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「維咲様って、本当に嘘つきですよね」
目玉焼きの半熟の黄身以外を綺麗に平らげ、満を持して、その濃厚そうな黄色に箸先を付けようとしたその時、侑夕はそれまでの平々凡々と取り留めのない会話から一転、そう言った。
「そういう侑は、割といつも唐突だよね……」
と、最近思っていることをしみじみ口にしてみるものの、彼女は気にした様子無く「うーん」と何かを考えるようにしていた。
そこはファミリー向け賃貸マンション、七階中四階の一室、我が家のリビング兼ダイニング。
筆舌に尽くしがたい、誠心誠意、平伏叩頭したぼくの、並々ならぬ陳謝が実を結び、暖かい我が家の朝食が取り戻せた頃のこと。
未だ寝間着姿のぼくの前に座る、今日はショートデニムに袖の短いブラウスという、肌色多めな恰好の侑夕が、一足先に食べ終わったらしく、手が寂しいのか、おもむろに握ったり開いたりしながら、ぱっと思いついたように顔を上げた。
「例えば、先週の刑事さんとのやり取りで、『雪の紋章』が女性にしか使えないとかなんとか。普通に魔石で起動してる時点で、全然嘘っぱちじゃないですか。他にも四十崎の名前の由来とか、その後の勝負でもナチュラルにズルしたりとか。ああ、これは卑怯という方が正しいですが」
ぼくはぴしゃりと箸を置いて、とんでもない言いがかりの芽は潰そうと決意し、大きく息を吸い込んだ。
「別に嘘をついたわけじゃないよ。ただ、ちょっと正確じゃなかっただけ。例えば『雪の紋章』は尋常じゃない魔力を消費するから、魔力の絶対量が多い女性じゃないと発動は難しい、って意味では本当だよ」
「じゃあそう言えばいいじゃないですか」
「……面倒だったんだよ。それに、使った人間は他に魔法が使えない程消耗する、だなんて正直に言えば、あの場で川見さんに説明した『敵の魔法を封じたのち、侑の魔法で状況を切り抜ける』って前提が崩れるでしょ」
ちなみに、あの赤い魔石は警察に知られると即没収の危険物だったので、それを知られるわけにもいかなかったという事情もある。侑は口を尖らせながらも、渋々納得といった顔で「それは、まあ、分かりました」と言った。
「じゃあ、由来の件は?」
「ご先祖様の話は本当。逸話が史実なのかは知らないけど。座右の銘も『四十崎たるもの』の枕詞から始まる、件の家訓にあったと思うよ。あれ、全部暗記しないとエイバム先生からこっぴどく怒られるから、やだったなぁ」
しらけた視線にぼくはごほんっ、と咳ばらいをし、「前言撤回」と前置きして、
「嘘も方便ということで」
「……随分と軽々とした手のひら返しに、私は心底、維咲様に呆れています。なぜ反論出来ると思ったのですか」
「や、反射的に」
「考えているようで、脊髄反射に対応する癖、いい加減直してくださいね」
またお小言を賜ってしまったぼくは、先ほどの事があるので「すみませんでした」と素直に謝った。
どうも言い方に誠意成分が足りなかったらしく、一瞬睨むように侑夕は目力を強めたが、すぐに肩をがくりと落として、
「別に、だからどうと言うつもりはないんです。ただ、一体維咲様の何を信じてよいやら、私にも分からない時が多々あるもので。昔の純真無垢だった頃のお嬢様は一体どこへ行ったのやら」
「そんな頃は、いつ何時一秒たりとも存在してなかったと思うけど。まあでも、言い訳ってわけじゃないけど、ぼくが詭弁欺瞞を用いるのは、それが邪道外道の類か、非常識な行いに対する時だけだよ」
「目には目をというわけですか。それでいて先手必勝なところが悪質ですよね」
「負けちゃ意味ないからね」
「はあ、そうですか」と侑夕は生返事をして、「外道といえば――名前が出てこないのですが、奇抜な中央色分けピアスの方やそのお仲間はどうなったのですか?」とぼくに尋ねた。
「藍住洋平ね」と一応の訂正をして、
「二間さんからお願いして、川見さんの管轄内で取り調べをして貰ってる。出来る限り大っぴらにしたくないからだけど、効果があるかは微妙だね。警察を使ったことが裏目に出た感じ。どちらにしろ、いずれ、また追い付かれることは覚悟しないといけないと思う」
と、ぼくは止めていた手を再開させ、ついに黄身を覆う白い薄皮を破り、濃厚な蜜を貪ろうとしていた。
侑夕はしばし沈黙してから、
「そんな危険を冒してでも、まだ関わるつもりですか?」
と、か細い声で言った。
「何度でも。何度でも言いますが、維咲様には、もうこの世界に足を踏み入れて欲しくはありません。約束だの何だの、耳にタコが出来るほど聞こうが、私は一切理解出来ませんし、したくもありません」
侑夕は、無表情な面持ちで、だが、何かを吐き出すように言う。
「維咲様を縛るあの家から必死に、何回も何十回も死ぬような思いをして抜け出して。居場所を作れて。今みたいに普通にご飯を食べて、どうでもいいことで喧嘩して仲直りして。ようやっとお嬢様も笑えるようになって――もう、維咲様は救われているんです。名前も知らない、顔も覚えていない他人のことなんて、」
「救われてなんかない」
ぼくは彼女の言葉を遮って断定した。
「確かにどこの誰とも知らない、女の子に言ったことだけど。あれはぼく自身に対しての言葉でもあったんだ。助けると言った、救うと言った、その言葉の意味は、こんないつ壊れるかも分からない場所で、隠れて過ごすことじゃない。決っして、ない」
「じゃあ、何だっていうんです」という侑夕に、「分からない。だから、まだ戦うんだよ」と告げて、
「その答えのため、ぼくは彼女を、もしくは彼女の結末を知らなくちゃならない。だから侑夕。力を貸して欲しい」
俯いてしまった侑夕に、ぼくは改めて、懇願――いや、命令した。
「――ふぅぅー……」
声に出して、大仰に息をついて。
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
「はーい、分かりました、分かりましたとも。槙侑夕、維咲様の侍女として、地獄の海だろうが黄泉の果てだろうが天国の底だろうがどこまでもお供いたしますよ」
滅茶苦茶不機嫌で棒読みだった。投げやりにも程がある。この女、空気を読むつもりが皆無らしい。
――いや、分かってはいたんだけど。このやり取りも三回目ぐらいになるし。
「はいそんなわけで、雪の紋章だか女王だかを『追跡屋』に渡しておけばいいんですよね合点承知の助です。維咲様は二間さんに呼ばれているんでしたよね行ってらっしゃいませ」
と、言いながら立ち上がった侑夕によって、結局半分残ったお月様は、有無を言わせぬ速さで、流しに持っていかれてしまった。
蛇口のノブを全開に、ばしゃばしゃと激しい音を立てながら洗い物をする侑夕を、しばらく遠めに見やってから。
ぼくは、手伝うでもなく、のそのそと支度を始めたのだった。
◇◆◇◆◇◆◇
家を出て、首都圏に張り巡らされた地下鉄を幾つか乗り継いで、やって来たそこは、寂れた商店街の角にある、やはり古びた茶色いタイル張り外壁のテナントビル。
一階は道路に面して口を開けたように空洞となっており、中は車が三台ほど(白線がないので、ほどとしか言いようがない)駐車出来そうなスペースが広がっている。その脇には上へ続く階段と、各階向けポスト(その半数は蓋が壊れている)が設置されていた。ちなみに、今現在駐車場は無人だが、少なくとも一台は停めていることをぼくは知っている。つまり、車の主は外出中のようだった。
ちらと上を見やると、二階の窓には「あざれあ歯科病院」と読めるよう、一文字ずつ紙に赤字印刷したものが、部屋の中から外向けに張られていた。三階より上は、特に何も見受けられないが、未使用という風にも見えない――まあ、使用されている事を知っているから、当たり前なんだけれども。
と。
「ようよう、咲っちゃんじゃないか、おひさー!」
そう、底抜けに明るい声は、茶色の髪をおさげ風にした女の子のものだった。
まだ普通に話すには随分遠いところ、向こうの道から建物を目指して歩いているぼくに対して、大きく手を振っていた。
ぼくは小さく右手で振り返しながら、急ぐでもなく普通に歩を進めて、ようやく顔がよく見えるようになってから挨拶した(ちなみにその間、ずっと彼女は手を振り続けていた)。
「久しぶり、志鳥ちゃん」
「おうおう、おひさっす! あれあれ、槙っちゃんはいないの?」
「侑は別件があったから来てないよ」と返すと、「そなの? いつも一緒だからちょっと驚きだね!」と身振り手振りを盛んに、志鳥ちゃんは言った。
「そうかな。あまり意識していなかったけど」
「私が覚えている限りですけど、ここに一人で来てるのは初めて見る気がするっすね!」
「そう? まあ、そうかも知れないね」
「私の記憶力は当てにならんっすけど! 一昨日何したのかも、今日ご飯食べたかも、たまに自分の名前の書き方も忘れるしな!」
「あるある、と答えたあげたかったけど、ないね。どれだけ物忘れ激しいのさ」
「あははは、やっぱないか! 最近、オーナーにも鳥頭って言われるんすよね」
ぶんぶんと振り回す両手に合わせて、おさげが右に左に、忙しく揺れる。その手には竹箒が持たれていた。どうやらビル入り口近辺の掃除中らしい。
清掃員を雇うお金ぐらいあるだろうに――と、差し出がましいことを考えながら、志鳥ちゃんを見やる。
だぼだぼなオーバーオールに白シャツという子供っぽい格好に、子供じみた背格好の女の子――じみた、というのは、こう見えてぼくより年上であることが以前発覚したからだ。
染めてから時間が経ったのか、根元に地の黒色が出かかっている茶髪。くりくりと大きい瞳に、端が吊り上がった口元。幼く見えるが、言われてみれば大人のジョセイな雰囲気を感じないこともない――総合すると、やはり二間事務所の一員として、美少女と数えられる容姿を備えている。
――いや、別にそういうトコロではないのだが。
「ねえ、志鳥ちゃん。念のため聞くけど、五十川はいないよね」
「いないっすよ! ってほら、車無いじゃないですか。うちは緑しか運転出来ないって咲っちゃんに言わなかったっけ?」
「や、知ってるよ」
「ホントに念のためだよ」というと、「あー、君ら仲悪いもんな! あはは!」となぜか楽しそうに志鳥ちゃん。
――どうも、志鳥ちゃんは常にテンション高め、ノリと勢いでモノを言うので、実は何を考えているのかよく分からない、という印象がぼくにはあった。というか、ぶっちゃけ苦手だ――苦手じゃない人なんていないけど。幼少期の家畜生活は、ぼくから社会性を無くしてしまったらしい。
まあそれでも、事務所に所属する人間の中では、ダントツに取っつきやすいことは間違いない。
「本当に久々ですねぇー、一ヶ月ぶり、二ヶ月ぶりぶり?」
「一ヶ月半ぐらい、だね。他のメンバーとはそこそこの頻度で顔を会わせているけど。忙しくて、ここには足が向かなかったかな」
「そかそか、なら絶賛自宅警備中の私と会ってないのも納得っすね!」
もちろん、文字通りの意味で警備中なのだ。仕事柄、恨み辛みには事欠かないので、誰か一人は常に待機しているらしい。事実、ぼくが知っているだけでも、彼らの拠点は五回ほど変わっている。場所を知られたのか、実際に襲撃にでもあったかまでは把握してないが。
「そいえば咲っちゃん、前の事件で怪我したってオーナーから聞いたっす。なんか銃弾撃ち込まれたらしいじゃないすか」
と、志鳥ちゃんは、可愛らしく首を左右にくねくねと傾げながら聞いてきた。
「ああ、うん。警察からお借りした防弾チョッキのおかげで、怪我らしい怪我もしなかったよ。さすがに気絶するほど痛かったけど」
「ほえー、チョッキ着て鉛玉ぶち込まれるって、どこのマフィア抗争かって感じっす。咲っちゃんって、ザ・王道美少女って感じの大人しそうな顔しといて、いっつもやる事が結構ギャングな感じっすよね」
ギャングな感じってなんだよ。
と突っ込みたかったが、あまり可愛くない話題なのでスルーする。それに、銃だの鉛玉だの、閑散とした人通りとはいえ、公共の道上で開け広げにしていい内容ではない。
ぼくはもう一言二言、話を続けた後、「それじゃ、掃除頑張ってね」と切り上げて、上へと昇る階段に足を進ませようとしたところ、
「あ、わたしも事務所戻るっすよ! ちょっと待ってくださいね、すぐ終わらせるっす!」
と、ささささっ、と駐車場に入り込んでいた枯れ葉を車道に追いやって(ほんのちょっとだけ動かして)、階段裏のスペースに、ばたんっ、と箒を置いて(投げて)、
「さ、行きましょう!」と、志鳥ちゃんは元気にぼくの前を歩き出した。
……や、もういいんだけどね。
ぼくは半ば圧倒されながらも、置いて行かれないよう、彼女の後ろについていった。