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道行く、雑踏、雑踏、雑踏。
夕方、部活帰りの学生。仕事上がりのスーツ姿。買い物袋片手に、もう片手に小さな子供の手を引く主婦らしき姿。
ぼくは、歩いていた。
背筋に、一本の芯通すように。そうすると自然に顎が引き、脇が閉まる。一歩一歩、交互に、かかとから地面に下ろし、足裏の中央、それから親指の付け根に体重移動する。腕は真っすぐ、後ろにのみ振ることを考えることで、余計な姿勢のブレが無くなる。
礼儀作法のアンドリア先生から教わったことを、意識的に実行しながら、界隈を通り過ぎていく。
オフィスビルに雑居ビル、薬局、定食屋、カフェ、コンビニ、ファッションウインドウ。色々なものがごった返した、ちょうど境目というような場所。
ちらと横目に、ガラスのような壁をこしらえたビルに――正確には、そこに映った姿が目に付く。
長袖の白いブラウスに、青く短いカジュアルネクタイはリボンのよう。藍色のプリーツスカートから生足を晒している若い女。
ただひたすら整っている、まるで作られたかのような整然たる顔つきは、触れるのが怖くなるような、芸術品を思わせる。染み一つさえない絹肌は、だが行き過ぎて人間味さえ無くなっている。暗い金髪は針金が通っているかのごとく、一切の歪みも曲がりもなく、肩下で揃えられている。夕焼けの光を曇りなく反射するそれは、神々しさまで醸し出していた。
通り過ぎる誰もが、振り返る。
視線を感じる。
完全で無欠、一片の隙なく、一点の陰りもない、街を往く美少女。
――ぼくだ。
にっこりと、鏡越しにこちらを伺っていたサラリーマンらしき男性に微笑んでみる。目をぱちくりさせて、瞬く間に頬が上気した。
「うふふっ」
中学生のような初心は反応がかわいらしくて、思わず笑みを漏らす。
機嫌をよくした僕は、スキップ気味に、ぶんぶんと大きく腕を振って――だが、あくまで微笑ましくはしゃぐ女の子然になるよう計算して、歩いていく。
*
四十崎の屋敷を抜け出して、四年。
ぼくは美少女から、神に愛された超絶美少女へと進化していた。
――別に、まだ女でいることに必然性はない。もう『道具』ではなくなったぼくは、男に戻ることもできる。
実際、戻ってみたこともある。初めて履いた男物のボトムスに、若干の窮屈さと嬉しさを感じながら、無駄にるんるん気分で出歩いたりもした。
だが、どこに行っても、何をしていても、周囲の奇異な視線は途切れず、異物は異物のまま警戒され。
有り体に言うと――不便だった。
トイレに入れば、毎回飛び上がるように驚かれ、憧れだった銭湯に行けば、危うく通報されかける。デパートで迷子を親御のもとへ届けた時の、無邪気な「お姉ちゃん、ありがとう!」に心を折られたり。
髪を短くしたり、服装を変えた程度では、拭えない違和感。
「維咲様は、男だとか女だとか、そういうのじゃなくて、女によく似た見た目の、美少女もどき不思議生命体っていうことでいいんじゃないでしょうか。いちいちへこまれると面倒で目障りです」
とは、付き人の弁。口が悪いのは、共に過ごした時間が長い証拠だが――それにしても結構酷い。
(その付き人とも、昨日、結構本気の喧嘩しちゃったんだけどね……)
考えて、かぶりふる。過ぎたことを思っても仕方がないし、そんな余裕もない。
気を取り直して、進行方向に意識を向ける。
――と。
信号待ちの人だかりの中、ピアスをじゃらじゃらと付けた男と、茶に染め上げた髪をオールバックにした男に言い寄られる、肩を縮こませているスーツ姿の女性――ナンパだ。
周りの人影は、不自然な半円を作るようにして、手元のスマートフォンとにらめっこしたり、我関せずでポケットに手を突っ込んでいたりしていた。
「ふむ」
と、口に出して、一切躊躇わず、ずんずんと半円の中に進んでいく。
ざわっ――と周囲からどよめきが起こる。物好きが止めに入ったからか、それが美少女だからか。
何事かとたじろぐ男達の前に、焦りも急ぎもせず、当然のように近づいたぼくは、意味ありげに耳の後ろ辺りの髪を払う仕草を見せた。そして笑顔で、
「やめなよ。そーいうの」
とそれだけ言った。
それだけで、彼らは時が止まったように、その場に立ち尽くしてしまった。タイミングよく青になった信号を見やって、同じく固まっていたOL風の女性の手を引き、彼らの脇を通り過ぎて横断歩道を渡った。
しばらく歩いて、「あ、あの……」と、俯きながら赤ら顔でぼそぼそと呟く彼女からぱっと手を放し、
「じゃ、ね。君、可愛いから気を付けなきゃだめだよ」
ほう……と息を吐くように、先ほどまで繋いでいた手を胸の手の前で抱きしめるように、彼女はじっと、こちらを熱を持った瞳で見つめていた。
ぼくはひらひらと手を振って、後ろを振り向かず、また同じ速度で歩き出す。
気が付けば、先ほどの胸のつっかえは、若干ましになっていた。
――単なる八つ当たりだったのかと、胸中で苦笑する。そういえば昔もこんなことがあったような気もする。外見は少々変わっても、内面は相変わらずらしい。
目的地は、もうすぐだ――
*
「何をしてやがるんですか、この鉄面美少女」
だが、待ち人は目的地に着かぬ前に現れた。清涼感がある白いワンピースの女は明らかな呆れ顔で、行く手の道端、腕を組みながら溜息をついていた。
「あなた、百歩歩くごとに一人落とさないと死ぬ呪いにでもかかってるんですか。それとも前に『手が足らない』と言っていた意味は、ここらで適当に何人か誘惑して、またあなたの言うことを何でも聞く愛奴隷戦隊でも設立することだったんですか」
「……前者はともかく、後者は一考の余地あり、かもね」
答えると、彼女は無言で数歩後ずさった。「冗談だよ」と言ってみるが、
「完全に目がマジでした。本気と書いて本気。わたしは維咲の行く末が心配です。いつの日か、嫉妬に怒り狂った男共に首を締め殺される未来がまざまざと」
「そこは男共じゃなく――いや、間違ってはいないのか」
軽口をたたき合い、隣に立って歩き出す。ぼくより頭一つ分背が高い彼女と並ぶと、ぼくが子供みたく見えるのが悩み――小さい頃はぼくのほうが背が高かったんだけど。
慎侑夕。ぼくの屋敷からの付き人だ。やや釣り目できつそうな目、だが眠たそうでぼやっとしているという、不思議な雰囲気を漂わせている。すらりとした長身は引き締まっており、体のラインがあんまり出ない服でも、スタイルが良いことが分かる。うなじの辺りでサイドアップにした長めの黒髪と合わせて、可愛いというより、美人という言葉が似合う。
「実際、どっちが好きなんですか」
歩き出した横から、腰を折り、顔を近づけて小声で彼女が尋ねてくる。こんな時に、こんな街中で話す会話じゃない――だから小声なのか。気を遣うポイントが昔から若干ずれている。
「さあね。好きになった人の性別じゃないの。考えられないけどね」
投げやりな答えに、侑夕は「まあ」とわざとらしく口に手を当てた。
「取りようによっては両方となりますが」
「……ぼくがもう一人、目の前に現れたら確実に好きになる自信があるよ」
「ただのナルシスト野郎でしたか。その場合……あれ、どっちになるんでしょう」
「知らない」
*
しばらく歩いていると、空は、夕方から夜に移ろうとしていた。早々と電柱に明かりが付き出した道では、行き交う人の傾向も変わりだした。人の数は減り、スーツ姿から、多種多様で雑多な装いをした人が増える。
また周囲も、先ほどとは異なる趣を見せだしていた。オフィスビルは無くなり、雑居ビルが立ち並ぶ道。頭上、ビルから道に突き出すように立てつけられているのは、食べ物の写真などを背景に、各階の店名が書かれた看板。たまに堂々と道を塞ぐように置かれていたりするものもある。大体は居酒屋のものだが、何やらピンクっちい看板も紛れていたりする。
「侑は……もう怒ってないの?」
頃合いになったのか、ちょっとずつ増えてきた客引きらしき男を、微笑み一つで真っ赤に凍らせながら――変わらず、ぼくの小さい歩幅を合わせながら隣を歩く侑夕に尋ねた。
「今日は、ほら……結構ヒートアップしちゃったけど、なんかいつも通りだなーって思って」
自然に自然に――と思っていたはずが、たはは、と誤魔化すような乾いた笑い声が出てしまう。
侑夕は、半眼になりながら、
「人を気遣う余裕があるんですか、あなたは。というか、当たり前のようにまた……」
と、肩越しに固まった男を見やる。「実は魅了とかいう魔法が使えたりしませんか」と言うので、「そんな非常識なことは出来ないよ」と返した。
と、突如、侑夕がその場に立ち止まった。数歩遅れて、つられてぼくも足を止める。
彼女は一度目を閉じて、鼻からゆっくり息を吐いた。言う。
「――私が昨日怒った理由、なんだかお分かりですか」
「え?……えーと、危険事に足を突っ込もうとしてるから?」
「それは別にどうだっていいんです――いえ、どうでもはよくないですが。あなたに付いていくと決めた時点で、平穏無事な日々は諦めてます。石橋が無ければターザンジャンプで渡ろうとするような人間に元から期待していません」
随分とワイルドな例えで表現されてしまった。正直、それはどの程度の無謀具合なのだろうかとか、そもそも無謀さを表すのなら、他の的確なことわざがあるんじゃないのかな、などと取り留めなく考えていると、「他意はありませんか」と尋ねてきた。
「……他意?」
「はい。今回の無茶は、維咲様が屋敷を出るきっかけになった物を手に入れるため、だということですが、それにどういった意味があるのか、教えてください」
「意味って」
それは、これまで何度も伝えてきた話だ――今更の展開に、彼女の言わんとすることがいまいち分からず、頭を悩ませていると、侑夕は手のひらをこちらに向け、待った、というような仕草をした。
「分かりました、率直に聞きます。それに恋愛がらみの感情はございますか」
「は?」と、思わず素の声で聞き返してしまう。だが、彼女は真剣そのもの眼差しで、ぼくをじっと凝視していた。
「…………」
「…………」
互いにしばし、見つめ合いながら沈黙し――
つい、と侑夕はぼくから目を逸らした。
「……まあいいです。今のところはこのぐらいにしておきます」と、逃げに走る悪役のような口ぶりだった。
「それに、昔から人の言うことを聞く人じゃなかったですからね。言い出したら絶対に引きませんし――毒を食らわば皿までというか、乗り掛かった泥船というところでしょうか」
と、ぼやく。だが、勘違いかも知れないが、どことなく楽しげだ。
「ぼくは毒で泥船なの……?」
「自覚がないとでも」
反論の声は、白けた顔で瞬時に返されてしまう。
うぐっと言葉につまったぼくは、肯定も否定もせず、沈黙を決め込んでいると、
「わわっ!?」
急に手を引かれ、数歩たたらを踏む。侑夕が、ぼくの手を取り、突然早足に歩き出した。
「さすがに、ちょっとのんびりし過ぎたみたいです。急ぎますよ」
「えっ、そうなの?――って侑、自分で歩けるからっ」
だが彼女は手を放す気配無く、ぼくを引っ張りながら、人をかき分けて進んでいく。
ふいに見えた横顔は、普段通りのぼやっとした無表情だが、なんとなく上機嫌に見えた。
――結局、彼女が言いたかったことが何だったのか、なぜ機嫌が直ったのか分からないまま。ぼくはされるがまま手を引かれて、すっかり夜になった繁華街をすり抜けていく。