を歪めていた。
「ホント、見た目の割に、中身は全っ然可愛くねえな」
「それはどうも。きみに可愛いと思われたくもないので、願ったり叶ったりだね」
「ふん。じゃあ男の前だとしおらしくすんのは、可愛いと思われたいからなのか」
とまあ、この女と話すと、大体こういう話になる。なぜ、ぼくが二間さんの――男の話で修羅場っぽくならなければならないのか。
「まだ引っ張るつもり? いい加減にしてよ」
ぼくは彼女と逆側の窓にもたれ掛かるようにして、心底うんざりとした風に言うと、
「誰も二間の事だとは言ってねえよ。自意識過剰すぎなんじゃねえの。よく通りすがりの男共に愛想笑いしてたりすんだろ。そのことだ」
と、カウンターが返ってきた。
「……ああ」
今のは早とちりだったかも知れないと、反省しつつ、「こほん」と咳払いする。
「神に愛された美少女として、義務を果たしているだけだよ。それに、ぼくの微笑み一つで、彼らはとても幸せな気持ちになる。それを見たぼく自身もいい気分になれる。相互利益享受の関係だね」
「馬鹿だろ」
一言の元に斬り捨てられたぼくは、頬がひくつくのを感じながら、だが反論せずに黙り込んだ。この話題では勝てないなどと思ったわけではない。断じて。
そのまま、お互いにぴたりと話し声が止み――
また、脳を揺さぶる狂乱サウンドが気になり始めた頃。
「なあ、その……ホントにないんだよな?」
主語も動詞もなく要領を得ないことを、柄にもなく消え入りそうな声で、五十川は何やら呟いていた。
「何が」
一方ぼくは、さっきより数段低い声で聞き返していた――ぶっちゃけ、趣味でもないアニソンを聞かせ続けられて、精神汚染だの毒電波だののふざけの度合いを過ぎて、イライラしていた。
「だ、だからその……いや、なんでもねえよ」
「言いたいことがあるならはっきり言ってよ。面倒くさい」
「め、面倒くさい!? だ、だから、ホントに二間の事、何とも思ってないんだよな――ってわぁ!?」
勢い余って車線変更したぼくらの車に、猛烈なクラクションを鳴らしつつ、後ろを走行していたトラックはぎりぎりかわせたのか、「馬鹿やろ、死にたいのか!」と怒声を浴びせて通り過ぎて行った。
「…………」
「…………」
野太いホーン音が鈍く耳に残る中、静寂に満ちる車内。すぐそこから鳴っているはずの音楽が、どこか遠くの方から聞こえるような心地で。
「何とも思ってないから、安全運転してよ。お願い……」
「お、おう……」
心なし震えるぼくの声に、殊勝に返事した五十川は、おっかなびっくりといった風にハンドルを両手で持ち直した。
肩をしょんぼりさせながら、でも、どこかそわそわと嬉しさを隠せてない彼女を見て、多少は女性らしい可愛げがあるなと思ったが、それは吊り橋効果の錯覚だろう。
ぼくは、うるさく鳴る鼓動を落ち着けながら、「しばらく寝る」と一方的に告げて、背もたれを倒し横になる。ついでに耳栓をしたが、今度は咎められることはなかった。寝る場合ならいいらしい。それでいいのか。
目的地までは、まだ幾つかの県を跨がなくてはならない。
運転を任せてしまって申し訳ないという気持ちも、幾ばくか、またはほんの少し、もしくはスズメの涙程度にはあったが――しばし休むせて貰うことにした。