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テナントの三階。味気ない、まるで非常ドアのような戸を開けて、開口一番、「諏羽内志鳥、只今、玄関掃除の任から帰還いたしました!」と、志鳥ちゃんは敬礼しながら言った。
しかし、ぼくは何も言わず、その後に続いて部屋に入る。見慣れた部屋、薄暗い照明に、青みがかったカーペット。何の変哲もない幾つものオフィスデスクが、嵐でも吹き荒れたように、乱雑に、折り重なるように倒れている。その上に、電源の入っていないパソコンやらモニターやらが、捨てられたように放置されていた。
この有様は、室内限定で何かしらの災害を受けたかのようで、どう考えても異常と呼ぶべきものだが、ここに居るものにとっては、ごくごく当たり前のものだった。
初めの頃は、ぼくもいちいち驚いてみたり、突っ込みを入れたりしていたが、一向に改善されない――いや、改善も何も、敢えてこうしていると言われてしまった(理由は聞いても理解出来なかった)ため、最近では触れることは無くなった。
異常に関わる人間達に、まともな神経であることを期待するのがおこがましかったのだろう。ぼくは自分を棚に上げ、そう認識することにした。
二間さんは、いつものポロシャツに短パン姿、デスクの山々の横で、唯一正常な向きで配置されている机に、黒く艶があるノートパソコンを開いて、頬杖をつきながら眺めていた。
ぼくらに気付くと、無言で手を挙げただけで、特にそれ以外で反応らしい反応はない。
「オーナーオーナー、咲っちゃん来たっすよー!」
ぱたぱたと軽い足音を立てながら、がれきのように佇む机やら椅子やらをぴょんぴょんと避けて、志鳥ちゃんは二間さんに駆け寄っていった。
「顔上げるっすよー、挨拶するっすよー、おーい」
「うるせぇ、聞こえてるよ」
と、苛ついた様子で、しかし彼はパソコンから目を離すことなく言う。
「諏羽内、てめえ掃除終わったのか」
「はい、終わりました!」
「そうか、それを頼んでから今で何分経ったか覚えているか」
言われて、志鳥ちゃんは少し固まったのち、「に、二十分ぐらいっすかね?」と、やや裏返った声を出した。
「十分も経ってねえよ。もう一度、駐車場の南東側から北西に向けて、箒で順々に履く作業を四回繰り返したのち、全面隈なく水を撒いて、ブラシで十センチ四方辺り三回の頻度で擦れ。いいな?」
間髪いれずにそう言った二間さんに、大仰に非難のリアクションをする志鳥ちゃん。
「え、ええー!?オーナー、そんなの幾ら時間があっても終わらないっすよー!」
「大袈裟過ぎるだろ。ほら、さっさ行け!」
「ひーん、分かりましたよー!」と、涙を流しながら(嘘泣きだろう)、彼女はぼくの横をすり抜けて出て行った。ぼくは一瞬茫然としたのち、やや気まずくなりながら、
「えと、ぼくが来たから、追い出したんですかね?……ちょっと申し訳ない気が」
「いいんだよ、やらせとけ。自業自得だ」
変わらず、彼は顔を上げない。ぼくは疑問の色を声に滲ませて、
「というか、わざわざ志鳥ちゃんにさせなくても、そういう人を雇うことは出来るないんですか? お金が無いわけじゃあないんですよね。あと、テナント業者側でそういう事はしてくれないんですか?」
「金があろうがなかろうが、掃除をやらせるために人を雇うつもりはねえし、業者側でやってくれねえからこっちでやってんだ。それに俺は、あいつに掃除をさせているつもりはねえよ。たまたま、今あるものが掃除だったってだけだ」
「させているつもりはないって……どういうことですか?」
尋ねると、二間さんは頭を心底煩わしそうに、やっと顔を上げた。
「んなこと自分でちったあ考えろ。俺は何も考えずに教えを乞うような奴に、説明すんのは大嫌いなんだ。その頭でっかちな脳髄に血を巡らせてみろ」
「……誰が頭でっかちですか」
「てめえ以外に誰がいるんだよ、年々口先ばかり成長しやがって。最も、それ以外は皆目成長していないようだがな」
言いながら、ぼくに向けてくるぶしつけな目線から、逃げるように体を抱えてそっぽを向くと、二間さんは「はんっ」と鼻を鳴らした。
「どうせまだ、オルレリアのとこにいってねえんだろ? 一応見て貰っとけ。あの付き人女は過敏にも程があるが、てめえは見て見ぬふりをしすぎだ。もうすぐ成人を迎える男が、そんなナリでいることに危機感を覚えろ。まだ四十崎がどんな薬を使ってたかも分かってねえんだろ」
オルレリアとは、ぼくが通っている病院の先生の名だ――体の事情があるため、二間さんから紹介して貰った裏世界に通じる、言ってしまえば闇医者だ。ちなみに、ぼくの性別の事は、二間さんと侑、それにオルレリア先生しか知らない。
ぼくは、「はあ」と生返事をして、
「そのうちちゃんと行きますよ。でも、あの人ちょっと……怖いというかなんというか。事あるごとに血を抜いてこようとしてきたり、明らかにデザインがおかしい検査衣をぼくだけに着せようとするんです」
「ああ――てめえは気に入られてるからな。アレはもう病気みたいなもんだ。害はねえから安心しろ」
医者が病気ってどういうことだ。害が無かろうが、不安と怖気で余計症状が悪化しそうだった。
ぼくは首をかぶり振りながら、「それより、本題に入りましょう。約束してた次の依頼の話ですよね」と言うと、
「そうだ。まあ、なんてことねえ、お馴染みの化け物退治だがな」
と答えた二間さんは、手元のノートパソコンをぐるりと回し、ディスプレイをこちらに向けた。地図が載ったウインドウが開かれており、それには、かなり内陸に入り込んだある一点に、印が表示されていた。
「……かなり遠いですね。多分ですけど、ここ、電車なんて近くに通っていないんじゃないですか?」
「だろうな。バスとかを駆使すれば行けないことはないだろうが、必然、車での移動の方が楽だろう」
「ふうん……」
その言葉の意味するところを理解する前に、取りあえず詳細を聞くのが先だと判断したぼくは、二間さんに質問した。
「お馴染みっていうことは、また境界に割れ目が発生したっていうことですか。最近、ちょっと多すぎないです?」
「どうも、ある世界がこっちに近づいているらしい。その影響だと見てるが、これが続くようなら、いずれガス抜きをしなくちゃならんだろうな。前の担当が七ヶ瀬だったから、次は九ノ里ってことになる」
「九ノ里、ですか。あまりいい噂は聞きませんね。成り上がりだとか、紛い物だとか、散々な言われようだったような」
「そりゃあ、古い一族の皆様方は気に食わないだろう。まだ名乗り始めて二年も経ってねえしな。それに、もしやるなら今回が初めてになるはずだ。とても単独じゃ乗り切れねえから、どの家をサポートとして選ぶかで、また揉めに揉めんだろうな」
「なんだか、聞いてるだけでうんざりですねー……」
言葉通り、心底うんざりといった風に呟いたぼくを見てか、二間さんは、「くくくっ」と引き笑いをして、
「ま、俺らは一族のはぐれもんだからな。めんどくせえしきたりだの、マツリゴトはあいつらで勝手にやって貰えればいいさ」
どこか子供のように屈託なく、それでいて邪悪そうな笑みを浮かべる二間さんを見ながら、
――何の関係も無いはずのぼくに良くしてくれるのは、案外、同族意識のようなものかもしれないな、などと、ぼくはぼんやりと思ってから、
「――それで、現れている魔物はどのようなもの、なのでしょう」
と、話を戻す。
二間さんは、緩んでいた口元を、きりと引き締めて、パソコンのキーを人差し指で何回か打鍵した。すると、ディスプレイの内容が切り替わり、幾つかの写真がキータッチ音に合わせて表示される。
その一つ、木々がうっそうと茂る自然、遠くに川が流れている写真。人らしきものは写ってないそれの、右下端部分の風景が、虫眼鏡を通して見たように歪んでいた。
加工された写真か、そうでなければ、心霊写真とでも言われそうなそれを見て、ぼくの頭に閃くものがあった。
「ディドラ型……ですか」
「正解だ。相変わらず、よくこんだけで分かるもんだな」
二間さんは満足げに頷いて見せた。
ディドラ型というのは、魔物の形態の一種。かなり珍しいタイプで、討伐事例も少なかったはずだ。その特徴は、他の追随を許さない圧倒的なタフさと、基本的には人間に対して、自ら襲ってくることがないというものだ。なので、差し迫った危険性という部分ではさほどだが、同時に被害がすぐに発生しないため、気付いた時には取り返しがつかない程に大量発生している場合もある。
「今回は早期発見と言えるだろう。全てじゃないだろうが、確認されたのは六体だけということだ。だが、問題はそこじゃねえ」
彼は握り拳を作り、そこからぴっ、と人差し指を一つ立てた。
「言うまでもねえがこいつは堅い。半端な銃や刃物は甲羅のせいでほとんど意味を成さねえ。ロケットランチャーをぶち込むぐらいの火力がなきゃ、討伐なんて出来ねえだろうな」
続けて、二つ目の中指を立てた。
「それに、こいつは境界の裏に隠れる事が出来る。それに察知出来る人間がいなければ、逃げられるだろうな。一度逃げられれば、やつらは警戒して他の場所に移るかも知れねえ。そうしたら最後、見つけることは難しいだろう」
と、ぼくに視線を投げかけて、にやりと笑った。
「あと、目撃されたエリアが広いということだ。六体以上いるにしろいないにしろ、広範囲を探し回る必要がある」
「はあ。大体分かりました。確かに、それならぼくが行ったほうが話が早いですね」
ぼくはやる気がなさそうな、覇気のない返答をした。が、二間さんは気にした様子無く、頷く。
「そういうことだ。事前にも言ったが、俺は予定があって動けない。予算的には通常通り二人分で確保してるから、俺以外の人間で、もう一人連れて行くことになる」
「なるほど。まあ、ツーマンセルが妥当でしょうね」
「で、だ。連れていく人選はお前に任せるが、どうする?」
「…………」
ぼくは、自分でも眉間に力が入っていることを自覚しながら、ゆっくりと考えるように間を取って、言った。
「五十川、でしょう。あいつの魔法なら、問題なく通用しますし、移動力も申し分ない。侑は、言ってしまえば守り専門ですので、あまり内容的に向いていないと思います。特に広範囲を動きながらというのが、相性最悪ですね。志鳥ちゃんは、無理とは言いませんが、こと今回に関しては、五十川に及ばない」
と、苦々しげに言った言葉に、二間さんはくつくつと苦笑していた。
「そうしてると、年相応の不貞腐れている子供みたいだな」
かあ、と顔に熱が帯びるのを感じながら、
「……分かりました、あいつと行ってきますよ。先週の借りですから。でも、これで完全にチャラですからね」
と、存外きつめの口調でぼくは言ってしまった。
そのことに、若干恥を覚えていると、二間さんは、癖なのか、よく見かける後頭部のあたりごがじがじと掻く素振りをしながら、
「もちろん、貸し借りゼロだ。ま、よろしく頼むぜ。これっきりで、あいつとぎくしゃくしてんのも終わりにして欲しいしな。やりにくくて仕方ねえ」
と、どこか生暖かい目をしていた。
「……善処します」
ぼくは、ぐったりと天井を仰ぎ見た。